第2話:二十年ぶりの文明の味

静まり返った新宿のど真ん中で、俺は腹の虫を鳴らした。

さっきの大きな犬を倒した衝撃波で、辺りの空気は綺麗に入れ替わった気がするが、俺の胃袋の中身は空っぽのままだ。


「……あの、おじさま? 待ってください、どこへ行くのですか!」


背後から、さっきの金髪のお嬢ちゃん――エレナだったか――が慌てて追いかけてくる。

周りを見渡せば、遠巻きに見ていた連中がこぞって奇妙な板切れをこちらに向けていた。

なんだありゃ。薄っぺらい鏡か?


「どこって、牛丼屋だよ。二十年も食ってないんだ、俺の体は今、醤油と砂糖で煮込まれた肉を求めてるんだ」


俺がスタスタと歩き出すと、エレナが信じられないといった顔で横に並んできた。


「牛丼!? 今この状況で、ですか? あなたは今、この国で最も危険な魔物の一つを、ただの拳一つで消滅させたのですよ!?」


「だから腹が減ったんだよ。力を使うと腹が減る、これ生物の基本だぞ。お嬢ちゃんも魔法なんて使ったんだから、何か食べたほうがいい」


「そういう問題では……! それに、その格好で歩くのはあまりに目立ちすぎます!」


エレナが指摘したのは、俺の自慢の装備だ。

深層に棲まう「奈落の黒龍」の皮を剥いで作った、耐熱・耐魔・耐衝撃に優れた究極のサバイバルウェア。

まあ、見た目は継ぎはぎだらけのボロ布にしか見えないんだろうが。


「そうか? さっきの連中よりは地味だと思うんだがな」


俺は街角にある、懐かしい看板を見つけた。

二十年前と変わらない、オレンジ色の看板。

あぁ、これだ。これだよ。


「よし、ここだ。お嬢ちゃん、付き合ってくれるなら奢るぞ。金があるかは分からんが、ダンジョンで拾った綺麗な石なら腐るほどある」


「綺麗な石……? まさか魔晶石のことですか?」


俺は店の中に足を踏み入れた。

店員が「いらっしゃいませ!」と声を上げようとして、俺の姿を見て固まる。

そりゃそうだ。原始人みたいな男と、テレビから出てきたような美少女が一緒に店に来たんだからな。


カウンターに座り、メニューを見る。

……高い。二十年前よりだいぶ値上がりしてやがる。

インフレってやつか。二十年の歳月をこんなところで実感するとは思わなかった。


「店員さん、牛丼の特盛。あと玉子と味噌汁、それにお新香も付けてくれ」


「あ、はい! かしこまりました!」


店員が震えながら厨房に下がる。

俺は卓上に置いてあったコップに手を伸ばした。

水だ。透明な、消毒の匂いがしない、清潔な水。

一気に飲み干す。


「ぷはぁ……美味い。水が美味いなんて、日本はいい国だな」


「……おじさま。あなた、本当に二十年間もダンジョンにいたのですか? それも、あの最深部に」


向かいに座ったエレナが、探るような視線を向けてくる。


「ああ。最初は数日のつもりだったんだがな。気がついたら出口が塞がってて、そこからはひたすら下へ下へと進むしかなかった。途中で変な爺さんに会って、変な体操とか正拳突きの練習をさせられたりしてな……。ようやくさっき、出口っぽい歪みを見つけたんだよ」


「変な体操って、まさか伝説の古武術とかでは……。それに、ダンジョンの最深部には現代最強の探索者チームですら辿り着けていないはずです。そこを一人で……?」


「まあ、独りぼっちは寂しかったぞ。話し相手といえば、たまに出てくる喋る骸骨くらいだったからな」


「喋る骸骨(リッチー)……最上位のアンデッドを話し相手にしていたのですか……?」


エレナが頭を抱えている。

そんなに驚くことだろうか。

暗闇に二十年もいれば、動くものなら何でも友達に見えてくるもんだ。


「お待たせしました! 牛丼特盛セットです!」


運ばれてきたのは、至福の塊だった。

湯気が立ち上り、甘辛い香りが鼻腔をくすぐる。

俺は箸を割り、手を合わせた。


「いただきます」


肉を一口、口に運ぶ。

……震えた。

舌の上で踊る脂の甘み。二十年間、魔物の肉を丸焼きにするか生で食うかしかしてこなかった俺にとって、この繊細な味付けは神の業に等しかった。


「う、美味い……。美味すぎる……。生きてて良かった……」


「お、おじさま? 泣いてるのですか?」


「うるさい。お嬢ちゃんには分かるまい、この一杯の重みが」


ガツガツと、文字通りかき込む。

噛み締めるたびに、失われていた人間性が戻ってくる感覚がした。

そうだよ、これだ。俺はこれを食べるために、あの地獄のような二十年を生き抜いたんだ。


あっという間に平らげ、俺はふぅと長い息を吐いた。

腹が満たされると、ようやく落ち着いて話ができる。


「さて、お会計だな。店員さん、これで足りるか?」


俺は腰のポーチから、適当な石を取り出してカウンターに置いた。

それは、ダンジョンの最下層で邪魔だった巨大なゴーレムを壊したときに出てきた、拳大の赤い宝石だ。

赤く燃えるような輝きを放ち、周囲の温度がわずかに上がった気がする。


「な……っ!? ちょっと、おじさま! それは火龍の極大魔晶石じゃないですか! そんなもの、一国が買えるレベルの国宝ですよ!」


エレナが椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。


「え? いや、これ、そこら中に落ちてたぞ? 夜道で灯り代わりにするのにちょうどいいくらいのやつだ」


「ありえません! そんなものが転がっている場所なんて、神話の世界だけです!」


店員は泡を吹いて倒れそうになっている。

どうやら、俺の持ち物は現代では少し価値が高すぎるらしい。


「困ったな。これしか持ってないんだが……。お嬢ちゃん、代わりに払っといてくれないか? 代わりにこの石、やるよ」


「……本気ですか? こんな、全探索者が命を懸けて奪い合うような至宝を、牛丼代の代わりに?」


「ああ。俺にとっては牛丼の方が価値がある」


俺が本気で言うと、エレナは深く、深いため息をついた。


「分かりました。私が肩代わりします。その代わり、おじさま……いえ、佐藤さん。あなたをこのまま放っておくわけにはいきません。ギルド……いえ、政府の管理下に置かないと、世界がひっくり返ります」


「管理? 面倒なのは嫌いだぞ。俺はただ、静かに二十年分のテレビでも見ながらゴロゴロしたいんだ」


「あのベヒモスを一撃で粉砕した人が、何を言っているのですか……」


エレナは財布からカードのようなものを取り出し、会計を済ませた。

どうやら現代では、石を灯りにするよりも、あの薄いカードの方が力を持っているらしい。


店を出ると、外にはさらに多くの人が集まっていた。

パトカーのようなサイレンの音が近づいてくる。


「さあ、佐藤さん。行きましょう。現代の洗礼、受けてもらいますからね」


「おいおい、食後の昼寝もさせてくれないのか?」


俺は苦笑いしながら、空を見上げた。

二十年前にはなかった高いビル群が、夕日に照らされて輝いている。

どうやら、俺の第二の人生は、牛丼一杯では終わらせてもらえないらしい。


「まあいいか。面白いお嬢ちゃんもいることだしな」


俺はゆっくりと、二十年後の世界へと歩き出した。

とりあえず次は、まともな服を買いに行くとしよう。




 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

あとがき

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