第3話 覚醒


鐘の音が、祝福に聞こえない。


手の甲が光る。

神官が俺の腕を掲げる。

歓声が上がる。

花びらが舞う。


何度見ても同じ始まり。何度目でも同じ顔。


――この先も同じだ。


俺は腕を引いた。

「ゆ、勇者さま?」


神官の手が空を掴む。どよめきが広がる。

それでも構わない。今は、息ができない。

 

俺は人波を押し分けて、大聖堂の裏へ回った。

石壁が冷たい。影が深い。鐘の余韻が遠くなる。

手の甲の紋章が、まだ光っている。

 

こいつだ。

 

ここに引き戻される場所。

俺を“勇者”に縛るもの。

 

吐き気がする。

俺は息を吸って、聖水盤の前に立った。

白い石の鉢に、水が静かに張られている。

祈りの水。浄化の水。

 

手を突っ込む。

冷たい。

その冷たさが、皮膚の表面じゃなく骨の奥まで刺さる。

 

俺は紋章を擦った。爪で、強く。 

水の中で光が揺れる。消えない。


擦る。

擦る。

痛い。

爪が割れそうになる。

消えろ。

消えろ。

 

紋章が、脈を打った。

 

――ドクン。

 

心臓じゃない。

手の甲が、手の甲の奥が、鼓動している。


世界が、きしんだ。

音が伸びる。鐘の余韻が引き延ばされる。

大聖堂の白が灰色に滲む。空の青が黒に落ちる。

 

水面に、別の景色が映った。


黒曜の床。

欠けた柱。

溶けた彫刻。

玉座。

魔王城。

 

息が止まる。

鉄の匂い。血の温度。剣が床を転がる高い音。

掴んだ手首の冷たさ。信じられない重さ。

 

そして、あの感覚。

 

心臓が裏返る。肺が縮む。視界が反転する。

音が途切れる。色が抜ける。熱が消える。

 

終わり。

始まり。

終わり。

始まり。

 

断片が、杭みたいに打ち込まれていく。

一つじゃない。二つでもない。数えきれない。


俺は水盤の縁に手をついて、喉を鳴らした。 

吐きたいのに吐けない。

 

(……俺は)

(俺は、何回――)


頭の内側で、誰かが笑った。


『遅い』

俺の声だ。

でも、今の俺じゃない。


景色が割れる。

玉座の間。

俺は剣を構える。

光が薄くなる。

魔王は詰めてこない。

俺が叫ぶ。踏み込む。掴む。


そして。


魔王が、剣を抜く。

自分の喉に当てる。

刃が走る。

赤が弾ける。

 

「……っ」

声が出ない。

喉が、凍ったみたいに動かない。


次の断片。

魔王の胸が、内側で光る。

弾ける。音もなく、炎もなく。血だけが黒く散る。


次の断片。

魔王が笑う。笑っていない目で。

次の瞬間、膝から崩れる。


どれも同じだった。

 

俺が殺したんじゃない。

魔王は、俺に殺されていない。


全部、自分で終わらせていた。

その事実が胸に落ちた瞬間、今まで溜めてきたものが一気に噴き出した。

 

怒りが来た。

次に恐怖が来た。

その次に、吐き気が来た。

そして、最後に――理解が来た。

 

魔王は、俺を殺せる。

でも殺さない。

俺が近づくのを待って、最後に自分で終わらせる。

それは偶然じゃない。癖でもない。

手順だ。


(なんで……)

口を開いても声が出ない。


(なんで、お前が……)

 

魔王の目が、あの一瞬だけ揺れる。

言葉にならない疲れ。長い長い疲れ。

その揺れが、今なら分かる気がした。


壊れてない。

壊れかけてるだけだ。まだ、選んでいる。

 

断片が最後にひとつだけ、形になった。


玉座の前に立つ“俺”の背中が、いつの間にか黒い外套を纏っている。

それを見た瞬間、喉の奥に嫌な納得が沈んだ。


……逃げ道は、最初から用意されている。

俺のために。


胸の底が抜けた。

拒絶が湧いた。

叫びたかった。

殴りたかった。

逃げたかった。


でも、その言葉は知っているという感覚と一緒に来る。

 

知らされるんじゃない。思い出してしまう。

 

――俺は、魔王になる。


それが逃げ道として用意されている。

膝が落ちた。石畳が冷たい。水が肘を濡らす。

息が浅い。視界が揺れる。

 

泣きたかった。

でも泣きたいのは俺じゃない、と思った。

 

泣くべきなのは

これから先の、誰かだ。

 

俺が魔王になって、また勇者を生む。

また誰かが、あの最上階に立つ。


手の甲が、また脈を打った。

まるで「当然だろ」と言うみたいに。

 

ふざけるな。

唇が震えた。

 

今度は声が出た。

「……ふざけるな」

 

俺は立ち上がる。脚が笑ってるのに、立った。

水が床に落ちる。冷たい音がする。


魔王のもとへは行く。

だが、用意された手順には乗らない。

次は、あいつが剣を抜く前に、止める。


そして、この仕組みの喉元を掴む。

 

鐘が鳴る。

祝福の音のはずなのに、今日ははっきり分かった。

 

これは、始まりの音じゃない。

檻の鍵が閉まる音だ。

 

水で濡れた手を握り締めて、歩き出した。


俺は――誰かの犠牲で回る世界なんて、絶対に認めない。

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魔王の間に入ると、魔王が勝手に死ぬんですが(※仕様) s @kelpie07

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