第9話:高級肉の誘惑と、勘違いの首脳会談

朝、エアコンの効いた快適な部屋で目が覚めた。

天井は相変わらず不気味な岩肌だが、ふかふかの布団と静かな空気は、二十年前のボロアパートよりずっと寝心地がいい。


「さて、今日は肉の日だったな」


俺は昨日買ったばかりの電動歯ブラシで歯を磨き、鏡の前で特注のスーツに袖を通した。

髭も綺麗に整えた。

どこからどう見ても、少し渋みの増したただの「おっさん」だ。


地上へ繋がる穴を見上げると、時間通りにエレナがロープウェイのような魔法装置で降りてくるところだった。


「おはようございます、佐藤さん。……あら、今日は一段と決まっていますね」


「おはよう、お嬢ちゃん。肉を食べに行くんだ、失礼のない格好にしないとな」


「肉にかける情熱が凄まじいですね……。さあ、行きましょう。総裁がお待ちです」


俺たちはギルドが用意した防弾仕様の高級リムジンに乗り込み、都内の一等地にある老舗の料亭へと向かった。

到着すると、入り口には黒塗りの車が並び、周囲には殺気立った探索者たちが配備されている。

どうやらただの食事会ではないらしい。


「なんだ、随分と物々しいな。肉を奪い合う祭りか何かか?」


「違います。現代最強の『個』であるあなたと、日本の探索者界を束ねる総裁の会談ですから、世界中が注目しているんですよ。ほら、あそこのビルの屋上にスナイパーが見えるでしょう?」


「……ああ、蚊みたいなのが止まってるな。最近の護衛は大変だな」


俺にはスナイパーの銃口がはっきりと見えたが、まあ、俺に当たる前に空中で止める自信はあるので放っておくことにした。


案内されたのは、美しい庭園が見える広大な和室だった。

部屋の中央には、一人の老人が座っていた。

白髪を綺麗にまとめ、和服を凛と着こなしている。

その眼光は鋭く、並の探索者なら視線だけで気絶しそうなほどの威圧感を放っていた。


「よく来てくれた、佐藤殿。私が日本探索者ギルド総裁、室町だ」


「どうも。迷子の佐藤です。……ところで、例のものは?」


挨拶もそこそこに俺が本題を切り出すと、室町総裁は少しだけ面食らったような顔をした。

しかし、すぐに口角を上げ、傍らの仲居に合図を送った。


「ふふ、噂通りの御仁だ。……出しなさい」


運ばれてきたのは、神々しいまでの輝きを放つ、大皿に盛られた霜降りの肉だった。

松阪牛。

それも、市場には出回らない最高等級のものだ。


「……おお」


俺の目が輝いた。

二十年間、筋張った魔物の肉や、泥臭い巨大トカゲの尻尾を食ってきた俺にとって、これはもはや芸術品だ。


「この肉を焼きながら、少し話をしたい。……佐藤殿、君の実力はすでに把握している。新宿ゲートの主を瞬殺し、Sランクをデコピンで沈めた。君の力は、もはや一国の軍事力に匹敵する」


総裁が肉を焼きながら、静かに語りかける。


「単刀直入に言おう。ギルドの顧問になってくれないか? 君が日本にいてくれるだけで、他国からの魔導核兵器による脅威すら抑止できる」


「顧問? よく分からんが、面倒な仕事は御免だぞ。俺は静かにテレビを見ていたいんだ」


俺は箸を伸ばし、絶妙な焼き加減の肉を口に運んだ。


「……っ!!」


衝撃が走った。

舌の上で肉が溶ける。

脂の甘みが脳を突き抜け、二十年間の苦労が全て浄化されていくような感覚。


「う、美味い……。美味すぎる。これだ、これこそが俺が求めていた文明の到達点だ!」


「気に入ってくれたようで何よりだ。……さて、顧問の件だが、基本的には何もしなくていい。ただ、今回のようにたまに美味しいものを食べに来てくれればいい。その代わり、日本に危機が迫った時だけ、少しだけ『散歩』をしてほしいのだ」


「散歩、か。それくらいなら構わんが……」


俺が肉を咀嚼していると、突然、庭園の向こう側から凄まじい魔力反応が迫ってきた。


「室町総裁! 命を頂戴する!」


叫び声と共に、庭の木々をなぎ倒して三人の暗殺者が乱入してきた。

彼らは他国のエージェントだろうか。

手に持った魔導短剣が不気味に光っている。


「総裁! お下がりください!」


控えていたエレナが武器を構えるが、暗殺者たちの速度は異常だった。

彼らはAランク上位に相当する実力者らしく、一瞬で総裁の喉元まで迫る。


「……おい」


俺は、二枚目の肉を焼こうとしていたところだった。

せっかくの食卓が、土足で荒らされるのは我慢ならない。


俺は箸を持ったまま、座った姿勢で「軽く」空気を突いた。


「食事中に騒ぐな。行儀が悪いぞ」


シュンッ、という小さな音。

俺の正拳突きが引き起こした「真空の塊」が、暗殺者たちの目の前を通過した。


ドォォォォォォォンッ!!


「なっ……!?」


直撃させたわけではない。

ただ、彼らの鼻先を衝撃波が通り過ぎただけだ。

それだけで、暗殺者たちは衝撃波の余波に巻き込まれ、庭園の池を飛び越え、その先の巨大な防護壁をも貫通して、遥か彼方の空へと消えていった。


静寂が訪れる。

庭園には、俺が突いた衝撃で出来た「透明な道」が、一直線に空まで伸びていた。


「……さて。次はすき焼き風にして食べていいか?」


俺は何事もなかったかのように、三枚目の肉を網に乗せた。


振り返ると、室町総裁は持っていた湯呑みを落とし、エレナは白目を剥いて固まっていた。

スナイパーたちも、あまりの光景に照準を合わせることすら忘れているようだ。


「……佐藤殿。今の……手加減、したのか?」


「ああ。殺すと後味が悪くなるからな。ちょっと遠くまで飛んでもらっただけだ。たぶん、隣の県くらいまでは行ってるだろうが」


俺が肉の焼け具合を確認しながら言うと、総裁は震える手で眼鏡を拭き直した。


「……顧問の件、正式に依頼させてもらう。報酬は……君が望む限りの最高級食材を約束しよう。日本……いや、世界の平穏は君の胃袋に託されたようだ」


「肉さえあれば、俺は平和主義者だぞ」


俺は満足げに笑い、再び松阪牛の深淵へとダイブした。


こうして、俺は知らないうちに国家の守護神としての地位を確立してしまった。

だが、俺の頭にあるのは、明日の朝飯を何にするかということだけだった。


「エレナ、次は寿司ってやつが食べたいな。二十年前より美味くなってるんだろ?」


「……ええ。お供しますよ、世界最強の迷子さん」


エレナの呆れたような、それでいてどこか安心したような声を聞きながら、俺は贅沢な昼食を堪能した。

おっさんの現代適応は、胃袋から着実に進んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年12月31日 17:01
2025年12月31日 21:01
2026年1月1日 17:06

ダンジョン最深部で20年迷子だったおっさん、地上へ帰還。~現代最強の探索者たちが束になっても勝てない魔王を「野良犬」感覚でワンパンしていた~。 しゃくぼ @Fhavs

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ