さようなら、お姉様。

夜明け前の空気は、息をするたびに肺を刺した。

屋敷の裏門。石畳に薄く霜が降り、降りしきる雪は世界から音を消し去る。


少し離れた場所に、近衛の兵が二人。

命令なのだろう、こちらを一度も見ようとしない。


「護送用の馬車が来るまでここで待て」とだけ言われ、私はただ立ち尽くしていた。

拘束の縄が手首に食い込み、皮膚を焼くように痛い。逃げる気など、とうにないのに。


あの断頭台の影が遠くに見えた。

ユリウスは死んだ。私を庇って、存在しない罪で処刑されてしまった。


ユリウス。私専属の執事。

いつも冷たい目をしていた。感情を見せたことがない人だった。

皮肉屋で、毒舌家で、意地が悪い、嫌なヤツ。

けれど誰よりも誠実で、誰よりも優しかった――そんなことを、死んでから気づくなんて。


私はこれからどうやって生きていこう。

全てを失った。地位も、名声も、家族も、私を叱り、支えてくれる人も。


「ロザリアお姉様」


声に顔を上げる。

そこには、妹のエミリアがいた。

きっと、最後の別れを言いに来てくれたのだ。


「……ごめんなさい、お姉様」


エミリアの声は震えていた。


「本当は、お姉様がヴィルヘルム殿下を殺したなんて……信じてなんていなかった。お姉様がそんなことをするはずないって、ずっと思っていたのです」


彼女の手が伸びてきて、けれど私に触れる前に止まった。


「小さい頃からずっと、お姉様は私の憧れでした。だから……こんな形で終わるなんて……」


彼女は涙を拭い、震える唇で微笑んだ。声が泣き笑いのように揺れる。


「どうか、生きて。お願い……それだけは、どうか」


あぁ、エミリア。

貴方だけよ、こうして私に逢いに来てくれたのは。


「どこにいても、お姉様は私の誇りです」


優しい笑顔。公爵家の面汚しである私を、こんなふうに赦してくれるのは、もうこの世に彼女しかいない。


エミリアは私を抱き締める。


「エミリア……汚れるわ」


そう言いながらも、私はその腕を拒めなかった。

彼女の涙が外套に染みていく。


……そのときだった。


ずぷり。

嫌な音ともに、背中に熱が広がる。


「……ぁ?え?」


情けない声が漏れた。

肺の空気が一気に奪われ、口の中に鉄の味が広がる。

抱きしめられていたはずの腕は、今や私を固定し、逃がさないための拘束具へと変わっていた。


​「……あはっ、お姉様、本当に無知で……どうしようもない程に、馬鹿なんだから」


​耳元で囁かれたのは、鈴を転がすような、けれど凍りつくほど冷酷な笑い声。

エミリアは私の背中に深く、深くナイフを突き立てたまま、それをゆっくりと横に抉った。


​「お姉様、ありがとう。あなたが死ねば、私が皇太子――セオドール殿下の婚約者。あなたが殺したことにしたヴィルヘルム殿下の資産も、全部私のもの。」


​彼女がナイフを引き抜くと、どっと溢れ出した鮮血が雪を赤く染めていく。

エミリアはうっとりと目を細めて笑っていた。


「お姉様、どうしてそんな顔をするの?エーデルハイト家の長女が皇太子と婚約する――それはこの王国の掟。でも残念ながら、長女であるお姉様は出来損ないの令嬢よ。だからね、私が"長女の座"を奪うことにしたの。」


エミリアは、私の耳に顔を近づける。


「屋敷の人たちに少し“偽物の真実”を教えてあげたのよ。あなたがとっても狡猾で、冷たい人だってこと……みんな信じてくれた。そうして私はあなたの失敗を誘って、悪評を広めて、家族を私の味方につけた。だから、あなたが処刑される時も誰も口を挟まなかったの。」


お父様、お母様。

不器用な私を、それでも愛してくれた、大切だったはずの家族。

みんなみんなエミリアの駒で、私の敵だったと言うの?


「そして――セオドール殿下と協力してヴィルヘルム殿下を消した。あなたに罪を被せるためにね。」


第二皇子セオドールとエミリアは手を組んでいた。

皇太子ヴィルヘルムが死ねば、次期国王の座はセオドールに回る。そして、その罪を私になすりつける。

その時、エミリアは名実ともにエーデルハイト家の長女となり、「エーデルハイト家の長女は皇太子と婚約する」という掟に則って、セオドールの婚約者となる。彼女は晴れて皇女となり、もはや誰も、彼女を「公爵家の次女」とは呼ぶことはなくなる。


優しく、聡明だったヴィルヘルム殿下。

まさか――彼は、私の妹に暗殺されたというのか。


「ねえ、素敵でしょう?今は私が殿下―――次期国王の婚約者。あなたの代わりに、ちゃんと皇女になってあげる。」


エミリアが腕を緩めると、私は雪の積もる地面へと崩れ落ちる。


「あぁ、ユリウス……あの冷徹な執事が、貴女を庇って処刑されるなんて。まったく、予想外だったわ。本当は、貴女を公開の場で辱めてやりたかったのだけれど……少々、邪魔が入ったわ。」


全てわかっていたの?わかった上で、ユリウスを巻き込んだの?


エミリアは高らかに笑うと、倒れ込む私に顔を近づけた。

彼女の狂気じみた瞳が、眼前に迫る。


「……ねえ、自分の浅はかさで、たった一人の味方まで道連れにする気分はどう?」


―――悪魔だ。


世界がひび割れた。

音も光も遠ざかっていく。

目の前にいるのは、天使のような妹なんかじゃない。

愛するすべを知っている顔をして、人を壊すためだけに生まれた悪魔。

私の中で、何かが完全に折れた。


殺してやる。

その忌まわしい首を、手で締め上げてやる。

そしてナイフを奪って、胸に突き刺してやる。


……体が動かない。鉛のように重い。


―――毒だ。

ナイフの刃に毒が塗られていたんだ。


「お姉様、そんな怖い顔なさらないで!大丈夫よ、出来損ないのお姉様に代わって、完璧な皇女になりますから。」


黙れ、この狡猾な悪女が……!

ユリウスを殺したくせに!

私の人生を壊したくせに!

自分の手を汚さず、笑って見ていたくせに!


「ごろ……じ、で、やる……」


毒が回っているのだろう。息ができない。

喉から出たのは、声ともつかぬ、潰れたような汚らしい音だけだった。


動かない手を精一杯動かす。

エミリアの首まで、あと数センチ。


「ふふ……さようなら、哀れなお姉様。」


殺してやる、殺してやる、殺してやる!


殺して、やる

殺して……やる……


ころし……て……やる…………

こ…ろ……し…て…………………………………………


………………………………

…………

……。

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