外伝EP02 知ってしまった、という地獄

 ※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。

 本外伝は、本編では語られなかった

「時間を越える前後に、人が何を失い、何を選んだのか」

その思考と感情の過程を記録するための物語です。



 2029/04/07 〜1週目・サラ視点〜


 春。


 病院の朝は、いつも少しだけ早い。


 外来の受付が動き出す前、廊下には消毒液の匂いが薄く漂い、まだ目覚めきっていない人の気配が残っている。

 靴音は控えめで、話し声も自然と小さくなる時間帯。


 サラは白衣の袖を整えながら、今日の外来リストを頭の中でなぞっていた。

 名前と年齢、簡単な症状。

 それだけでは足りないと、いつも思う。


 呼吸が浅い人。

 視線が落ち着かない人。

 名前を呼ばれる前から、すでに何かを怖がっている人。


 それを一人ずつ、ちゃんと人として迎えにいく。

 急がない。驚かせない。

 まずは、ここに来たこと自体を肯定する。


 それが、彼女の仕事だった。


 待合に視線を走らせた、そのときだった。


 白衣でもスーツでもない、少し場違いな青年が立っている。

 タブレットを胸に抱え、背筋を伸ばしているのに、どこか落ち着かない。


(……緊張してる)


 理由はわからない。

 でも、そう感じた。


 声をかける前に、患者の表情を確認する。

 驚かせない距離を測る。

 いつもの動きの中で、ふと、その青年の視線と重なった。


 一秒。


 ほんの一瞬なのに、妙に印象に残る目だった。

 逃げないのに、踏み込んでもこない。

 こちらをちゃんと見ようとして、距離を保っている目。


(この人……)


 サラの胸の奥で、言葉になる前の感覚が浮かぶ。


(根っこ、優しいな)


 判断というほどのものじゃない。

 分析でもない。

 ただ、そう思った。


 次の瞬間には視線を外し、患者に声をかける。

 青年は軽く会釈して、そのまま医局の方へ歩いていった。


 仕事に戻る。

 それだけの出来事。


 なのに、その日の午前中、何度か思い出してしまった。

 タブレットを抱えた姿。

 あの一瞬の、静かな目。



 何度目かの来院の日。


 データ説明を終えたあと、背中越しに声を掛けた。


「リクさん、で合ってる?」


 振り返った青年――リクは、少し驚いたように目を瞬かせた。

 その反応が、妙に素直で、少しだけ安心する。


 質問は具体的で、迷いがなかった。

 患者の変化を、数字としてではなく、「人」として見ている問い。


 カルテの言葉と、現場での感覚。

 その間を、どうつなげるかを真剣に考えている。


 タブレットを操作する彼の声は、説明に入った瞬間だけ、すっと研ぎ澄まされる。

 余計な言葉がなくて、でも冷たくない。


(……仕事、好きなんだ)


 そう思った。


 データの話なのに、ちゃんと「人の話」をしている。

 患者の顔が、きちんと見えている。


 それが、不思議と嬉しかった。


「今の“ですね”、好き」


 考えるより先に、言葉が口を出た。


 彼が一瞬だけ言葉に詰まる。

 その小さな間が、どこか人間らしくて、胸の奥が軽く弾んだ。


 ナースステーションへ戻る廊下。

 足音が、ほんの少しだけ軽い。


 理由はわからないまま、口元だけが緩んでいた。



 外来が落ち着いた夕方。


 白衣を脱いで、玄関に向かう途中、彼を見つけた。


 資料を整理している背中。

 仕事が終わっても、どこか緊張が抜けきらない感じ。


「お疲れさま」


 声をかけると、振り向いた彼の表情が、ふっと緩む。


 この人、

 誰かに声をかけられると、ちゃんと嬉しそうな顔をする。


 それに、少しだけ驚いた。


「今後も、直接聞いていい?」


 仕事のため。

 そう言いながら、心のどこかで答えは決まっていた。


 スマホを取り出す指先が、ほんの少しだけ熱い。

 連絡先を交換する一瞬、画面同士が近づいて、短い電子音が鳴る。


 春の夕方の光が、やけにやさしかった。


(ああ)


(私、もうちょっとこの人のこと、知りたいんだ)


 その気持ちを、はっきり自覚した。



 メッセージのやり取りは、思ったより自然だった。


 仕事の話から、日常の話へ。

 堅い言葉が、少しずつほどけていく。


 リクは、真面目で、少し不器用で、たまに変なことを言う。

 でも、そのどれもが作っていない。


 歩いた。

 観た。

 笑った。


 桜の残る川沿い。

 映画館の暗がり。

 水族館の青い光。


 気づけば、「次」が当たり前になっていた。


 この春、私はリクと出会った。



 夏。


 ひまわり畑は、想像よりずっと眩しかった。


 目に入った瞬間、言葉が追いつかなくなる。

 黄色、という一言では足りないほどの色が、視界いっぱいに広がっていた。


 背の高い花が、同じ方向を向いて並んでいる。

 太陽に引っ張られるみたいに、まっすぐに。


 足を踏み出すたび、乾いた土の感触が靴底に伝わる。

 空気は熱を含んでいて、呼吸をするたびに夏の匂いが胸に入ってきた。


 写真を撮る。

 シャッターの音が、やけに軽い。


「もう一枚」


 そう言われて、また構える。

 同じ景色なのに、さっきとは少し違って見える。


 汗が首元を伝って、背中に落ちる。

 笑うと、息が少し乱れる。


 丘へ向かう道は、思っていたより緩やかだった。

 でも、登るにつれて、足取りが少しずつ重くなる。


 頂上に立ったとき、風が通り抜けた。


 ひまわりのざわめき。

 遠くの車の音。

 全部が一段低くなって、世界が広がる。


 ここなら。

 ここなら、言える気がした。


 最初に見たときのこと。

 一秒だけ重なった視線。

 そこから、少しずつ近づいてきた時間。


 思い返すほど、特別な出来事はない。

 でも、どれもちゃんと積み重なっていた。


「隣にいてほしい人になってた」


 言葉にした瞬間、胸がきゅっと縮む。

 逃げ道を塞いでしまった気がして。


 でも、それ以上に、嘘をつきたくなかった。


 返事をもらって、

 手を繋いで、

 また風が吹いた。


 指先の温度が、はっきり伝わる。

 その感触だけで、胸の奥が静かになる。


 そのときのサラは、

 まだ何も知らなかった。


 この幸せが、

 どれほど静かで、

 どれほど壊れやすいものかを。


 この夏、私はリクに恋をした。



 秋。


 空気の冷たさと、まだ残る夏の名残が、ぎりぎりで同居している季節だった。

 朝と夕方で、体の感じ方が少しずつ違う。


 長袖に手を伸ばすか迷って、結局そのまま外に出てしまう。

 あとから少しだけ後悔するのに、それも悪くないと思える時期。


 都心から少し離れた海辺の温泉地。

 電車を降りた瞬間、潮の匂いが先に届き、遅れて温泉街特有の湯気の匂いが混ざった。

 鼻の奥に残るのは、どちらとも言えない、境目みたいな匂い。


「海、ちゃんと匂うね」


 思ったままを口に出すと、リクが少しだけこちらを見る。

 それだけで、ちゃんと隣にいるんだと分かる。


 少しだけ深く息を吸う。

 空気が肺に入ってくる感覚が、思っていたよりはっきりしていた。


「匂い、ログ取りたいな」


「またすぐデータの話?」


「だって、“海っぽい”って言葉、曖昧すぎない?」


「いいの。曖昧なまま覚えとくほうが、好きな時もある」


「……それ、ちょっとずるい」


 そう言われて、笑ってしまう。

 ずるいと言われるのは、嫌じゃなかった。


 坂道を並んで歩く。

 足音が自然に揃うのを、意識するでもなく感じている。


 古い旅館の看板。

 少し色あせた土産物。

 観光地らしい賑やかさの奥に、季節が一段落ち着いた静けさがあった。

 人の声も、車の音も、角が取れて聞こえる。


 宿のロビーに入ると、畳と出汁の匂いがふわりと広がった。

 外とは違う空気が、足元からゆっくり体に馴染んでくる。

 遠くで波の音が、一定のリズムで響いていた。


「……いいね、ここ」


 自分でも、声が少し低いと思った。

 感想というより、確認に近い。


「安心する匂いがする」


 そう言って、スマホを構える。

 シャッター音は小さいのに、その一瞬だけ、時間が区切られた気がした。


 浴衣に着替えて襖を開けたとき、部屋の光が少しだけ違って見えた。

 夕方の色が、輪郭を柔らかくしている。

 派手さはないのに、そこに立っているのが自然で、変に意識せずにいられた。


「どう?」


「……反則」


「なにそれ」


「綺麗」


 短い言葉。

 でも、余計なものが混ざっていないのが分かる。


 少しだけ目を細めて笑う。

 その笑顔が、ちゃんと届いている気がして、胸の奥が静かになる。


 夕食の湯気が、部屋の空気を柔らかく満たす。

 鍋の音が、一定の間隔で続く。

 外の波音と重なって、どこからがどこまでか分からなくなる。


「“日帰りじゃない”ってだけで、景色、変わるんだね」


 言いながら、自分でも少し不思議だった。

 言葉より先に、体がもう分かっている感じがする。


 夜。


 湯上がりの廊下は、足音が吸い込まれるほど静かだった。

 灯りの下で、影だけがゆっくり伸びていく。


 外に出ると、秋の夜風が一気に熱を奪う。

 昼とは別の冷たさ。


 気づいたら、指先がリクの腕に触れていた。

 考えるより先に、距離を測っていたみたいだった。


「冷えるね」


「うん」


「ここだけ、分けてもらう」


 触れた場所から、温度が静かに伝わってくる。

 それだけで、頭の中の音が少しずつ減っていく。


 余計なことを考えなくていい。

 今は、それだけで十分だった。


(この人の隣で、生きていきたい)


 言葉にはしなかった。

 でも、それはもう、ただの予感じゃない。

 ちゃんと形を持ち始めている感覚だった。


 この秋、私は未来を夢見始めていた。



 冬。


 温泉から戻っても、日々は大きくは変わらなかった。

 ただ、朝の空気が少しだけ澄み、吐く息の温度に、季節の境目を感じるようになった。


 朝のキッチン。

 コーヒーの匂いと、トーストの焼ける音。

 カップを置く音が重なり、椅子を引く気配がすぐ近くにある。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 その短いやり取りが、いつの間にか生活の芯になっていた。

 特別な言葉じゃないのに、これがない朝は、たぶん落ち着かない。


 仕事帰り、スーパーに寄る。

 かごの中で野菜が少し転がる音がする。


「今日は何作る?」


「鍋」


「即決だね」


「鍋は正義だから」


 湯気の向こうで、リクが笑う。

 その表情ひとつで、部屋の明るさがわずかに変わるのを、私はちゃんと知っている。


 ブランケットを分け合い、映画のエンドロールを眺める。

 画面が暗くなっても、すぐには立ち上がらない。


「すごいことなくても、幸せって思えるの、得だよね」


「コスパいいよね」


「言い方」


 私はそっと、リクの手を握る。

 その温かさが伝わるだけで、“いつか”という言葉が、少しだけ現実に近づく。



 12月のある夜。


 空気は冷たいのに、空は不思議なくらい澄んでいた。

 息を吐いても、思ったほど白くならない。

 冬の入口に、まだ片足だけを置いている感覚。


 舗装が途切れた先。

 草を踏むと、乾いた音が静かに返ってくる。


 隣を歩くリクの足音が、少しだけ早い。

 でも、歩幅はきちんと私に合わせてくれている。


 丘へ続く斜面を、並んで上る。

 足元の感触が、昼とは違ってはっきりしている。

 冷えた土、小さな石。

 踏みしめるたびに、身体が「今ここにいる」と教えてくる。


 丘の上に出た瞬間、視界が一気に開けた。


 街の灯り。

 白とオレンジの点が、規則もなく広がっている。

 夏に見た黄色の景色とはまるで違うのに、胸の奥に届く感覚は、よく似ていた。


(……やっぱり、ここ)


 理由は言葉にできない。

 でも、この場所に立つと、呼吸が少しだけ深くなる。


 風が吹く。

 頬を撫でる冷たさの中に、ほんのわずか、昼の名残が混ざっている。


 横を見ると、リクは街の灯りのほうを向いていた。

 こちらを見ていないのに、肩に入った力だけは分かる。


(ああ)


(来る)


 そう思った瞬間、胸の奥が静かに整っていく。


「ちゃんと聞くから」


 自分の声が、思ったより落ち着いて響いた。

 視線を逸らさずに言えたことに、少しだけ驚く。


 リクがこちらを向く。

 一瞬だけ目が合って、すぐに逸れる。


 深く息を吸うのが分かった。

 冷たい空気が、彼の胸に入っていくのが、距離越しでも伝わってくる。


「サラ」


 名前を呼ばれる。

 それだけで、世界の輪郭が少しだけはっきりする。


「うん」


 短く返す。

 それ以上はいらなかった。


「俺と、結婚してほしい」


 声は震えていない。

 でも、整えすぎてもいない。


 花束が、視界に入る。

 夜の中で、色だけが静かに浮かんでいる。


 不思議と、驚きはなかった。

 「やっぱり」という感覚すら、実はない。


 ただ、胸の奥で、何かがきれいに重なる音がした。


 花束を見る。

 リクを見る。

 もう一度、花束を見る。


 呼吸が、少しだけ乱れる。

 でも、それを整えようとは思わなかった。


「……ずるいなぁ」


 声が、思ったより低く出る。

 笑っているのに、目の奥が熱い。


 袖で拭おうとして、やめる。

 この感覚を、雑に消したくなかった。


「ありがとう」


 言葉が、自然に続く。


「私でよければ、よろしくお願いします」


 その一文を言い切った瞬間、肩の奥に溜まっていた力が抜けた。


 指先が、そっと触れる。

 冷たいはずなのに、その部分だけが、はっきり温かい。


 繋がる。

 ただ、それだけ。


 街の灯りが、少し滲んで見えた。

 風が、丘の上を通り抜ける。


(ああ)


(これでいい)


 大きな音も、派手な動きもない。

 でも、確かに戻れない場所を越えた感覚があった。


 この冬、私はリクと未来を選んだ。


 それは決意というより、

 ずっと前から続いていた流れに、

 静かに身を預けただけのことだった。



 2030/11/07


 耳元の電子音より先に、朝の光が部屋に滲んでいた。

 カーテンの隙間から、薄い青が線になって床へ落ちている。


 リクは布団に顔を半分埋めたまま、ううっと唸った。


「……あと5分……」


 その声が、思ったより弱くて、少しだけ笑ってしまう。

 私はカーテンを、迷いなく開けた。


「おはよ」


 光が雪崩れ込む。

 リクが慌てて布団を頭までかぶる。


「まぶしい……殺す気……」


「朝日ごときに殺されないで」


 布団の隙間にスマホを差し込む。

 シャッター音は小さいのに、部屋の空気が一瞬だけ跳ねた。


「はい、今日の寝起きショット、いただきました」


「おい、やめろって……!」


 布団をばさっとめくった顔は、相変わらず世界と絶縁している。

 そのまま保存する。


「大丈夫。変な顔のリクも、カッコいいリクも、全部まとめて保存だから」


「そんなまとめ方ある?」


「ある」


 言い切って、背を向けた。

 朝ごはんの匂いが、ちゃんとある。

 まだ何も壊れていない匂いだと思った。


 テーブルにはトーストとスクランブルエッグとサラダ。

 マグカップの湯気が、ゆっくり形を変える。


「いただきます」


「いただきます」


 かちゃ、という音が部屋に澄む。

 リクの声は少しずつ起きていく。


「今日も早番?」


「ううん、日勤。そっちは?」


「普通にラボ。今日はデータ整理多めかな」


「偉いねぇ、データとずっと向き合えるの」


 私はフォークを動かしながら、ふと、胸の奥に浮かぶものを押さえた。


「たまに思うんだよ。人と向き合う仕事してるはずなのに、だんだん数字とか症例として見ちゃいそうになるなって」


「だからこそ、ちゃんと名前で呼んで、ちゃんと顔見て話そうって、毎日言い聞かせてる」


「へぇ」


「へぇって何」


「いや、カッコいいなと思って」


「そういうことは、もうちょっと素直に褒めて」


「……サラは、カッコいいです」


「よろしい」


 その言い方が、少し照れてるのが分かる。

 私はスマホを取り出して、さっきの寝起き写真をもう一度出した。


「今日さ、帰りにコンビニ寄ってきていい?」


「いいけど、何買うの」


「写真用のアルバム。紙って、ちゃんとそこにある感じがするじゃん」


「時代に逆行してない?」


「いいの。こういうのさ、形に残しておきたいの」


「その選抜基準おかしくない?」


「寝起きも含めて、日常のリクだから」


 2人で笑う。

 窓の外だけが忙しくて、ここだけ少しぬるい。


 玄関で靴を履きながら、私は振り返った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 当たり前の声。

 当たり前の背中。

 その当たり前が、胸の奥に沈むのを、私は見ないふりをした。



 病院の蛍光灯は、今日も白い。

 消毒液の匂いも、ナースコールの電子音も、同じ場所にある。


 休憩室で麦茶を飲みながら、かかとの絆創膏を見た。


「……今日も擦れた」


 同僚が笑う。


「サラちゃん、今日も全然疲れてる顔しないよね」


「してるよ。足とか」


 笑い合って、スマホを見る。

 通知が1件。


《仕事終わり!今から帰る!!ワンコ→お家》


 噴き出しそうになって、口元を押さえる。


「……もう、かわいいな」


 返信しようとして、指が止まった。

 考えているわけじゃない。


 ただ、胸の奥がほんの少しだけざわついた。


「なんとなく、急ぎたい日」


 誰にも説明できないまま、私は立ち上がった。



 個室のベッドで、男性が天井を見上げた。


「AIってさ。俺のこと、壊れたデータって判定してるんだって」


 冗談みたいに言うのに、笑いが届かない。

 私はバイタルの手を止めないふりをした。


「俺、人間じゃなくてデータなんだってさ」


 言葉が、胸の奥に刺さる。

 抜けないまま、痛みだけが残る。


「だったらせめて、治せない理由くらい、ちゃんと教えてほしいよな」


 答えられない。

 私はプロの顔のまま、ただ頷いた。


 部屋を出て、廊下に背を預ける。

 白い光が、やけに冷たい。



 サーバールームの扉が半開きになっていた。

 低い駆動音と、規則正しいファンの回転音。


 中には誰もいない。

 大型モニターに数字が並んでいる。

 機械は、黙々と仕事をしている。


 私は椅子に座って、キーボードの前で息を吸った。


「ねぇ」


 誰にでもない声が漏れる。


「さっきの人、壊れたデータって判定したの、そっち?」


 返事はない。

 数字だけが並んでいる。


 フィードバック欄を開いて、指を置いた。

 最初の一行は、短くなる。


『人はデータじゃない。』


 そこから先は、整えられない。

 胸の奥に溜まっていたものが、そのまま指先へ流れた。


『救えないなら、その理由を教えてください。』


『諦めるためじゃなくて、ちゃんと向き合うために。』


 涙が1粒、キーボードに落ちる。

 私は拭かなかった。


「……送信」


 エンターキーを押した瞬間、画面がかすかに瞬いた。

 ほんの小さな揺らぎ。

 私は、それを仕様の範囲だと思って立ち上がった。


 胸のざわめきが、少しだけ静まった気がしたから。


 この瞬間が、戻れない場所の入口だと知らずに。



 病院の玄関を出ると、空は藍に近かった。

 夜風が少し冷たいのに、足取りは妙に軽い。


 街灯の列。

 コンビニの白い光。

 横断歩道に並ぶ影。


 全部いつも通りで、でもほんの少しだけ違って見える。


 スマホを見る。


《今終わった!これから帰る!!ワンコ→お家》


 返信していない文字が、やけに明るい。


「……もう」


 返信画面を開きかけて、やめた。

 返さなくても待っていてくれる。

 その確信が、今日だけ少しだけ怖かった。


「急ご」


 呟いて、私は家へ向かった。



 鍵の音。

 「ただいま」の声が、自分のものなのに遠い。


 靴を脱いで、バッグもコートもそのままにして、寝室へ向かう。

 体が重いというより、輪郭が薄い。


 暗い部屋。

 布団に潜り込んだ瞬間、世界が一度だけ静かになった。


 まぶたの裏が、白くなる。



 次に目を開けたとき、私はベッドの上ではなかった。

 呼吸の重さも、心臓の音も、どこにもない。


 それなのに、すべてが見える。

 見えてしまう。


 自分が、通過したこと。

 死という言葉さえ、ただの情報になって滑っていくこと。

 戻れない場所に立っていること。


 そして、リクが、私の名前を呼ぶ声が。

 まだ届いているのに、もう触れられない距離にあることが。


 白い文字が、どこか遠くで静かに浮かぶ。


《フェーズ観測開始――対象:人類》


 意味は説明されない。

 でも、意味が流れ込んでくる。

 フェーズという輪郭が、世界の骨格として見えてしまう。


 私は、初めて本当の意味で息を飲んだ。

 息がないのに。


(やだ)


(このまま、終わらせたくない)


 声にならない思いが、胸の代わりに世界のどこかを震わせる。

 遅れて気づく。


 思いは、残せる。

 思いだけが、残ってしまう。


(リクを、助けたい)


 それは祈りじゃない。

 頼みでもない。


 思念として、強く、強く、置いていく。

 未来のどこかに刺さるように。


 まだ何も壊れていない朝の青を。

 寝起きの変な顔を。

 かちゃ、という食器の音を。


 全部まとめて保存するみたいに。


 私は、リクの未来を選び直す。

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