38.7度

ほねなぴ

カルテNo.26084

 寒い、動けない、腹が減る。

 こういう夜は、よくない考えが浮かぶ。


 どこからもらってきたのか、体が辛い。


 体を動かそうとすると、遅れてついてくる。

 布団は重く、喉の奥に金属みたいな味が残っている。


 換気扇と心臓の音だけがうるさい。


 玄関まで行って、這うように戻った。

 コンビニに行こうとしただけだった。


 ベッドに倒れると、指先が冷えた。

 エアコンは切ってある。寒さの理由は分からない。


 軽い音だった。


 コン コン

「おじゃましまーす」


 ふらつきながら扉を開けると、現実が少し遠くなった。



 動物がいる。名札を下げている。

 幻覚を見だしたのか?私はもう長くないかもしれない。


「本日はこちらで業務に入りますね」


 アザラシが言った。

 説明はそれだけだった。


 腕を取られ、そのままベッドまで連れていかれた。

 立っている理由が、もうなかった。


 横になると、頭に冷たい重みが乗った。

 クラゲだった。

 触れたところから、熱が引いていく。


「38.7度です」


 それだけ言って、動かなくなった。


 喉の金属臭さが消えていく。

 もう少し、この幻覚に浸りたい。


 足元で気配がして、イワシが三匹、コップを差し出す。


「「「どうぞー」」」


 水を口に含んで、少しむせた。

 胸の奥がつかえて、咳が出る。


 その横で、低い声がした。


「少しずつね」


 ウミガメだった。

 水はぬるく、二口目はちゃんと飲めた。


 部屋の奥で、何かが動いている。


 タコが独り言を言いながら、部屋を見回す。

「バナナは食べれるかなー」

 と、独り言を言っている。


 アザラシが、ベッドの横に座る。

 バインダーを片手に、私を見下ろす。


「今、しんどさはどれくらいですか?」


「……」


 すぐに言葉が出ない。


「言葉でも、数字でも大丈夫ですよ」


 少し間があって、口が動いた。


「……なんで、来てくれたんですか」


 アザラシは答えなかった。


 代わりに、横から声がした。


「出勤条件をみたしてたからね」


 ウミガメだった。

 それ以上は何も言わない。


 アザラシが何かをメモする。


 タコが、カーテンの前で立ち止まる。


「カーテンは空けとこう」


 触手が、布にかかった。




 シャッ、と音がして、カーテンが引かれる。

 夜が入ってきた。

 月の光が床に落ち、空気が一段、冷える。


 冷たい。

 でも、さっきの寒さとは違う。

 指先が逃げない。胸の奥がきゅっと縮まらない。


 光は白く、角がない。

 布団の端、壁、机の脚に、同じ重さでのっている。

 頭の上では、クラゲが淡く光ったまま、動かない。


 冷えが、額から首へ、ゆっくり降りてくる。

 熱が押し返してこない。

 息を吸うと、胸の中が静かだった。


「……」


 声にしなくても、体が分かっている。

 ここは大丈夫だ、という感じだけが残る。


 遠くで、紙の擦れる音。

 ペンが走る音。

 誰かが歩いて、止まる音。


 月の冷たさは、一定だった。

 増えも減りもしない。

 必要な分だけ、そこにある。


 目を細める。

 まぶたの裏が、薄く明るい。

 そのまま、意識がほどけた。





 目を開けると、部屋が少し明るかった。

 カーテンは開いたままで、月はもう見えない。


 しばらく、何も考えずに天井を見ていた。

 換気扇の音がする。

 いつもの音だった。


 体を起こす。

 頭は重くない。

 床に足をつけても、ぐらつかなかった。


 玄関の方で、気配がする。

 低い声。

 紙をまとめる音。


 皆、帰る準備をしているらしかった。


 礼を言おうと思って、立ち上がる。

 その途中で、体が軽いことに気づいた。

 昨日の夜の重さが、どこにも残っていない。


 言葉を探しているうちに、声がした。


「お大事にねー」


 アザラシだった。

 振り返る前に、ドアが閉まる。


 鍵の音。

 それで終わりだった。


 少し遅れて、窓の方へ歩く。

 駐車場に車が停まっている。

 エンジンがかかり、ライトが点いた。


 そのそばで、ペンギンが手を振っている。

 こちらには向いていない。


「おつかれー」


 声がして、車はゆっくり動き出した。


 部屋に戻る。

 床に、薄く水の跡が残っている。

 コップは空だが、喉は渇いていなかった。


 体温計を探して、脇に挟む。

 数値は、下がっていた。


 理由は分からない。

 でも、立っていられる。


 カーテンを少し閉める。

 朝の光が、線になって残った。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

38.7度 ほねなぴ @honenapi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画