雪が秩序だった世界
水到渠成
第1話雪が秩序だった世界
雪は、現象ではなかった。
それは世界を支える前提として、最初から存在していた。
降下は常に一定で、増減を持たない。
空と地面の区別は保持されていたが、その意味はすでに失われていた。
雪は触れることができ、同時に触れる必要のないものでもあった。
最初に機能を停止したのは時間だった。
時計は存在していたが、計測を行わなかった。
針は円環の上に留まり、雪を載せたまま傾き、やがて落下した。
過去と未来は順序を失い、同時に配置された。
誕生と死、開始と終了は、同一の層に重なっていた。
昨日生まれた子どもが、老いた身体で道を横切る。
何百年も前に死んだ兵士が、新聞を買って帰宅する。
それらは異常ではなかった。
異常を判断する基準が、すでに解体されていた。
暦は白紙となり、予定という概念は消失した。
待つことと起こることの差異はなくなり、出来事は発生ではなく、滞留として存在した。
次に、重力が解体された。
上と下は維持されていたが、従属関係を失っていた。
影が身体から剥離し、雪とともに上方へ移動した。
影は形を保ち、輪郭を持ち、歩行した。
街には二重の密度が生じた。
人間と影が同じ割合で交差し、同じ速さで移動した。
どちらが実体であるかを確かめる行為は行われなかった。
本体という概念は、すでに無効化されていたからだ。
影は壁を通過し、天井に足跡を残した。
身体は地面を歩き続けた。
両者の間に連絡はなく、断絶もなかった。
断絶という言葉が示す状態自体が、成立していなかった。
やがて、言語が分解を始めた。
新聞の文字は粒子化し、触れるたびに消失した。
読むという行為は保持されたが、結果を伴わなかった。
発話は雪の結晶に変換され、交換の途中で融解した。
人々は雪を投げ合い、受け取ろうとしたが、意味は到達しなかった。
残ったのは、意味の不全ではなく、未到達という状態だけだった。
固有名詞は最初に消えた。
次に、名詞そのものが薄れた。
代名詞だけが循環し、指示対象を失ったまま使用された。
記録は成立しなかった。
書かれたものは保存されず、読まれたものは保持されなかった。
記憶は存在したが、参照先を持たなかった。
この時点で、秩序という語は再定義された。
雪は新しい体系を構築してはいなかった。
既存の関係を分解し、保持せず、不在として残す。
それが雪の作用だった。
街路樹は形状を失い、氷状の言葉を枝として保持した。
それらは意味を持たず、発音もされなかった。
海は連続性を解体され、紙片状の雪として風に運ばれた。
大陸は覆われ、境界線は消失した。
太陽は巨大な塊となり、空間に固定された。
光は拡散し、熱は保持された。
雪は燃焼しながら降下した。
この頃から、差異が観測され始めた。
雪に完全に適応する存在と、なお身体感覚を保持する存在。
それは対立ではなく、温度差として存在した。
前者は降下を受け入れ、後者は融解を続けた。
抵抗は発生しなかった。
拒否という語が指す行為は、すでに成立しなかった。
ただ、融解しきれないものが残った。
痛覚、重量、遅延。
それらは誤差として存在し、完全な秩序の中で微細な揺らぎを生じさせた。
その揺らぎは拡大しなかったが、消失もしなかった。
雪はそれを排除せず、回収もしなかった。
揺らぎは秩序の内部に保持された。
最後に、主体が溶解した。
自己と他者を区別していた境界が、機能を停止した。
存在は互いの内部へと拡散し、名指しは不可能となった。
すべてが「私」として発生し、
すべてが「あなた」として回収された。
発話者と受信者の差異は消滅し、
応答は循環となった。
その後、運動が停止した。
法則は雪に置換され、世界は一つの作用だけを保持した。
降下。
蓄積。
それ以外の動詞は、不要となった。
雪が秩序だった世界 水到渠成 @Suito_kyosei
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