英雄とおしるこ

瀬季ゆを

英雄とおしるこ

「やられた……」


 空が、まるで誰かが加工でもしたかのような鮮やかなコバルトブルーの日。わたしは手の内の缶を睨みつけ、ため息をついていた。ここの公園の自販機はいつもこうだ。一体何をどう間違えたら、コーラのボタンでおしるこが出るのか。この間はホットコーヒーを買ったらぶどうジュースが出てきたし、もうわけが分からない。

 それならそんなところで買うなという話なのだけれど、ここで飲み物を買うのはもはや手癖のようなもので、買うのをやめると何か別のところに歪みが出そうで怖いのだ。


「ぬくいな……」


 コーラを飲みたかったので、到底これを飲む気にはならなかった。わたしは仕方なくおしるこの缶をハンカチで包むと、コートのポケットに突っ込んだ。ベンチに腰掛け、空を見上げる。ここは私の特等席だ。空がこんな色の日は、異常が発生する日と決まっている。


 ぱぁんぱぁん、と花火のような音と共に、黒い点がふたつ、空を縦横無尽に駆けている。


「おぉ……今日も頑張ってるなあ」


 ベンチの背もたれに寄りかかれば、結構な高度の場所を見上げていても、それほど首が痛くならない。これはわたしの編み出したライフハックだ。多分、きっと。

 

 ポケットの上からおしるこの缶を撫でる。「異常生命体」などという、なんとも捻りのない、つまらない名がつけられた生物が地球上空に現れるようになって、そろそろ一年が経つ。今空にいるあれは、異常生命体何号だったか。もはや新聞もろくに取り上げないので、多分誰も分からない。謎の生物の襲来がこんなにも日常になるなんて、一年前、一体誰が想像しただろう。

 もっともそれは、幸運にも彼らが大して強くなかったことと地球人の科学力、あとはなにより、国から選ばれたひと握りの才能ある「ヒーロー」たちのおかげなのだけれど。


 ぱあん!とひときわ大きな音がした。どうやら今日も、地球の平和は守られたようだ。めでたしめでたし。


「おつかれー」

「へーい、おっつおっつ」

「今日もありがとうございます」

「いえいえ、こちとらそれなりの給料をもらってるんで」


 コバルトブルーの空から帰還したヒーローは、へっへと八重歯を覗かせた。その表情は、ヒーローにしてはだいぶ俗っぽい。


「命懸けだもんね」

「まあ建前はね」


 覗く八重歯を光らせて微笑んだまま、おどけたように肩をすくめ、シニカルに言い放つ姿も、およそヒーローらしくない。さらにダメ押しで、ヒーローは大きな口を開けて、派手なくしゃみをした。


「大丈夫?」

「空の上ってめちゃくちゃ冷えるんだわ」

「その戦闘用なんたらスーツって、その辺カバーしてくれてるんじゃないの?」

「どうやらこれが地球の科学力の限界らしくて」


 ふふん、とヒーローは得意げに鼻を鳴らす。


「なにそれ」

「ウケるよね」

「風邪ひくじゃん」

「ひくよ、人間だもの」

「こじらせたら死ぬじゃん」

「まぁ、人間だもの?」


 しれっと言い放ってくれるなよな、とは言えなかった。


 ヒーローの身体より異常生命体の駆逐が先―― そりゃあそうだろうけれど、勿論わたしだってそれくらい分からなくは無いけれど、それにしたって。

 凡人である自分の日常は、ヒーローたる彼女の命と引き換えに守られているものであることを突きつけられて、わたしの鼻の頭には自然と皺が寄る。どんなに日常のように見えても、やっぱり今は異常なのだ。わたしはポケットからおしるこの缶を取り出した。


「飲む?」

「いいの?」

「コーラ買おうとしたらこれが出てきたの」

「なにそれウケる」


 げらげらと笑いながら英雄は缶を開け、勢いよくぐびぐびと、おしるこを飲みくだしてゆく。おしるこってそうやって飲むものだったっけか。


「ていうか、それ、ぬるいよね。ごめん、買ってから少し経っちゃってるから」

「ううん、全然。あったまった」


 うそつけ。絶対にぬるかったはずだ。ヒーローか。いや、ヒーローか。もしかしたら、こういうのも、ヒーローの条件だったりするのだろうか。

 改めて彼女を見つめる。アニメやゲームで見てきたようなのとそっくりな、やたらとゴテゴテしたアーマーから覗く肌には、相変わらず傷ひとつない。そう、彼女はヒーローのなかのヒーローで、百戦錬磨のエリートなのだ。異常生命体なんかがやってくるずっと前から。ずっとずっとそうだったのだ。

 文武両道性格良しの完璧超人の彼女が、どうしてわたしと親友なんかやっているのかと、学生時代から思っていたけれど、彼女がヒーロー業を始めてから、その思いは強くなっていった。


 彼女が空を軽やかに駆けるたび、彼女は凡人のわたしから、これまで以上のスピードで遠ざかってゆく気がした。だからわたしは毎回、それを思い知るために彼女の戦いを見に行く。ああすごいなぁ、わたしにはできないなあ、やっぱり住む世界が違うんだなぁ、なんて思い知って、あきらめるために。

 

 そう、完全無欠のスーパーヒーローはわたしの親友で、「そういう意味で」わたしの大好きなひとだ。


「ひとくち飲む?」

「いいの?」

「あんたが嫌じゃなければ」

「嫌なわけあるか」


 口に含んだおしるこは、やっぱりかなりぬるかった。むしろ冷たいと言ってもよかった。

 

 ―― はずなのに。胃のあたりがほわんと熱を帯びている。こんなおしるこくらいで。間違って出てきたおしるこくらいで。


「……あったかいね」

「でしょ?助かるわ。あんたがいると、いつも助かる」

「なんでよ」

「いつも戦いを見に来てくれるじゃん?もう誰も私たちが戦っているところなんて見ないのに。あと、今日のおしることかも、なんか全部」


 微笑み空を仰ぎ見る彼女の横顔は、こういう言い方が正しいのかわたしには分からないけれど、すごくヒーローらしかった。けれど、讃える人間が私しかいないのなら、もうそれはヒーローではなく、ただのわたしの親友ということで、もういいだろうか。まあ結局、わたしは彼女がどちらであっても好きなのだけれど。


「お、ほっぺもあったかい」


 冷えた両手が、わたしの頬を包む。


「それたぶん、今のおしるこのせい」

「そうなの?」


 そうなのと答えて、わたしも彼女を真似てへっへと笑った。


 異常が日常になった世界で、変わってゆくものと変わらないもの、変えられないものを確かめるように、わたしはこれまで通り、異常が発生するたび彼女を見にいくだろう。なんならこれからは、おしるこを携えて。問題は、例の自動販売機で「おしるこ」を押した時にちゃんとおしるこが出てくるか、だ。

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