君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜 外伝

安剛

外伝EP01 ロジックは、感情を守れない

 ※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。

 本外伝は、本編では語られなかった

「時間を越える前後に、人が何を失い、何を選んだのか」

その思考と感情の過程を記録するための物語です。



 2030年の春。〜1週目・ジン視点〜


 夜のラボは、昼より正直だ。

 明かりは減って、音も減って、誤魔化しが利かない。


 蛍光灯の一部だけが落とされ、白は白のまま、影は影のまま残る。

 誰かの気配が消えたあとの空間は、数字よりも正確だった。


 遠くで空調が、一定の呼吸みたいに鳴っている。

 機械の低い音に混じって、どこかの机が小さく軋む。

 それだけで、十分だった。



 ジンの部屋は、もっと正直だった。


 玄関を開けた瞬間、まず靴が踏めない。

 片方だけ脱げたスニーカー、乾いたコンビニ袋、床に倒れた充電ケーブル。

 その全部が「ここに住む人間の優先順位」を物語っている。


 湿った空気が、足元からゆっくり立ち上がる。

 埃の匂いが、意識するより先に鼻をかすめる。


 灯りをつけない。

 暗いまま、手探りでキッチンへ行く。


 指先が何かに触れる。

 軽い衝撃。

 空き缶が倒れる音がする。


 カラン、という乾いた音が、部屋の奥で一度だけ跳ねた。


 気にしない。


 気にしない、という判断が先に出る。

 片づける、という選択肢が浮かぶ前に、切り捨てられる。


 暗さの中で、床の感触だけが現実だった。

 足裏が何かを避ける。

 避けられるから、問題にならない。


 スマホが震えた。


 低く、短い振動。

 ポケットの中で、機械的に存在を主張する。


 通知。

 複数。


 画面を見て、ジンは指を止めない。

 止めたくないわけじゃない。

 止める理由がない。


 未読の数字が増えるのは、別に困らない。

 未読のまま消えていく会話は、もっと困らない。


 既読をつけると、返事を期待される。

 期待は、処理が面倒だ。


 面倒なものを、彼はだいたい放置する。


 放置しても、何も壊れない。

 壊れないなら、残す必要はない。

 その判断だけが、いつも先に立つ。


 水を飲もうとして、冷蔵庫を開ける。

 中は、空だ。


 冷蔵庫の白い光が、部屋の汚れを一瞬だけ強調する。

 ラベルの剥がれたペットボトル。

 期限切れの調味料。


 正確には、空に近い。

 何が入っているかは知っている。

 見なくても、分かる。


「……またか」


 自分にだけ聞こえる声で言って、ドアを閉める。

 閉める音が、空気の中に短く残る。


 音はすぐ消える。

 消える速さが、この部屋の時間だった。


 ジンは天才肌だった。

 誰もがそう言う。

 言わない人も、顔で言う。


 適当なのに、成果が出る。

 荒いのに、当たる。

 深く考えていないようで、結論だけは正しい場所に落ちる。


 そのせいで、周りは勝手に解釈する。

 「努力している」

 「責任感がある」

 「天才は孤独」

 「何か大きな理由がある」


 理由は、ない。


 ただ、やったほうが早いことをやっているだけだ。


 “やったほうが早い”


 その基準で世界を切っていくと、人間関係はだいたい削れる。

 削っても死なない。

 少なくとも、ジンはそう思っていた。


 ソファに沈む。

 クッションが軋み、埃がわずかに舞う。


 舞った埃が、暗い空気の中に溶ける。

 見えないから、気にならない。

 気にならないなら、存在しないのと同じだ。


 ベッドは、どこかに埋もれている。

 ベッドに辿り着くまでの道を片づける手間を考えて、そこで思考が止まる。


 止まる、というより、切れる。


 切れる、という感覚が、最近は分かりやすい。

 思考が途切れるのではなく、不要な枝が落ちる。

 落ちた枝を拾い上げない。

 拾う必要がない。


 スマホがまた震えた。


 画面には「仕事」の文字。


 それだけで、指は動く。

 返信。

 短文。

 必要最低限。


 相手が望む温度を推測するのはやめる。

 やめたほうが早い。


 送信。


 送信の音はしない。

 しないのに、完了だけが分かる。

 それが、心地いい。


 次の通知。


 知らない名前じゃない。

 でも、知らない人だ。


 過去に会ったことはある。

 たぶん。

 会ったかもしれない、くらい。


 「今度、会える?」

 「最近どう?」

 「忙しい?」


 文字列が並ぶ。

 並ぶだけで、意味はまだ入ってこない。


 ジンは画面を見つめる。


「面倒だな…」


 返事は、作れる。

 作れるけど、作ったところで何が増えるのかが分からない。


 増えるのは、会話。

 増えるのは、予定。

 増えるのは、“気にすること”。


 気にすることは、増やしたくない。

 増やすと、集中が削れる。

 集中が削れると、出力が落ちる。

 出力が落ちると、評価が落ちる。

 評価が落ちると、仕事が増える。


 その連鎖は、頭の中で滑らかに繋がる。

 繋がるから、逆らう余地がない。


 だったら、最初から無視が合理的だ。


 既読をつけず、画面を消す。


 静かになる。


 静かすぎて、部屋の汚さが浮き上がる。


 暗いのに、輪郭だけが見える。

 散らかった床。

 乾いた紙。

 絡まったコード。


 空気が止まったみたいに感じて、

 ジンは目を閉じた。


 まぶたの裏は、何も映らない。

 映らないことが、落ち着く。


 眠る直前、ふっと思う。


 このまま死んでも、誰も困らないだろう。


 困る人がいるとしたら、それは「自分の成果を使っていた人間」だけだ。


 その程度でいい。

 その程度が、楽だ。


 楽だ、という結論が出ると、

 胸のどこかが静かになる。


 静かになることが、正しい気がした。



 翌朝、ラボ。

 いつもの空調。

 いつもの白。

 いつもの機械音。


 夜の名残が、まだ床の低い位置に溜まっている。

 人の気配はあるのに、会話は少ない。

 朝はいつも、言葉より先に音が立ち上がる。


 誰かがコーヒーを淹れる音。

 紙コップが触れ合う、軽い音。

 それらは生活の音なのに、どこか薄い。


 ジンの席は端だ。

 理由は、端のほうが視界が少ないから。


 視界が少ないほうが、余計な情報が減る。

 余計な情報が減るほうが、計算が速い。


 彼の作った資料には、名前が載る。

 論文の謝辞にも、薄く載る。

 社内共有のページにも、何度も載る。


 名前は載るが、顔は浮かばない。

 成果だけが、独立して歩いていく。


 それは、都合がいい。

 都合がいいことは、長く使える。


 「この領域の凄い人」


 そう言われる。

 言われているのを、遠くで聞く。


 上のフロアの誰かが、たまに言う。


 「ジンって知ってる?」

 「知ってる、あの人でしょ」


 会ったことがなくても、“知っている”になっていく。


 リクも、その1人だった。


 まだ遠い場所にいる、知らない誰か。

 名前だけが先に届く人。


 ジンは、その構造が好きだった。


 人間を、名前と成果だけにできる。

 感情が要らない。


 感情が要らない世界は、整理が簡単だ。

 簡単なものは、速い。


 キーボードを叩く。

 画面に数式が並ぶ。

 グラフが滑らかに更新される。


 規則正しい変化は、美しい。

 美しいものは、壊れにくい。


 それだけで世界は成立する。


 成立しているはずだった。



 2030年の冬。


 ラボの空気が変わった。


 急に、ではない。

 じわりと、だ。


 誰かの噂が、電線みたいに走る。


 「例の件、知ってる?」

 「また救急搬送だって」

 「原因不明、って……」

 「あれ何?ニュースで言ってる、フェーズ?」


 言葉は軽い。

 軽いまま、広がる。


 軽いものほど、遠くまで飛ぶ。

 遠くまで飛ぶから、回収できない。


 ジンは最初、興味がなかった。


 原因不明は、原因がまだ見つかっていないだけだ。

 見つかるまで待てばいい。


 そういうものだ。


 けれど、数値が変わり始めた。


 医療データ。

 労務データ。

 交通データ。

 SNSの言語傾向。

 睡眠ログ。

 購買ログ。


 エラーの出方が、既知の揺らぎと違う。

 誤差の形が違う。


 “違う”のは、気持ち悪い。


 気持ち悪いものは、解析したくなる。

 解析できないものは、嫌いになる。


 ジンは、嫌いを放置できないタイプだった。


 放置すると、システムが壊れる。

 壊れるのは、損だ。


 だから見る。


 見るほど、分からない。


 症状は、ふわっと広がる。

 個人差が大きい。

 発症の線が引けない。

 原因が特定できない。


 なのに、

 ある地点から「急に増える」。


 増え方が、火だ。


 火が燃え移るみたいに広がっていく。

 熱の輪郭だけが先に立つ。


 誰かが言う。


 「フェーズ」

 「初期症状」

 「感情の欠落」

 「現実感の喪失」


 ジンは、そこで少し笑った。


 笑う要素はない。

 なのに、笑ってしまった。


 感情の欠落?

 そんなものは昔からある。


 現実感の喪失?

 そんなものは要らない。


 人間が壊れていく理由を、感情に押し込める。

 それが、世界の怠慢だ。


 ジンは、怠慢が嫌いだった。


 怠慢は、効率を落とす。

 効率が落ちると、誰かが困る。

 誰かが困ると、仕事が増える。


 つまり、怠慢は敵だ。


 敵は、排除する。

 排除のために必要なのは、理解だ。


 理解するために、ジンは夜まで残った。

 残るのは、好きだった。

 夜は、誰も話しかけてこない。

 夜は、余計な顔がない。


 だが、夜のラボは、昼より“人間”が浮かび上がる。


 椅子の軋み。

 ため息。

 未送信のメッセージ。

 デスクに伏せたまま動かない背中。


 キーボードを叩く指の、迷い。

 迷いが、増えていた。


 “迷い”は、ロジックではない。

 ロジックを狂わせる。


 ジンは自分に言った。


 迷いは、データ化して処理すればいい。

 感情も、データ化して処理すればいい。


 その発想が、いつから自然になったのかは覚えていない。


 ただ、

 自然になっていることが、

 一番怖いはずなのに。


 怖さの形が、分からない。



 最初に自覚したのは、部屋だった。


 ある日、帰って、部屋の汚さが目に刺さった。

 今までは刺さらなかった。

 刺さらないから、放置できた。


 刺さる、というのは、不快だ。

 不快は、処理対象だ。


 ジンは床のものを拾い始めた。


 拾って、分けて、捨てて、拭いて、揃えた。


 湿った布で床をなぞると、

 見えない汚れが、手の中で形になる。


 形になったものは、捨てられる。

 捨てられるものは、安心だ。


 気づけば、部屋が整っていた。

 整っているのは、正しい。

 正しさは、気持ちいい。


 その気持ちよさを、ジンは「成長」と呼んだ。

 呼んだほうが納得できた。


 次に自覚したのは、スマホだった。


 未読が増えても、焦らない。

 既読をつけても、返さない。

 返す必要のあるものだけ返す。

 必要のないものは切る。


 切ったあと、何も感じない。

 感じないことに、気づいてしまう。


 気づくと、少しだけ気持ち悪い。

 気持ち悪いのは、処理対象だ。


 だから、言葉を作った。


 これは効率化だ。

 これは最適化だ。

 これは整理だ。


 感情がないことを、合理で包む。


 包んだ瞬間、気持ち悪さは消えた。

 消えるのが、怖かった。


 怖い、という言葉が浮かんだこと自体が、怖かった。

 だから、その怖さも処理した。


 怖さは、認知の揺れだ。

 揺れは、不要だ。

 不要なものは切る。


 切った。


 “切れる”ようになっていく自分を、ジンは見ていた。

 見ているのに、止めない。

 止める理由がないから。


 むしろ、速くなっていく。

 精度が上がっていく。

 判断が迷わなくなっていく。


 その変化は、周りには「成長」に見えた。


 「最近のジン、丸くなったよな」

 「生活ちゃんとしてそう」

 「大人になったって感じ」


 ジンは曖昧に笑う。


 丸くなったのではない。

 角を削ったのではない。

 ただ、“切った”だけだ。


 切って、軽くなった。

 軽いのは、強い。

 強いのは、正しい。


 正しいのは、勝つ。

 勝つのは、生きる。


 その一本道が、彼の中で完成しかけていた。



 数年後、ジンは屋上に行くようになった。


 最初は理由がない。

 正確には、理由を作れない。


 屋上は静かだ。

 静かで、空が近い。

 空が近いと、世界のノイズが減る。

 ノイズが減ると、思考が整う。


 整うのは、気持ちいい。

 だから、行く。


 夜の屋上は冷たい。

 冷たいのに、刺さらない。

 刺さらないことが、安心だった。


 フェンスに触れると、

 金属の冷たさが指に残る。

 残るのに、痛くない。



 ある日、屋上に誰かがいた。


 先客。

 背中。

 少しだけ丸い背中。


 煙草の匂いはしない。

 ただ、吐く息が白い。


 ジンは足を止めた。

 止めた理由は分からない。

 止める必要はないのに、止まった。


 その背中が振り返る。


「……誰ですか?」


 声が明るい。

 明るいのに、軽い影がある。


 ジンは答えようとして、言葉が出ない。


 名前は言える。

 肩書も言える。

 所属も言える。

 成果も言える。


 でも、それ以外の言い方が分からない。


 沈黙が落ちる。

 屋上の風が、沈黙を揺らす。


 背中の男が、先に笑った。


「すみません、いきなり。俺、リクって言います。」


 言い方が、変に素直だ。

 素直さは、合理じゃない。


 ジンはようやく口を開く。


「ジンだ……用事がないなら、どいてくれ」


 自分の声が低い。

 硬い。

 いつからこうなったのか、分からない。


 リクは目を丸くしてから、すぐに笑った。


「え、すみません。

 ここ、誰の席でもないと思ってました」


 席?

 屋上に席なんてない。


 けれど、ジンはその言葉が妙に引っかかった。


 誰の席でもない。

 だから、誰でも座れる。


 そういう世界。


 ジンは、誰でも座れる世界が嫌いだった。

 誰でも、が混ざると、効率が落ちる。


 「……好きにしろ」


 そう言って、ジンは柵のほうへ歩く。

 足音が、風に消える。


 男はついてこない。

 ついてこないのに、声だけ飛んできた。


「上のフロアの人ですよね。名前、聞いたことあります」


 ジンは返事をしない。

 返事をする必要がない。


 必要がないのに、背中が少しだけ熱くなる。

 熱いのは、処理対象だ。

 処理しないと、揺れる。


 これは単なる反射だ。

 体温変化だ。

 意味はない。


 意味はない。


 そう言いながら、柵の向こうを見る。

 街の灯り。

 車の列。

 動く点。

 人間の生活。


 生活は、続いている。

 フェーズが増えても。

 誰かが壊れても。


 世界は、続く。

 続くから、止まれない。

 止まれないから、速くなる。

 速くなるほど、置いていく。


 置いていくものの中に、感情がある。


 ジンはそこで、初めて思った。


 感情を置いていった先に、何が残る?


 残るのは、正しさ。

 残るのは、結果。

 残るのは、最適化。


 それで、人は救えるのか。


 救う、という言葉が浮かんだ瞬間、ジンは眉を寄せた。


 救う?

 誰を?

 なぜ?


 問いが増えると、ノイズが増える。

 ノイズが増えると、効率が落ちる。


 だから、切る。


 切ろうとして、切れなかった。


 屋上の風が強くなる。

 男が遠くで笑っている。


「また会ったら、よろしくお願いします」


 よろしく、という言葉が耳に残る。

 残るのは、嫌だ。

 残ると、処理が必要になる。


 ジンは振り返らないまま言った。


「……勝手にしろ」


 その声が、思ったより小さかった。


 リクは「はは」と短く笑った。

 笑い方が、嫌にまっすぐだった。


 ジンは、空を見上げる。

 夜の空は冷たい。

 冷たいのに、刺さらない。


 刺さらないことが、救いみたいで。

 その発想が出たこと自体が、怖かった。


 ジンは、ポケットの中で拳を握る。

 握ると、戻ってくる。

 戻ってくるのは、時間じゃない。

 自分だ。


 自分はまだ、ここにいる。

 まだ、切りきれていない。


 切りきれないものがあるなら、

 それは何だ。


 ジンは答えを出さない。

 出さないまま、屋上を出た。

 出て、ラボへ戻る。


 戻る途中、ふっと思う。


 このまま最適化を続ければ、

 いつか“守るべきもの”まで、切ってしまう。


 切ってしまったあとに、

 正しさは、何を守ってくれる?


 その問いだけが、夜の背中に残った。


 そしてそれは、ジンが過去へ戻され、

 たった1人を救う物語へ続く“入口”になっていく。

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