Egg

おもちちゃん

Egg

 相変わらず僕はいた。

 部屋の四方は真っ白な壁に囲まれていて、どこにも出口はない。

部屋には何もない。ただ僕がいるだけだった。

 僕はどこから来たのだろう。


 憶えていなかった。しかし、目を開けると、僕は部屋にいた。

今だけが地続きの現実から切り離されて、それだけで存在しているようだった。

ただ、今もなお現実の一端である事を知らせるように腹ばかり減るのだった。


壁が窪んだ。

そこから白色のトレーが出てきて、トレーの上に窪みの上部にあったチューブから黄色の半固形物が絞り出された。それを見て、僕は排泄を思い浮べた。

仕方ないのでトレーを手に取った。近くで見ると、黄色のそれはスクランブルエッグだった。壁の窪みはトレーを手に取るとなくなった。


僕は素手でスクランブルエッグを食べた。こうしてスクランブルエッグを食べるのは7回目だった。

部屋は大体8時間おきに壁からスクランブルエッグを出した。部屋にはもちろん時計などはないので、8時間というのは僕の体感の時間に過ぎない。しかし、これが正しいとなると僕は部屋に来て2日が過ぎたという事になる。


部屋に来て、しばらくは外に出る事を考えた。

まず四方の壁を全て調べ、なにかドアノブやスイッチはないかと探した。

壁を注意深く触ってみると、僕が壁そのものではなく、手前にある薄い膜のようなものを触っている事に気が付いた。

それは皺ひとつなく壁に貼られ、意外にも強度があるらしく、引き裂いたり突き破ったりする事が出来ない。

僕は壁を殴った。壁は脆くも崩れたが、膜が邪魔して外へ出る事は叶わなかった。


僕はすっかり部屋から出ようとする気がなくなってしまった。

スクランブルエッグにも食べ飽きてしまって、手のひらに少し乗せると壁に投げつけた。投げられた卵は壁に届かないで床の上にべちゃりと潰れた。

僕は無性に馬鹿にされた気分になって部屋に向かって怒鳴りつけた。

一度怒鳴り出すと、止まらなかった。

抑えつけていた腹の底の重たい怒りは身もだえする程燃え上がり、僕の中から顔を出した。


喉が辛かった。止めどなかった怒りはとうに止んでいた。

今では部屋の無音が騒がしく、怒鳴った自分を責め立てた。

促されるように僕は床に落ちたスクランブルエッグを拾うと、ゴミ箱もないので口に運んだ。


目覚めた僕はすでに部屋からスクランブルエッグを与えられている事に気が付いた。僕は食べた。腹の底にあった怒りはもうすでになくなって、今や僕は空っぽだった。その空っぽに僕はスクランブルエッグを詰め込んだ。

腹は満たされたが、空しい思いだった。

怒りが通り過ぎた頭で部屋を出ようと考えても部屋に来てからの徒労が思い起こされた。


部屋を出るのは諦めた。そう心のどこかで思うと、壁を殴って大きなヒビを作った事がなんだか申し訳なくなった。無機物に申し訳なく思うのはおかしな話だが、部屋に来てから起きている間は壁を眺め続けていると心が勘違いをして壁に入ったヒビが生傷のように痛々しく見えてくるのだった。

「悪かった。」

僕の口から無意識に出てきた言葉だった。何についての謝罪なのか分からなかった。だが、そう言わなければ重い荷物を背負いこむ気がしたのだった。

 僕の視界の端に天井から何か、落ちていくのが見えた。落ちた場所を見てみると潰れた生卵があった。もしかすると…。


僕は天井を見上げて「悪かった」と言った。

すると、天井に小さな穴ができると、そこから卵が落ちてきた。

僕は慌てて落ちてくる卵を受け止めた。

僕は卵が落ちてきた事よりも部屋が僕の声に反応した事に驚いた。

僕と部屋は言葉を介して繋がったのだ。この繋がりは僕の声を今まで無視していた事への怒りよりも純粋な喜びを誘った。僕は卵のお礼に壁を撫でてやった。


その日のスクランブルエッグにはケチャップが付いてきた。

「ありがとう。」

僕は言った。部屋は何も返事をしなかったが、僕を良く思っているのは確かだ。

僕は久しぶりの酸味を楽しみながら食事を終わらせた。

床に置いていた卵を見た。

これにどういう意味があるのだろうか?

僕は卵をつまみ上げると調べあげ始めた。普通の卵のように見える。

床にたたきつけてヒビを入れる。殻を剥くと薄い膜が出てくる。

その膜を通して中が見える。白身と黄身だ。

僕は本能的な直感で部屋の壁が卵と同じように殻と膜で出来ている事にただならぬ共通点を感じた。部屋は、部屋ではなく卵なのだ。


では誰の卵なのだろうか? それが何よりも重要だ。この疑問は簡単だった。僕だ。と言うよりも僕しかいない、という表現が正しい。

なぜなら、部屋には僕以外何もないのだから。


これらの疑問の答えが正しかったとして、僕はどうやったらここから出られるのか? 僕の中で脱出への渇望がにわかに沸き立った。

卵は普通、中の者を閉じ込めるためにあるのではなく、生まれる時まで守ってやる役割を持つ。では、 生まれる時とはいつなのか?

「いつまでここに居ればいい?」

僕は部屋に聞いた。

部屋から応答はなかった。部屋はあくまで卵の殻なのだ。卵の殻が答えを知っているはずがない。答えを持っているのは卵の黄身の方なのだ。だのに僕はこの質問に答えに窮してしまった。

僕が答えを持っているのならば、部屋から一秒でも早く出てもいいはずなのだ。なのに、出られないのは、僕に問題があるのだ。


同じようにケチャップ付きのスクランブルエッグが出された。

今回はおまけにコーヒーまでついてきた。僕は飽きたスクランブルエッグをコーヒーに流し込んだ。

「なぁ、スクランブルエッグ以外にも何か作れないのか?」

僕は言った。部屋は恥じているようで静かなままだった。


僕には一つの思い付きがあった。試しに部屋に聞いてみるのはどうだろうか?

僕の言葉に反応して卵を落としてきたように何かあるかもしれない。

今や部屋と僕には有機的な繋がりがあって、部屋に甘えるような事をしてもいいのではないか?

「どうやったら出られる?」

何もない。

「出してくれ。」

何もない。

「分からない」

何もない…。


「本当に出たいの?」

不意に部屋が言った。いや、実際のところ部屋が言ったのではない。僕の心にこの考えが訪れた。

「もちろんだ。」

「貴方が私を作ったのよ。」

不思議な会話だった。僕の一つの心に二つの人がいるようだった。

「それすら、わからないのね。非道い人。」

部屋が言うと、部屋の四隅から透明な液体が染みだしてきた。

それは止まる事なく、湧き始めた。

それは少しの粘性があるようでびっこを引くように広がっていく。

触るとそれは水ではない。つるつるとしていてネバついている。白身だ。

部屋に広がっていく白身を避けて部屋の中央に移動した。

「やめてくれ。」

僕は言った。部屋は話を聞かず、頑なだ。

部屋の床は白身で満たされた。

殺される。

湧き出す勢いは増す一方だ。僕は滑らないように気を付けながら部屋の隅に行って、手で白身を止めようとした。両手の隙間から白身は溢れ出る。

何とか湧き出るのを抑えようと服を脱いで隅に押し込んだ。

その間にも白身は湧き出て、膝下まで白身が部屋に溜まっている。どうしようもない。

「助けてくれ。俺が悪かった。怒らせてしまうような事を思ってしまって。もういい。部屋から出なくて。」

部屋は何も語らない。白身はへその下まで溜まった。ネバつく白身は僕の足にまとわりついて動けない。

「分からない。君がこんなに怒るなんて。忘れてしまったんだ。何もかも。すまなかった。」

白身は部屋を徐々に満たしていく。白身が部屋を満たす頃には、僕の足は中を浮いて白身の中をもがいた。僕のもがきも空しく、段々と部屋の天井に近づいていく。僕は片手で天井を押しながら、

「頼む。助けてくれ。」

僕は言った。すでに白身は僕の顔の横までせり上がっていた。動く度に白身が口の中に入って呼吸に絡みついてくる。白身は絡みつく癖に飲み込むと喉をつるつると滑っていく。

 僕の願いが通じたのか、白身が止まった。

天井が僕を白身の中に押し込んだ。僕は空気を求めて白身から顔を出すも、天井が僕を白身の中に押しとどめようする。天井を両手で抑え、必死に口を白身の中から出して空気を吸う。

「助けてくれ。」

白身を飲み込みながら、僕は言った。心で部屋に助けを求めた。

「助けてくれ。せめて返事をしてくれ。何か言ってくれ。どうして僕がこんな目に合うのかさえ知らずに死ぬのは嫌だ。」

僕はもがき、天井をひっかいた。

白身の中で僕の動きは緩慢で、傍から見れば間抜けだ。クロールのように手を回しながら天井をひっかく。

せめて部屋を傷つけてやる。僕を殺したこの部屋が僕をきっと忘れないように。その時、回した腕に壁がぶつかった。


 僕が大きくなっていたのだ。僕はどうしようもなく大きくなっていった。壁と天井が僕を押し潰し、服のように僕にくっついた。そして限界を迎え、部屋は破れた。


 僕は白身と共に外へ出た。

僕が目を開けると、何もない砂浜のような場所だった。

凸凹としていて、遠くに山々が連なっている。

生き物のいない、荒涼とした寂しい場所だ。僕は立ち上がり、後ろを見た。

地球があった。すると僕がいるのは月だったか。僕は地球を見た。地球は丸かった。なるほど、地球も一つの卵だったか。では、誰の卵だろう?

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