第2話

「すみません...珈琲一つお願いします...」


 僕は珈琲を頼み、パフェを半分まで食べ終わっていた。コトブキの話を聞くのは良いがコトブキは一切何かを頼む様子はなくそれどころか、右耳の包帯から血を垂らしている。「大丈夫ですか?」と尋ねたが返事はなく、見えない赤ん坊の泣き声が響く中コトブキは話を続ける。


「さっきも言いましたが 格安のアトリエをお借りして私はそこで制作と生活をしています 山の中で周りは大自然で少し山の上の方に歩けば海が見える絶景で絵を描くには環境は最高だったのですが 奇妙な条件が付いていて…」


「…条件付き?」


「はい… とある物と言えば良いのか 人と言えば良いのか分かりませんがそれの『世話』をしなければならないんですよ…」


「何ですか…?その『世話』って…?」


 つかつかと店長が珈琲を持って来て何も声を出さず伝票に何かを書いてそのまま厨房の方に戻っていった。気がかりだったのは店長がコトブキを見る目がとても怪訝そうな目をしていた。血が滲んでテーブルに滴っているからだろうか…

 そんな事を気にせずに僕は彼に珈琲をあげた。


「何ですか…?」


「ここは喫茶店ですよ…僕が奢るので…珈琲位飲まないと失礼ですよ」


 コトブキは「すみません」と言い珈琲を飲む。気が付くと泣き声は聞こえなくなっていた。店長がレコード盤でジャズ音楽を流し始め、時計を見るともうすぐ十一時半を回ろうとしていた。(店長も泣き声聞こえていたのか?)と思ったがコトブキは話を続けた。


「私がそこのアトリエの内見に行った際 そこの大家とも会いました…そこで『世話』をする物を見たんです…」


「物…?」


「裸婦の絵…でした…」


「裸婦の絵...?」


 喫茶店のエアコンの風向きが僕らの方に向き伝票が少し揺れている、この時の僕は珈琲を持ってきた店長が「何か」を書いていたことを思い出し伝票をとろうとしたが、話している彼に失礼だと思いそれはやめた。


「はい 絵の『世話』なんです...しかも人間らしく...」


「絵の『世話』ってニスの塗りなおしとか、なるべく日光に当たらないようにするとかですか...?」


「それも含め 人間らしく『世話』もしないといけない...」


「...? 絵画に対して『人間らしく世話』って何をするんです...?」


「大家さん曰く 絵に対して 一人の人間として扱いなさい 絵と会話をしなさい 一応 男女だから恋人らしいことをしなさい だそうです そして 週に一回はそういう行為もしなさい とそれが条件なんです...」


「は...?」


 意味が分からなかった。いやコトブキに対しても不気味に感じていたが...

 僕の背中に冷たい何かが垂れた。多分、それは僕自身が感じている「違和感」だと思う。今この状況に気が付く。


(なぜ、僕は「テーブルに血を垂らしている男」に対して好奇心をむき出しにし、そして珈琲まで奢っているんだ?)


 喫茶店に流れているジャズがトランペットのソロパートに入り、店内を響かせる。赤ん坊の泣き声のように...。

 先ほど店長が何か書いた伝票が少し揺れている。気になりそこに手を伸ばそうとしたが、脊髄が「やめろ」と忠告しているようで、金縛りとまでは言わないがなぜか、今は動かない方が良い、脳ではなく、ただ身体自身がそう命令している。


(なぜだろう...コトブキさんの話を最後まで聞かないと何かやばい)


 伝票に書いてあることを読みたいのに話を聞かないとやばい、体の芯と言えば良いのか、先ほどのパフェの材料に手足が生え鳩尾の真ん中あたりを這いずり回っているような感覚があった。


「もちろん 最高の環境で格安のアトリエが手に入るならと契約したんです」


「だが あなたの様子と恰好から見て 間違った選択だったと...?」


「ええ ただ絵画と会話したり 洗ってあげたりするのは楽しかったですよ...ただ...」


「そこは言わなくていい...」


 恐らく「行為」の話だろう。喫茶店という場で話すのは良くないと思い僕は止める。

 喫茶店の扉が開きランチの時間になり、OLの方や若いサラリーマンが来店して空席から五分も待たずに満席になり彼らの会話や勤め先の愚痴がノイズに感じる。

 気が付くと、泣き声は聞こえない。コトブキは「ちょっと失礼」と言い、トイレに向かった。テーブルに置かれた伝票がヒラヒラと揺れており、今まで脊髄の命令で手を延ばすことを拒否されていたが僕はそれを手に取った。


『逃げろ』


 殴り書きだった。意味がわからないが僕は一つ不可解なことが起きた。


「血がない…」


 僕は自分の目を疑い身体中の毛が逆立つ。


(テーブルに垂れたはずの血液が一滴もない。)


 あるはずのものがないだけがここまで自分自身の体が驚愕するとは思っていなかった。僕は椅子から転げ落ちる。

 すると店長がつかつかと近づいてくる。


「君 日本語読める…?」


 伝票に書かれていることを言っているのだろうか…珈琲を持ってきた時の怪訝そうな目ではなく、今度は車に轢かれた猫の死体を見るような目で店長は僕を見ている。どこか遠くで赤ん坊の泣き声が響く。僕は座り直して、店長の言ったことに対し聞き返す。


「どういう意味ですか?」


 店長は苦虫をかじるように答える。


「彼は常連なのだよ…だが 彼が来てから他の常連に…君と同じように特殊性癖のことを話だしたんだ」


「まぁ 聞きながら気持ち悪いと思っていたんですけどね」


「だが 同時期に他の常連が不幸な目にあっているのだよ 一人目は登山好きの男性で下山途中に落石が頭部に直撃して脳震盪を起こし 二人目三人目は交通事故とか行方不明だとか………」


 僕はこの話を聞いて何も感じなかった。不気味だとか、気味が悪いとか何も感じなかった。目の前にいる店長という肩書きの男のコトブキを警戒する話よりコトブキの話を早く聞きたくてたまらなかった。「なぜ?」と聞かれても僕自身も分からない。恐らくもう僕は「正常」ではない。

 しばらく、店長は僕に警告をしていたが、正直もう話を覚えていない。「君も彼らと一緒か」と最後に言い厨房に戻っていった。


「待たせてすみません どこまで話しましたっけ?」


 三分位(体感に二十分位)でコトブキは戻ってきた。右耳の包帯は白く新しいものに変わっている。


「あれ...?包帯が変わって」


「ああ なんか汗ばんでかゆかったんですよね...」


 右耳を少し掻き、コトブキは席に座る。僕は先ほどの赤ん坊の泣き声の方向を見るが、喫茶店の外で母親が子供をあやしていた。(さっきの赤ん坊の声はあの子だったのか)となぜか僕は安心した。


「確か 行為の話の件で僕が止めた所ですよ」


「そこまで話したんですね…聞いて欲しいのはここからなんです」


 コトブキは話を続ける。ジャズ音楽と他の客の声はもう聞こえなくなり、いや、無音だ。時間帯もこの喫茶店で一番の稼ぎ時だろう。確かに大勢の客がいて、店長はせかせかと料理や配膳を一人で行って(バイトぐらい雇えよ)と思ったが、その行動音の一つも聞こえない。客の声、関節を動かすときに服がすれる音すらも聞こえない。


(何か…ヤバい…何だ?まるでゾーンに入っているって感じだ)


「私がそのアトリエに住みはじめて二ヶ月がたった頃に気付いたんです。絵画の女性のお腹が大きくなっていることに…」

 

「...?」


 コトブキの声だけは聞こえた。他の環境音だけは聞こえないのに、彼の声だけは鮮明に聞こえた。

 コトブキはどこからか、スマホを取り出し何かを見せようとしている。スマホを操作する指先が止まり、画面をこちらに向ける。スマホ画面にはアトリエの部屋の中だろうか、大量の絵具とキャンパス、奥に広い窓そして大きい額縁にある絵画。


「この絵画が...?」


「ええ...そうです...」


 コトブキは画面を横にスワイプして正面で撮った絵画の写真を見せる。芸術に関しては無頓着だが描かれている女性はとても綺麗で、デッサンといえば良いのかわからないが人間の筋肉の位置や骨格、構図、全てが美しく感じた。


「先ほどと今見せた絵画の写真が引っ越した当日に撮ったものです...」


「引っ越した当日にはもう制作をしていたんですね...」


「ええ 締め切りに間に合うかどうかの作品があったので...」


 コトブキはまたスワイプを続けている。何回も、何回も「スマホで何か撮るのは何か趣味ですか?」と聞いたが、「私の作品に関する資料です 私の作品は基本的にグロデスクなものが多く それに関する資料を写真に撮っているのですよ 今食事している君には見せるものではない...」と言っていた。

 僕はパフェを全て食べ終えて、時計を見ると十二時三十分だった。コトブキの指の動きが止まり、がたがたと震え始める。


「どうかしたんですか...?」


 その時、喫茶店内に赤ん坊の声が響いた。音の方向はコトブキから聞こえている。金切り音のような泣き声に耳が拒絶反応をしている。


「ぐわぁ...!」


 僕は椅子からまた転げ落ち、喫茶店の客や店長が僕の方に視線を送るが、両手の指を両耳に入れ聞こえないようにした。だが、どうしてもコトブキの話を聞きたかった。なぜかはわからないが


「私の右耳は自分で切り落としたんです...」


 コトブキはそう言い、僕にスマホを見せた。そこに写っていたのはお腹に大きく影が写る裸婦の絵画。


「...!」


 人工知能を利用して作ったようなものではない、確かに写真だった。僕は驚愕の目をしたのだが僕にスマホ画面を見せたままスワイプしたお腹の影はなく、股から血のような絵具が付いている裸婦の絵だった。


「ここから 私の家では 君が今拒絶している赤ん坊の泣き声がずっと二十四時間聞こえてくるのです」


「まさか...行為をしたから...この泣き声は...まさか......!?」


「考えたくはないですが...」


 気が付くと、泣き声は止まっていた。僕は立ち上がろうとしたのだが僕の足首が重く感じた。筋トレをしているから重さは何となくわかるが七キログラム前後だった。

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