ハナさんとリーくん:見えない風を聴く、水滴の宇宙
pure
第1話:自動ドアの拒絶と「あっかんべー」のおはらい
市役所のロビーは、とても静かでした。
自動ドアが開いたり閉まったりするたびに、冷たい雨のにおいが入り込んできます。そのドアのすぐ横で、一人のわかい男の子が立っていました。
リーくんです。
数ヶ月前にベトナムからやってきた彼は、自分のポケットやカバンの中、さっきまで座っていたイスの下を、必死に探していました。
「ない……ない! え、どこ……」
彼の顔は、真っ青でした。
探しているのは、彼が日本にいてもいいという大事な書類が入った、黄色い封筒です。
言葉もわからない、友達もいないこの場所で、その封筒をなくすことは、自分の居場所がなくなるのと同じくらい、怖いことでした。
そのようすを、私は少しはなれた場所から見ていました。
私のカバンの横では、少し色のあせた、ヘンテコな形のマスコットが、ゆらゆらとゆれています。
まわりの人は、みんな忙しそうに彼を通りすぎていきます。誰も、ふるえている彼に声をかけようとはしません。
「……これ、探しているの?」
私は、足もとに落ちていた黄色い封筒をひろって、彼に近づきました。
リーくんはびくっとして、おそるおそる私を見ました。怒られるのを待っている子供のような、自信のない目をしていました。
「あ、あ……ありがとうございます! それ、僕のです。どうしよう、と思って……」
彼は何度も頭をさげて、こわれものをさわるように、大事に大事に封筒を受け取りました。その様子を見て、私は彼が「まちがえること」をどれほど怖がっているかを感じました。
「大丈夫よ。この建物の神様が、ちょっといたずらして隠しただけだから」
私は、動きがにぶくて勝手に閉まろうとする自動ドアを指さしました。そして、リーくんには見えるように、でも誰にも見つからない速さで、ぺろっと舌を出しました。
「ほら、こうして『あっかんべー』って。これ、私なりの『おはらい』なの。笑っちゃえば、目の前にある壁なんて、ただの空気になっちゃうんだから」
リーくんは一瞬おどろいた顔をして、そのあと、小さく肩をゆらして笑いました。
私と彼の、少し変わった「おはらい」の日々が、この雨のロビーから始まったのです。
次の更新予定
2025年12月29日 20:00
ハナさんとリーくん:見えない風を聴く、水滴の宇宙 pure @pure2026
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