鏡の向こうは妖の星––忘却の花嫁––
蒼空光
1.青天の霹靂
【零協会】総務部門勤務 朝比奈光希 十九歳
仕事は終わったはず、なのに何故か私は会長室に呼び出されていた。
午後九時。
静まり返った協会の廊下を、光希は一人で歩いていた。–––理由は聞いていない。ただ、来て欲しいと告げられただけだ。
––––協会の中で、会長は私の事を名前で呼んだりしない。
何かがある。わかる事といえばそれだけだった。
エレベーターに乗り、十七階のラウンジへ向かう。
ラウンジの管理者に話を通してあるから、と言っていた会長の言葉通り、問題なく最上階に向かうエレベーターに乗る事が出来た。
エレベーターのボタンを押した瞬間、キィ……と微かな金属音が耳を掠める。
まだエレベーターは動いていない。最近、こういう妙な音が聞こえるようになった。
––––緊張、してるからかな……?
漸く動き出すエレベーター。十七、十八、ランプが移動する度に小さく息を呑む。十七階より上のフロアは管理職しか上がれない。つまり光希にとっては未知の世界だ。
最上階の二十階でエレベーターは止まった。軽快な音を伴って扉が開くと、緊張から自然と背筋が伸びる。幾分落とされた照明の下を歩き、会長室のドアの前に立つ。
––––やっぱり、緊張する……。
会長室に入る事はおろか、このフロアに足を踏み入れた事もない。初めて協会の入り口に立った時と同じ様な緊張感に包まれているようだった。
深呼吸を一つ。
意を決してドアをノックすると、どうぞ、と柔らかな声が答えた。ドアを開けると、目の前のデスクに会長が座っていた。
「こんな時間に呼び出してすまないね。ああ、緊張しなくても良いから。入って来なさい」
「……は、はい」
部屋に入ってドアを閉めると、どうぞ座ってと応接のソファへ案内された。
促されるままに腰掛けたが、やたらと座り心地が良い。このソファ、高いんだろうな……と余りにも場違いな疑問が生まれて小さく首を振る。
––––こんな時に、何考えてるのよ私……!
「今まで仕事していたのかい?」
「あ……はい……。丁度帰ろうと思っていたところで」
「そうか。では仕事はもう終わり、という事で良いかな」
はい、と小さく返す。柔らかい表情に穏やかな言葉づかいの会長、葉月礼央。
齢五十を目前としている筈だが、どう見ても三十代にしか見えない。皺もシミも無い端正な顔。年齢不詳という言葉はこの人の為にあるのかもしれない。
いつもと変わらない様子に、ほんの少しだけ緊張が緩んだ。
何か重大な規定違反でもしたのかと、冷や汗をかきながら来た事は黙っておく事にした。
「本題に入ろうか。君に来てもらったのは頼みたい事があったから」
「頼みたい……事ですか」
「うん。環奈のサポートをお願いしたいんだ」
「……と、言いますと……?」
「異動してもらおうと思っているんだ」
落ち着きかけていた筈の心拍が、異動の言葉に跳ね上がる。寝耳に水とはこのことか。
「異動……ですか」
「うん。異動先は【特殊犯罪対策部門】だ」
「……えっと」
余りにも急な話だった。今何月だっけ、と覚束ない頭で考える。語彙力がどこかにいってしまったのか、えっと……あの……しか出てこなかった。
「何か不安な事があるかい。何でも言ってくれてかまわないよ」
––––不安しかないんですが……。
なんて言えない。口を滑らせそうになり、無言を貫く。
何故なら、だ。光希はまだ入社二年目。覚えた仕事もそこまで多くない。いきなりあそこへ異動になって、やっていける自信は無い。
––––零協会の【核】に、私が行くの?
正直役に立てるとは思えない。現場仕事が殆ど、としか聞いた事がない。私は何をするんだろう。……いや、そこじゃ無い。
「……会長」
「うん」
「どうして私なんですか?」
単純な疑問が口を突いた。何故勤続二年目の自分なのか、だ。もっと優秀な人は幾らでもいる。
「適材適所という言葉がある。つまりはそういう事だよ」
そう言われてもいまいちピンとこないのだ。どこが自分の適材なのか。聞き返す勇気は、無い。
「……では私は何を?」
人が足りていないとは聞いた事がある。猫の手でも借りたいということなのだろうか。……猫の手の方が、まだ使えそうな気がするけれど。
「君には事務作業を一手に担って貰いたい。光希さん、パソコン得意だよね。データ管理に関するシステムは未だ不完全。資金不足で外部委託する余裕もなくてね」
「ああ……はい。では私が現場に出る事は」
「無いよ。そこは安心してくれていい」
「そうですか……」
「嫌なら断ってくれても構わないよ」
付け足す様にそう言った会長と目が会った。穏やかな笑みを浮かべている、が。
––––目が全然笑ってない……。
断ってもいい、とは言ってくれている。だが目の奥に強い光が宿っているように見えた。異動は会長の中では決定事項、と見て間違いなさそうだ。
「詳しい話は君が異動を受けてくれてから……かな」
「……分かりました。お引き受けします」
「おや?本当に良いのかい」
「はい。私で力になれるのなら」
「そうか。ではこの事は環奈に伝えておくよ。こんな時間に呼び出してすまなかった。寮まで送るから準備が出来たらラウンジで待っていなさい」
「ありがとうございます。失礼致します」
一礼をして会長室を出た。ドアを閉めた後張り詰めていた糸が切れた。
静まり返った会長室の前で立ち尽くす。
––––本当に、私で良かったの?
結局この疑問は直ぐにはなくならなかった。
ただ、この選択が運命を大きく変える事になるとは、この時の光希はまだ知る由も無かった。
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