終点のアナウンス

余白と君

終点のアナウンス

終点のアナウンスで目が覚めた。


「終点です。お忘れ物のないよう――。」


はっとして顔を上げると、車内にいるのは私ひとりだった。座ったままうとうとしていたようで、窓の外はもう真っ暗だった。

いつから寝ていたんだろう。慌ててバッグを抱え、降りようとしていた私に、運転手さんが声をかけてきた。


「眠ってましたね。今日は、疲れたんですか?」


疲れていた。心も、体も、どこか擦り切れていた。会社では小さなミスが重なり、そのたびに上司の言葉が刺さった。返す言葉も見つからず、ただ「すみません」を繰り返すしかなかった。帰れば誰もいないアパート。電気をつけても、迎えてくれる声はない。誰かと話したいのに、話す相手がいない。そんな夜が続くと、息を吸うのさえ重くなる。


私は苦笑して、「すみません」とだけ言った。迷惑をかけた、と先に謝ってしまう癖は、いつの間に染みついたんだろう。

すると運転手さんが、なぜか少しだけ微笑んでこう言った。


「昔、毎晩このバスに乗ってた人がいたんです。いつも終点まで寝ててね。スーツはしわくちゃで、顔色も悪くて」


まるで今の私の話みたいで、思わず聞き返してしまった。


「その人、どうなったんですか?」


「ある日を最後に、ぱたっと来なくなったんですよ。会社、辞めたのかもしれません。それか……」


そこで、ほんの少しだけど間があった。何かを選ぶように、言葉を丁寧に掬い上げるみたいに。


「やっと、ちゃんと眠れる場所を見つけたのかもしれませんね」


その言葉の間に、優しさが詰まっていた気がした。小さな余白の中に、「どちらでも、あなたのためになりますように」という祈りみたいなものが見えた。

私は何も言えず、ただ「そうなんですね」と笑ってみせた。うまく笑えていたかはわからない。


降り際、運転席からぽつりと声が届いた。


「今日も、よく頑張りましたね」


その一言が、なぜだか胸のいちばん弱いところを叩いた。誰かにそう言われたのは、いつ以来だろう。褒められたいわけじゃない。ただ、私の苦しくても、辛くても、必死に頑張った一日を誰かに認めてほしかっただけなのかもしれない。喉の奥が熱くなって、視界が滲む。


「ありがとうございます」


声が少し鼻にかかってしまうのをごまかすように頭を下げ、私はバスを降りた。扉が閉まり、エンジン音が静かに遠ざかる。赤いテールランプが、夜の道に小さな点を落として、やがて消えるまで、私はその場から動けなかった。

たった数分の出来事だった。けれどあの夜、私はもう少しだけ、頑張って生きてみようと思えた。

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終点のアナウンス 余白と君 @asanagi_saku

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