僕の買う絵は、読み返さない本に似ていた

アイリッシュ・アシュモノフ

僕の買う絵は、読み返さない本に似ていた

アートは、好みか、好みでないか。

その二極で十分だと、長いあいだ思っていた。

芸術に触れることのない道を歩んできた僕にとって、絵画とは、その程度の理解だった。


芸術に造詣のある人に言わせれば、作品そのものよりも、そこに至る背景を読むものだと言う。

けれど僕は、写実的だとか、色彩がいいとか、そうした表面的な要素でしか、絵の良し悪しを判断できない。

学のない人間だと、自分でも思う。


それでも、絵画を眺めるのは好きだった。

気に入った絵があればスマホに保存したし、絵葉書を買ったこともある。

しかし、絵そのものを買おうと思ったことは一度もなかった。

ましてや、絵画をコレクションするという発想など、これまで頭に浮かんだことすらない。


ある日、東京・上野で少し時間が空いた。

西郷隆盛像を眺めて、ぶらぶらと観光して時間を潰そうかとも思ったが、

東京藝術大学に「アートプラザ」があると聞いた。

藝大にゆかりのある新進気鋭の作家の作品が、即売会形式で展示されているらしい。

せっかくだし、と僕は評論家気取りで、冷やかし半分に足を運んだ。


「これは写実的でいい」

「これは僕の好みじゃない」


小学生でも言えそうな感想を、頭の中で垂れ流しながら、一点ずつ眺めていく。

案の定、僕の目に映る大半が「好みではない」作品だった。


そんな中で、一枚の絵の前に立ち止まった。

それは、風景画とも抽象画とも取れる絵だった。

何を描いているのか、正直よくわからない。

それでも、不思議と自分の心象風景と重なった。

水辺から暗い水底へ落ちていく感覚。

息が苦しい。

口から抜ける空気が泡となり、ボコボコと水面へ昇っていく。

おもりを吊るされたように沈む体と、それに反する生きたいという渇望。

やがて力尽き、暗い水底に沈みきる直前、ふと水面を見上げたときの儚さ。

強烈なイメージが胸に迫り、目を離せなかった。

作者の意図は知らない。けれど、僕はそう感じた。


ああ、美しい。

ただ、それだけを思った。


しかし、展示を見ている途中で、自分がサングラスを掛けていることに気づいた。

色眼鏡を外して、もう一度その絵を見る。

すると、先ほどまでの強烈な印象は消え失せ、むしろ好みではないとさえ感じてしまった。

自分がズレた見方をしていたことに、僕はひどく落胆した。

真実の絵を知ってしまった以上、このまま立ち去ろうと思った。


けれど、サングラス越しに見た、あの一瞬の情景がどうしても忘れられなかった。

僕は確かに、あの作品を通して「僕だけが見えた世界」を発見したのだ。

買わなければ、その世界が失われてしまう――なぜだか、そんな気さえした。

一種の強迫観念にも似た感情が、胸に強く残った。


決して安くはない買い物だったが、

僕は、生まれて初めて絵を買った。


決済を終え、紙袋を手にした瞬間、

胸の高鳴りは驚くほどあっさりと引いていった。

代わりに残ったのは、「本当に買ってよかったのか」という、ごく凡庸な疑問だった。

衝動だったのではないか。

勘違いだったのではないか。

やはり好みではないと感じるのではないか。

そんな考えが、上野駅へ向かう道すがら、何度も頭をよぎった。


それでも不思議と、引き返そうとは思わなかった。

後悔はしても、なかったことにはしたくなかった。

あの一瞬、確かに心を掴まれたという事実だけは、手放してはいけない気がした。

それは絵の価値というよりも、

自分が何かに強く反応したという経験そのものだったのだと思う。


絵は、本棚の上に飾った。

本棚と絵。両方同時に、視界に入る場所がなぜかしっくりきた。

理由は後から言葉になった。

これは読み返さない本とよく似ている。

内容はもう覚えているし、今さら開くこともない。

それでも、考え方を手元に置いておきたい、立ち返る場所にしたい本。

そうして残される本のように、

あの絵もまた、僕の価値観を保管するための依代だと思う。


僕に芸術はわからない。

それでも、絵を買うという行為は、価値観を養うものと感じた。

今でも、絵画をコレクションしたいとは思わない。

生活するうえで、なくても困らない。

けれど、ないと自分ではなくなる。

この絵はきっと、その境界にある。

この絵を見るたび、僕は教訓のように思い返す。

裸眼だけが世界の見え方ではないことに。

あの日、僕は絵ではなく、自分という世界を買った。

《終わり》

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