姉人形
守崎京馬
姉人形
友治の目にも父の産み出す人形の美しさは燦然と光だって捉えられたが、その源流には先述の単なる美術知識などという説明のみでは把捉出来ぬ特異な意思があるともまた感じており、それが事実何であるかすら薄々は心付いていたのであるが、そこに潜む情念の輪郭を正しく掴むには彼はまだ幼すぎた。
父は世間向きには穏やかな人格者として通っていたようだがその実大変な激情家であり、家の中では罵声や暴力が光芒に乱れた影法師のように常に父の周囲を飛びめぐっているのを友治は見て育ってきた。そしてその憤激の的場には彼の娘すなわち友治の姉にあたる人物が立たされることがその家における慣習ひいては美徳とされていた。
その姉であるが、
そんな優子を父はよく殴った。冬の寒い日に限って奥庭に薄着のまま放り出すこともあった。父が姉を叱る理由は友治には分からなかった。ただ彼の目には、姉の白く細やかな指が冬風に蝕まれて枯れ枝のように赤黒く変色している光景だけが、幻灯機に映し出された美麗な風景にも似た哀愁をもって焼き刻まれた。
父の人形には特異な
それらの人形の悲愴美に友治が重ね合わせたものは、姉優子の姿に他ならない。姉の持つ幻に似た美しさは正しく命無き人形のそれであり、舟形の目も逆扇の口も皆姉に由縁する造形に相違ないことを、幼いながら友治は胸の内にて見抜いていた。
さて
言わずもがな、友治が美の焦点に定めたものもまた優子その人である。人形を人間に限りなく近付け得るものは、極度に純化された魂の
幼少期のある真冬どきのことである。刺子の座布団に腰を下ろして暖に当たる姉の頬が、分かれ火を受けて薄桃にふっくりと火照るのを見て、友治はそこに柔らかな愛しさを見出だしたことがあった。姉もまだ歳の頃十四に至るか至らぬかの蕾上がりの時期であったが、幼い友治の目には成熟の果実に重ねられる豊かな優しさを蓄えた頬に映った。幸福の果実を
しかし家事の切れ目にぬくぬくと憩う姉を父は許さなかった。父は姉の
そして友治は、そこに先刻の柔らかな愛しさなどと言ったものとは全く別種の、鋭く
友治の造り出す人形は父のそれ以上に優子そのものの面貌を宿していた。技術の不足がかえって心の
夢と
友治は姉に視線を巡らせぬようになった。彼は人形の頭に筆を入れる前には必ず瞼を閉じ、過去の姉の姿を、その凄絶なる美を追慕するようになった。彼が崇拝したものは姉ではなく美であった。それも
父の死より二年後、優子は四つ歳上の銀行員の男と袂を結び、同年初子を宿したが、友治にはもはや現在の姉に対する興味執着など一欠片も残されてはいなかった。姉は折節に弟の様子を窺いに帰省したが、そのたび行き場のない憤懣が友治の胸に慎みなく立ち靡いた。今や姉は紛れもなく世俗の
さて実像の姉との一方的な訣別の末に友治が果たして
その手法であるが、まず頭と胴を
これほどまでに安穏造りの人形を憎みながら、三年にも渡りその
しかし三年目の秋に姉弟を取り巻く環境は急転した。優子の一人娘が数え三つにして夭折したのである。入浴時の溺死であった。優子が自らの髪を洗う際に娘への注意を失した数分の出来事であったと言うが、母として人として彼女の絶望と自責の念がいかほどであったかは記すべきにもない。
葬儀の場において優子と友治はおよそ一年ぶりに顔を合わせることとなったが、過去に幽閉されたきりであった友治の精神がこの時幾年ぶりに鳴り広がる
友治の胸は喩えようもない狂熱に弾んだ。半ば諦めかけていた『真の美』との再会は、彼に瞬間的な感動と未来への光明を同時に授け、かねて追い求めた幻影の正しさをさえ了知させた。その日を境に友治の産み出す人形からは安穏至福の色が全く消え去り、代わりに父の作を彷彿とさせる婀娜を孕み、あるいは
葬儀の日、白糸のような涙を瞼の内側でせき止めて気丈に徹していた姉の肩を優しく撫でる手があった。無論それは彼女の夫の手であるが、その手が留めたものは外面上の涙だけでなく、彼女の千切れ飛ぶ間際の精神の糸をもまた繋ぎ止めていたのではあるまいか。もしもその手が姉の肩を離れたなら――友治の頭の中に
その映像とはこうである。舞い遊ぶ
葬儀からおよそ半年後、友治は妻子の無い自分の身辺にまつわる相談をしたいと持ちかけて、姉の夫を呼び出し二人きりで対する機会を得た。
数日後、葬儀は再び開かれた。不運にも山で道を脱して転落した夫の
未亡人となった優子は故郷に帰り再び友治と姉弟二人での生活を始めたが、白百合のような彼女の微笑みが古宿を色付けたのは初めの
ある朝目覚めたばかりの優子を痛烈な感覚が襲った。右 の
そうとも知らぬ姉は箸を持つにも筆を取るにも風呂で我が身を清めるにも窮した末に、その扶助を自ら申し出た友治に腕を預けて、不自由な右手の代替として彼の体を借りた。食事の際には左手で事足りると本人は主張したが友治の方がそれを制して、米の一摘まみ豆の一粒が逐一彼の箸により姉の口へと届けられるようになった。また洗顔においては友治の指が姉の眉根から
美しい姉の手を酸で焼いてまでこれらの機会を作り上げた友治の動機として推量されるものは、一つには人形造りにおける美醜の
そしてまた一つには、より欲望的な、美への
友治は毎夜姉に紅茶を飲ませた。単なる美味の嗜好品としてではなく、息災を助けるとの
無論、この怪我は友治にとっては希求の
さてこの時分の姉は手足共に不自由な上に呼吸にも障害があり慢性的な睡眠不足も抱えていたわけであるが、心優しい彼女をそれ以上に苦しめたものは弟に対する負い目であったろう。友治の欲を知らぬ姉の目には、自分の世話に日夜追われる弟が不憫でならず、娘と夫に次いで彼もまた不幸を背負わされた身に見受けられたのではないだろうか。早年に亡くした父母も含めて、自分と結び合う身内が次々と不幸の
日一日と苦しみを深めていく姉の
姉を模した人形の数々は次第に生命を得たように色付いていった。対して姉は心身の疲労と絶望が極限に達し、次第に生命の色を失っていった。姉の虚ろな瞳には生来約束された不幸だけが克明に映し出されていた。
冬の日であった。空に氷の瓦を敷き詰めたような極寒の日であった。氷雨の降り続く音に窓も屋根も悲鳴を上げていた。
姉は重ねた毛布の内に体を入れて寒さを凌いでいるようだったが、その目は相も変わらず現実の物質の一切を拒絶したように虚ろな色合いにくすんでおり、唇は小刻みに震えていた。赤みを帯びた白肌からは今にも血が泉の如く湧き出してきそうに見えた。
そんな姉の姿を見た友治の心臓は矢庭に拍動を速めた。
そこには美があった。繰り返し繰り返す煩悶と執着の只中で友治が生涯追い続けた美があった。荒れ狂う氷雨の音色が彼の歓喜を一層奮い立てた。すべての希望を失った姉の美しさは最早過去の姉のそれを遥かに凌駕していたが、しかし一つだけ、真の美すなわち完璧な不幸には足りないものがあった。その不足を補うため、友治は姉の前に立った。姉は色の無い瞳で友治を見上げた。その瞳を目掛けて、友治は冷水をうちかけた。姉は声一つ上げなかった。ただ、静かに震えていた。静かに絶望していた。姉の白い肌は自らの白に呑まれて虚空に消えゆく霞のようであった。
友治は姉を抱き締めた。その肌を、その髪を、その頬を、その口を、その腕を、その脚を、その色を、その香りを、その柔らかさを、その冷たさを、その不幸を、そしてその美を、永遠の慈愛をもって抱き締めた。
その冬、友治の生涯における最高傑作と言うべき完璧な美を携えた一体の
友治は人形に名を付けるようなことは過去にしなかったが、この一体に限り彼自ら名を授けた。
もちろん、『優子』という名である。
姉人形 守崎京馬 @siraumenoka
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