あなたは魂のゆりかご
城井映
あなたは魂のゆりかご
その日、家の中はとても静かだった。
私は机上に
なんて思いつつスマホを見ると、風船が飛んだ。うわ、そういえば誕生日だった。私は寄せられたお祝いに反応していく。どれだけ技術が進んでも一年の長さは変わらず、等間隔で年齢は重なっていく。
にしても、私も二十八歳か……高校生あたりの心から全く成長していない気がするのに、もうアラサーなんて意味がわからない。
ふと──私が初めていずなと出会った時のことを思い出した。あの時、私は四歳、彼女は二十八歳だったらしい。
あれから二十四年が経ち、私はいずなが引き返すことになった年齢に追いついた。何て実感のなさ。年齢ほどフィクションなものはないと思う。私たちは、年を重ねるごとに見えるものが減っていく。「全て」を知っていたあの頃には戻れない……。
いずなは私の父の妹。続柄でいう叔母だった。
幼稚園生の頃、私はいずなのことが苦手だった。当時のいずなは、母(そして私)に似ず繊細な面立ちで穏やかな性格だったから、特に疎ましい要素はないはずだけど、いずながうちに来る時、ママもパパもどうしてか暗い面持ちになった。それが幼い私には嫌で、この親戚にはとっとと帰ってほしかった。
「やこちゃんは私のこと、嫌い?」
いつのことだったか、私といずながふたりきりになった時、そう訊かれた。やこちゃんとは、私の名前、
私は幼いなりに、いずなを無視する理由を見つけようと、部屋の中を見渡した。陽光を含んだカーテンのレース。散らかったぬいぐるみ。遠いはしゃぎ声。気だるい夕方の匂い。
「やだ」
結局、私はひたすらにぶすっとすることにした。
「そっか。そうだよね。ごめんね」
いずなは本気で傷ついたようだった。私は幼いながらに人を傷つけたことを自覚して、ぶすっというのとは別の嫌な気持ちになった。発達心理的に、どの段階にあったんだろうか。
ただ、いずなは傷つけられたい気持ちがあったような気がする。この直感を補う、いい説明はつけられないけど、当時のいずなの置かれた状況を思うと、子どもの裏表のない感情を食らいたくなっていてもおかしくはない。いや、どうだろう。わからない。
後になって、いずなが治る見込みのない病気だということを両親から教えてもらった。
重い病気はおじいちゃんおばあちゃんしかならないと思っていた私は、結構なショックを受けた。まだママやパパと同じくらいの年なのに死んじゃうんだ。だから、いずなが来るたびみんな暗い顔になっていたんだ。
私のいずなに対する態度を柔らかくなった。さりげなく傍に座ったり、お菓子を分けてあげたりした。いずなも私の話を聞いてくれたり、欲しいおもちゃを買ってくれた。小学校の入学祝いにタブレット(キッズ用)をくれた。一年のお祭りがいっぺんに来たみたいに嬉しかった。嫌いな時期の反動で、私たちの仲は急速に深まった。
「やこちゃん」
たまに、いずなは無性に優しい表情を見せると、私をきゅっと抱きしめた。パパやママがしてくれたのとは違う、切実な素振りに感じた。
大人らしくない(と当時は思っていた)その機微を、私は素直に受け入れた。笑ったり、甘え返したり、抱きつき返したり。触れ合っているとぽかぽか暖かさが昇ってきて、そのうち、寂しさが凝っていく。
「いずなちゃん帰っちゃやだ」
別れ際、私は決まって泣いた。もう二度と会えなくなってしまう気がして。
「また来るからね、バイバイ」
いずなは困ったような笑みを浮かべて、去っていく。私はその言葉を頼りに次にいずなに会う時を待つ。両親にも「次いずなちゃん来るのいつ?」と聞きまくった。
「きっとすぐ来るよ」
ママは決まってそう答えたけど、どこか、歯に物が詰まったような言い方だった。
私の不安と裏腹に、そしてママの言葉通りに、いずなは頻繁に顔を見せに来た。私は顔を見るたびに安堵と喜びで舞い上がったけど……少しずつ違和感を覚えるようになる。
「いずなちゃん」
小六の夏休み、何気ない調子で私はいずなを呼んだ。いずなは窓際で足のネイルをいじりながら、私の方を見もせずに応える。
「うんー?」
「いずなちゃんって、どんな病気なの」
いつ会ってもいずなは元気そうで、薬の入ったケースも持ってないし、咳ひとつしない。ご飯もたくさん食べるから頬もこけていないし、年齢を感じさせないほど肌も髪も艶々している。
「……パパに聞いてないの?」
いずなは手を止めて、そっと確かめてきた。私はうなずく。
「聞いてない」
「そっか。知りたい?」
「知りたい」
いずなはニッと意地悪な笑みを浮かべた。何だか、仲のいい友達のお姉ちゃんみたいで、ママやパパと同じくらいの年の人と思えなかった。
「やこちゃん、ずっとわたしのこと、好きでいてくれる?」
「え、うん」
「じゃあ、チュウしてよ」
「えっ!」
私は跳び上がった。いずなは笑いながら頬を差し出してくる。
「ほっぺにだよ。ね?」
「や、やだ! 恥ずかしい!」
いずなは腰をかがめて寄ってくると、私の身体を掴んで、強引に口づけさせようとしてきた。
その軽いノリが、私の知っているいずなじゃないみたいだった。私は恐怖を覚え、結構強めに抵抗した。
「もう、恥ずかしがりすぎじゃない? わたしのこと嫌い?」
唇を尖らせるいずなに、ソファの後ろへ逃げ込んだ私は言う。
「別に好きでもチュウはしないもん!」
「ふうん。やこちゃんが赤ちゃんの時は、わたしめっちゃしてあげたのにな」
「知らない! わたし、赤ちゃんじゃない!」
私はついに泣き出しそうになったけど、その一言でいずなは表情を失くした。ただ、一瞬後にはそのことを誤魔化すように「へへっ」と笑って、私の方に身体を向けながらソファに腰掛ける。
「ごめんごめん。やこちゃんのこと、信じてるから、チュウなしで教えてあげる」
疑わしく顔を出した私に、いずなはソファの背もたれ越しに言った。
「わたし、どんどん若返っちゃう病気なの」
「若返る……?」
「そう。やこちゃんが小学校に入った時は二十六歳くらいだったけど、今は二十歳くらいになってるんだって。まあ、正確に一年で一歳分若くなるってわけじゃないから、わたし的には二十二歳くらいの気持ちだけど」
若返り! 私は衝撃と納得を同時に食らった。中年に差し掛かったママやパパと違って元気いっぱいで、肌もすべすべなのは、若返ってるからなんだ!
「えー、おばさんになんないってこと? それ、全然いいじゃん!」
「……そ! いいでしょー」
興奮する私に、いずながちょっと言葉に詰まった素振りを見せたのをよく覚えている。
いずなは経過観察のため、うちの近くの大学病院に通っているのだと教えてくれた。いつもやたら混んでいる病院としか思っていなく、脳神経分野で名を馳せているとは後で知った。
その話に、私は病気だということも忘れてわくわくしていた。
「じゃあ、そのうち、わたしがいずなちゃんのお姉ちゃんになるんだ」
「ふーん、じゃあ、今のうちにお姉ちゃんしておかなくちゃ」
そう言ういずなの睫毛は、小刻みに揺れていた。
いずなは少しずつ私に近づいてきた。趣味はポップな方に寄りはじめ、大学時代に集めていた海外の雑誌や洋書は売ってしまったという。浮いたお金で、大人では到底着れないようなとびきりかわいい服を買い漁り、私を羨ましがらせた。
「いいよね、いずなちゃん。ずっと可愛い服着られるじゃん」
世の中が大人の言う通りのものじゃないとわかり始めてきた中学生のある時、私はママの前でそうぼやいた。ママは驚いたように目を見開いた。
「佐弥子、知ってるの? いずなさんの身体のこと」
ママにとっては義理の妹にあたるから、そんな風に呼ぶ。私はスマホを見ながら、うなずきもせず肯定した。
「とっくに。ていうか、あんな若すぎるアラフォーいないし。わかるって」
「そう。わかってて仲良くしているなら、よかった」
ママは露骨に胸を撫でおろす。その仕草が少しオーバーに思えて、私はおかしくなった。
「そんな安心しなくても」
「安心するよ。どう打ち明けようか、ずっと悩んでたんだから」
「打ち明けるって、何を」
「だから、いずなさんがこの先、何年生きられるかわからないって」
「は?」
聞き間違いだと思った。だって、いずなは見るたび若返って、老い……つまり、死から遠ざかっているじゃない。
「ううん、何でもない」
ただ、私の反応を見たママは、色を失って言葉をひっこめた。その様子の深刻さに、さしもの私も冗談ではないと察してしまった。
「え、どういうこと? この先、何年生きられるかって……いずなちゃん、死んじゃうってこと? 嘘でしょ?」
私の怒ったような追求に、ママは観念してすべてを話してくれた。
「……いずなさんは本当に若返っているわけじゃない」
いずなは二十六歳の時、カナダで行われたテロメア延伸治験というものに参加した。
テロメアというのは染色体の末端にある構造のことで、「命のロウソク」と呼ばれる。DNA転写のたびに短くなり、これがなくなると細胞分裂が行われなくなって、老いの原因になる。逆にテロメアの長さを維持してDNAの損失を抑えれば、肉体は老化に抗い、不老不死に向かうはずだった。
いずなが受けたのは、ナノウェアが数千万と詰まった極小のカプセルを大量に注入し、テロメラーゼというテロメア延伸を司る酵素を管理させる治療だった。がんを発生させるリスクもある処置を、いずなは自らの意思で買って出た。
結果として、いずなのDNAが持つテロメアは延伸したけど、重大な副作用が出た。本来、死ぬはずだった細胞まで生き残り分裂を続けたため、細胞が過剰になった。
その影響が強く出たのは脳だった。容量ギリギリまで中身を詰め込んだこの器官に、余分な細胞を受け入れるスペースはない。肥大化する脳は頭蓋骨の中で圧迫され続ける。
いずなの場合、感覚・運動機能を司る箇所が、思考・理論を司る前頭前皮質に損傷を与えた。だから、日が経つにつれ、テロメア延伸によって見た目は若返り、運動能力は発達していくけど、引き換えに思考能力が退行していく。その様はまるで、若返っているかのように見える。
「けれど、その若返りにブレーキはない。今は十代並の知性ではあるけど、そのうちもっと幼くなって……〇歳の時点で脳機能が破綻して、脳死を迎えるでしょうって」
「……」
中学生の私はママの説明を二割も理解できなかったと思う。けど、いつまでも落ちきることのない穴に落ちたような気分だった。
老けないなんていいじゃん。ずっと若いままでいられるなんていいじゃん。
私の向けた無邪気な感情は、いずなにとって刃だったのかも知れない。
私はこれまで経験したこともないほどの悲しみに貫かれた。確かに、ママは私がもっと大人になってから話すべきだったのだろう。私が知りたいと言ったんだから責めるのはお門違いなのに、私はママを憎んだし、事情を隠していたパパも憎んだ。性格も落ち込んで、斜に構えがちになって、学校の友達との折り合いも悪くなって、中学では孤立した。
人生で一番辛い時期になったけど、心の支えになったのが、当のいずなだったというのは倒錯している。でも、大切に想う気持ちというのは、元からそういうものなのかも知れない。いずなは私が唯一心の許せる同年代の友達のようになっていた。
同時に、いずなにとっても私は唯一の拠り所だったのだと今になって思う。同年代の人が正しく年齢を重ねていく中、そこを逆行することになってしまった彼女の孤独が、今の私には想像がつく。結局、行きつく先が死でしかないのであれば、年齢を重ねることも若返ることも変わらないのかも知れない。
私がいつ、若返るいずなとすれ違ったのか、厳密にはわからない。でも「きっとそうだろうな」というポイントはあった。
「いずなはさ」
カフェの窓辺の席、道路を見下ろしながら私はふと、口に出していた。高校一年生の冬で、マフラーを出したばかりの頃だった。
「ん、なにー?」
その頃のいずなは、私と並んでも同級生にしか見えなかった。法的には四十歳だったと思うけど、とても信じられない。正味、どのクラスメイトの子よりもかわいかった。
「……何でカナダ行ったの?」
躊躇したのち、私は訊ねた。どうして、寿命を延ばしたいと思ったのか。何度も訊こうとして、何度もやめてきた質問だった。自然と口に出たのは偶然に近かった。
「あー、ね。若気の至りだよ」
いずなは、なんというか、女子高生がするはずのない不思議な表情をしてから、年相応にへらへらと笑い、語りだした。
「いやさ、今の社会って二十歳くらいで社会に出ることになるじゃん」
「そうだけど」
「昭和平成くらいはそれでよかったかも知れないけどさ、今は情報増えすぎ、流動しすぎ、複雑すぎじゃん。そんな社会で、たかだか二十年学んで自立なんて、無茶な話じゃないって思っちゃったんだよね。教科書の厚さ、昔の何倍よって感じ」
「……教科書全部電子化してるけど」
「マジ? ごめ、高校行ってたの二十年以上前だから」
「ふうん……で、それが何?」
全く、長寿化との関連がわからない私にいずなは続けた。
「だから、これからの時代、教育受ける期間って本当は三十年くらい要るんだよ」
「ええ?」
「ね、だいたいの人はえーって思うでしょ? それが何でかって言ったら、人の寿命がせいぜい八十年くらいしかないからなんだよ。これが例えば、百五十年くらい生きれるってなったら、三十年で自立ってちょうどいい感じするじゃん。だから、人の寿命を延ばす技術をいろいろ調べてたら偶然その治験の話を見つけて、わーってやっちゃったの。……その結果がこれだけどね」
そう言って、いずなは私の手に振れた。水も弾く滑らかな皮膚と、熱いほどの体温。その幼さすら兆す感触に、私はもう、いずなを追い越してしまったのだと悟った。
かくして、いずなは社会的貢献のために、テロメア延伸の治験に志願した。そして、得られた成果といえば、次の通り。
『単に生きる時間を増やす手法としてあまりにも多くの課題を残す』
そう書かれた英語の論文を、私は大学生になってから医学部図書館の電子閲覧室で読んだ。医学部生じゃなくても入れると知り、いずなの参加した研究について何かあるんじゃないかと駆け込んだのだ。
一応、この研究は若年に老化が始まるという難病の治療に活かされているようだけど、よい選択肢というわけではないみたいだった。いずなの夢見る人間百五十年時代に関しては、いつ実現するか定かではない。
私は、いずなの献身がどうにか報われてほしいと思った。
「自分がやりたいこと」を強烈に求められる今の時代、他に何の取り柄もないない私にとって、この欲求は大きな指針となった。
その頃、いずなの症状の進行は、若返りというより幼児化ともいえる段階に差し掛かっていた。
大学三年生の冬、私が昼過ぎに帰るといずなが寝そべってスマホを見ていた。その頃、いずなは家を手放し、私の実家に暮らしていた(驚くべきことに、その少し前までいずなは仕事を続けていた)。
「やこち、就職したら家出んの?」
挨拶もなく、いずなはだしぬけに訊いてくる。
「そのつもりだけど」
「えー、ねー、じゃあさじゃあさ、うちのこと養ってよ」
「え? な、何で」
「やこちのパパとママ、うちのこと嫌いっぽいんだよね」
私は言葉に詰まる。確かに私の両親は、年々若返っていくいずなとの関わり方を見失いつつあった。そこには老いによる認知の病とは違った、微妙な居住まいの悪さがある。頭ではわかっていても、気持ちが受け入れ切れていない。
一方、私は彼女が発達段階を下っていくのにうまく合わせていたと思う。最初は大人として、それから先輩として、友達として、やがて親戚の子として、自然と付き合えていた。いずなにとって、最も心を許せる人物は私しかいない。
私はうなずいた。
「……わかった」
「わ! ほんと! よかった~! やっぱやこちだよ~」
いずなは心底安心したような笑みを浮かべた。きっと、私も同じ顔をしていた。
このことを両親に伝えたのは半年後、医療機器系メーカーの総合職で内定が出た翌日だった。私の意向に母は目を伏せ、父は苦々しく言った。
「何もお前の人生に、いずなをおぶせるつもりはなかったんだ。無理はしないでいいんだぞ」
いずなをおぶせる? まるでお荷物みたいに言って、一体、いずながどんな思いでいるのか、想像もしないの……!
父の物言いに、こめかみがカッと熱くなった──けれど、すぐに飲み込んだ。私は十分に大人だった。でも、あの時もっと感情的になっていれば、とも思う。怒りに任せて怒鳴ったり泣きじゃくるなんて、いずれしたくてもできなくなってしまうから。
春、私はいずなと暮らし始める。両親をはじめ、親戚が支援してくれたおかげで、理想の物件を選ぶことができた。
いずなとはたくさんお喋りをした。たどたどしかったり文脈が跳んだり人の話を遮ったり、以前のいずなを知る人なら困惑してしまうような状態だけど、私には全然楽しめる範疇だった。
意外なことに、いずなは自分の最期についてよく言及した。
「あのね、いずなね、別に赤ちゃんになるの、怖くないよ」
「そうなの? どうして?」
「全部わかるから。人ってね、大きくなると、わかるのをぽろぽろなくしていくんだよ」
いずなは同じ話を何度もした。赤ちゃんは全てを知ってるけど、成長にしたがってわかるものが減っていく。哲学的だ。とはいえ「成長するにつれて純粋な心をなくしていく」みたいな、よく耳にする話でしかないのかも知れない。私も最初はそう思っていた。
ただ、小学校の時の友達が出産して、その赤ちゃんの顔を見せてもらった時、確かにそうかも、という気持ちが起こった。この子は、私たちが見たり聞いたりしているのとは、全く別のやり方で見たり聞いたりしている……私たちの知らないものを知覚している。
私たちは社会的な動物で、生まれた環境にあらかじめ作られた枠組みの中で思考するよう訓練されている。だから、全く常識の違うインドに行って人生が変わったりするわけだけど、仮に日本で生まれた赤ちゃんがインドで育っても、同じ意味で人生が変わるわけではないと思う。
日本でもインドでもアフリカでも、どんな土地や環境でも育ち、生き延びられるように、赤ちゃんには文字通り「全て」の可能性が組み込まれている。そうして選ばれた可能性に特化するよう、成長するにしたがって他の「全て」が切り離されていく。
いずなは若返るにつれて、日本社会で暮らしていく上で切り離してきた「全て」の可能性が、再び自身の中に戻ってきていると実感していた。だから、その感覚を自分なりに言語化して、何度も私に訴えてきたのだ。
だとすれば、年齢がゼロに至ったいずなは単に死ぬわけではない。
──「全て」の可能性に発散するのだ。
そう気づいた私は、いずなが意思決定をできるうちに、いずなの主治医や仕事の伝手を頼って、あちこちの研究機関に連れていった。たいてい門前払いで、話を聞いてくれても、後に音沙汰がないなんて普通だった。辛く、甲斐のない日々だった。仕事の疲れも相まって、どうしても涙が出る日もあった。
「やこ、泣いてる?」
いずなは心配そうに、そんな私の頭をぽすぽす撫でると、ひらひら離してみせた。
「痛いの痛いの飛んでけーっ!」
そのあまりにも子どもっぽい、必死な素振りにますます涙がこぼれた。
「うん、ごめんね、ありがとう。全然痛くないよ」
いずなはそのうち歩くことができなくなった。骨格や筋肉が衰えたからではなく、精神が巻き戻るにつれて、意識と身体の統合感覚が解体されたからだった。自分の手を不思議そうに見つめる赤ちゃんと同じように、いずなは自分の動かしているものが自分の身体だとわからなくなっていく。
覚悟していたとはいえ、ハイハイする成人女性の姿はショッキングだったし、やがて始まった夜泣きは私の精神をすり減らした。大人が全力で泣くのだから凄みがある。恐怖すら覚えた。
「大丈夫、大丈夫だから……一緒にいるからね……」
私はいずなに添い寝して、その柔らかい髪を撫でる。すぐ寝付くこともあれば、いつまでもぐずることもある。全く眠ってくれず、恐ろしい憎悪の湧き出ることもあった。ふたりして死んでしまおうか。けれど、ようやく眠りについたいずなの安らかな寝顔を見ると、そんな気持ちが嘘みたいに引いて、甘く香るような眠気に襲われた。
やがて、いずなは寝たきりになり、言葉を話すことがなくなった。一日のほとんどを眠って過ごし、起きている間は私を求めて大泣きするか、私を見つけてきゃっきゃと笑うばかり。
私は在宅仕事の傍ら、いずなのおむつを替えてあげながら考える。近代以前の西欧の価値観では、子どもと死者には魂がないとされていた。その考えに抵抗を覚えるのは「子どもは尊重されるべきもの」という教育の成果に過ぎず、無条件のものではない。だからこそ、子を捨てたり虐待をする親が現れる。
もし、大人になった私たちが、赤ちゃんの持つ「全て」の可能性を、再びはっきりと理解できたなら──きっと、社会は違った姿になる。
狂気じみているかも知れない。それでも私は、いずなが反対向きに歩んできた生に、意味を与えたい。幸い、ずっと続けていた研究機関の協力者探しは間に合った。あとは、残された時間の中で精一杯、いずなを愛するだけ……。
──はあ。記憶の流れが現在に至り、私は小さく息を吐く。つい走馬灯のように、いずなとの日々を回想してしまった。今日はそれくらい静かだった。
……いや、静かすぎる。
二十八歳の誕生日を寿ぐメッセージに返信する手がとまった。最近のいずなはほぼ眠っているけど、一度も泣かなかったのは初めてだった。
今日が、その日?
胸がざわつく。急いで立ち上がって、いずなのいる部屋に向かう。優しいピンク色を基調とした、ぬいぐるみがたくさんいる子供部屋。ふわふわのシーツの上、いずなは背中をまるめて眠っている。
まるで、子宮の中にいるように。
「いずな?」
いずなは無表情で眠っていた。息はある。脈もある。まるで何かを待ちわびるように、一心に、呼吸を繰り返している。
でも、私にはわかった。きっと、もう、それだけなのだと。
「いずな……」
どたん、と音がして、私は自分がへたりこんでいることに気づいた。顔が一気に熱くなって、背中がさあっと冷えていく。いや、いやだ。どうして、よりによって今日なの──。
私は泣いた。海の水を全て頭上でぶちまけたような、深くて、冷たくて、黒くて、苦しい悲しみだった。こんな思いをするなら、生まれてこなければよかった。もう、これ以上、生きていくなんてできない。ずっと、この日のために備えてきたのに、本気でそう思った。
でも……やらなくちゃ。
私はびしょびしょになった顔面を拭うと、隣の部屋から装置を運んできた。とある脳科学研究所から借り受けた、最新鋭の脳波マッピング装置だ。植物状態の人とコミュニケーションを取るために開発されたもので、これで採ったデータを解析すれば、その人の意識の中身まで再現でき、
私はいずなを仰向けに寝かせて、装置を頭にかぶせた。携帯型とはいえ、非常に強力な磁気共鳴や放射線を用いるために、乳幼児への使用は当然NGだけど、いずななら大丈夫。何年も前、まだしっかりお喋りができた時に、脳マッピングの同意も得ている。
『いいよ。さやに私の全部、あげる』
いずなは笑って、そう言った。
その声音を思い出し、ディスプレイが涙で強烈に滲む。その裏で、プログラムはいずなの脳が湛える「全て」が情報として取り込み、いずなという意識を端正にパッケージングしていく。
無限の可能性。全てを知りうる無垢の眼差し。
その眩いばかりの尊さを──。
いずなの夢見た長寿の世界は当分、実現しないだろうと思う。
でも、いずなの眠れる意識は、きっと、あらゆる人の曇りを払い、純真さを思い出させる。私たちは、今、いずなの見ている「全て」を通して、失われた心を取り戻し、何度も生まれ直すことができる。そんな世界が近いうちにきっと来る。
あなたの献身が、人々の魂のゆりかごとなる。
「いずな……」
全てが済んだ後、私はいずなの頭を静かに抱き寄せた。
そうして、嘘みたいにぷにぷにの頬にそっとキスをする。
「ゆっくりお休み」
私の胸の中、いずなは微かに笑みを浮かべた気がした。
あなたは魂のゆりかご 城井映 @WeisseFly
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