白石柚葉の旅先推理帖
白石柚葉
第1話 白石柚葉の旅先推理帖 #01「鳩はいなかった」— 金沢・美術館篇
プロローグ:地図をなぞる手
金沢悠久美術館の館長、加賀谷崇(かがや たかし 52)は受話器を握りしめていた。電話の向こうからは、調達部長の岡部俊一(おかべ しゅんいち 43)の硬い声が響いている。
「館長、やはり不自然です。近頃の美術品購入、館の予算では説明がつきません。私的なコレクションに流用しているのではありませんか」
淡々とした指摘に、加賀谷の額にはじっとりと汗がにじんだ。岡部は誠実で真っ直ぐな男だ。だからこそ厄介だ。言いくるめることもできず、このままでは自分の不正が露見しかねない。
受話器の向こうで追及が続く。加賀谷は黙り込み、そして低くつぶやいた。
「……わかった。君の言うとおり、私は愚かなことをしてしまったのかもしれない」
その声音は悔恨を装っていた。
「一晩、考えさせてほしい。明日の15時に美術館の会議室で話そう。そこで改めてどうすべきか、君の意見を聞かせてほしい」
岡部は一瞬ためらったが、やがて「……承知しました」と答えた。
加賀谷は口元をわずかに歪めた。明日、15時、そこが舞台となる。
「その日は14時から市主催の文化交流パーティーに顔を出さなければならないんだ。来賓として挨拶をした後、美術館に戻ることにする。15時には会議室で待っているよ」
岡部は、うなずいた気配のある声で答えた。
「では、明日。館長がそうおっしゃるなら」
通話が切れた瞬間、加賀谷は深く椅子にもたれ、目を閉じた。
岡部を説得する気など、初めからなかった。
明日、彼を消す。それだけだ。
翌日、13時を少し過ぎた頃。
美術館の職員が館長室を訪れた。
「館長、そろそろパーティーのご出発のお時間です」
加賀谷崇館長は頷き、上着を整えると「わかった、行ってくる」と告げた。
職員が「観光ホテルまでお送りしましょうか?」と尋ねる。
館長は「いやいや今日は3連休の初日だし16時から岡部くんの公開レクチャーもあるし忙しいだろう。自分で運転していくよ」と言って職員を下がらせた。
職員通用口の端末にIDカードをかざすと、ピッという音とともに「13:12 退館」の記録が残った。
加賀谷の車は金沢の市街地を抜け、15分ほどで目的地に到着した。会場は「金沢観光ホテル」その大広間で、市主催の文化交流パーティーが開かれていた。
14時になると市長の挨拶が始まった。立食形式の会場は華やかな熱気に包まれていた。地元政財界の面々や文化人が集まり、次々と挨拶を交わす。加賀谷は、いつも以上に積極的に歩き回り、あちこちで談笑しては存在感を示した。「自分は確かにここにいた」と印象づけるために。
市長の次に来賓挨拶に立ち、5分ほどスピーチを終えたのち、加賀谷はそっと会場を抜け出した。廊下の化粧室でジャケットを着替え、帽子と眼鏡をかけ、黒めの服装にして、普段の館長らしさを消す。
この変装は先日に近くの公園で起きた傷害事件の犯人の服装がテレビで流れていて、それに似せている。
車に戻った彼はホテルを後にした。そして美術館から少し離れたスーパーの駐車場へ車を止めた。美術館の正規の駐車場では車が目立ちすぎる。ここなら監視カメラの死角も多く、怪しまれることはない。
そこから徒歩で美術館へ。事前に購入しておいた一般客用の入館券を使い、素早く入館ゲートを通過する。14時50分に一般客として入館の記録がされる。3連休の初日で観光客も多く、誰にも気づかれずに入館ゲートを通過できた。
展示フロアを抜けて裏の通路へ進もうとしたとき、前方に一人の若い女性が立ち止まっていた。パンフレットを手に、首をかしげながら呟いている。
「この展示室、どうやって行けばいいのかな……」
加賀谷は一瞬、足を止めた。急ぎたい。顔もできるだけ見られたくない。だが、このままでは邪魔だ。思わず仕事の癖が出る。
「そちらではなく、この通路を曲がれば行けますよ」
そう言ってパンフレットの案内図を指で示し、立ち去ると「ありがとうございます」と後ろで声がした。加賀谷は内心で舌打ちしつつ、職員専用の扉を開け、裏の会議室へと消える。
15時前。約束どおり、岡部俊一調達部長が会議室に現れた。二人の間に短い言葉が交わされ、その瞬間、岡部調達部長の運命は決まった。
加賀谷は会議室を後にし、15時11分に美術館の退館ゲートを出た。再びスーパーの駐車場に戻り、車を走らせる。
15時半過ぎ。彼は再び金沢観光ホテルの大広間に戻っていた。先ほどまでと同じように、普段は交流しないような顔ぶれとも積極的に言葉を交わし、会場に“確かに自分はいた”という印象を残した。
16時。パーティーはお開きとなり、加賀谷は周囲と別れの挨拶を交わす。16時20分、ホテルを出発。16時40分、美術館に到着すると、周囲はすでにパトカーの赤色灯に包まれていた。職員通用口の端末にIDをかざして鍵を開ける。「16:41 入館」の記録がされる。
第一章:金沢への旅路
久しぶりの3連休。
白石柚葉(しらいし ゆずは 28)は、朝の東京駅に立っていた。
28歳、警察庁生活安全局のキャリア官僚。若くして「特任警視」の肩書を持つが、本人の雰囲気はその堅苦しい響きからはほど遠い。
ふわりと柔らかな表情、旅行好きの普通のOLにしか見えない佇まい。それが彼女の“外見の武器”でもあった。
旅は好きだが、方向音痴でもある。東京駅は迷路だ。それもまた、旅の始まり。
無事に北陸新幹線「かがやき」の指定席に腰を下ろすと、彼女は小さなスイーツの袋と駅弁を広げた。3連休という特別感からか、缶チューハイまで買ってしまったのは内緒だ。窓の外を流れる風景を眺めながら、柚葉は久々の一人旅に胸を弾ませていた。
約2時間半の道のりを経て、金沢駅に到着。
改札を抜けると、観光都市の象徴とも言える鼓門(つづみもん)が大きく構えている。青空の下、その堂々とした姿は訪れる人々を迎え入れていた。駅構内は観光客で賑わい、土産物屋には加賀友禅や金箔細工が並び、旅行者たちが次々と足を止めている。駅前広場からは観光バスや路線バスがひっきりなしに出発しており、兼六園やひがし茶屋街へ向かう人々の活気があふれていた。
「お昼はどうしようかな」
そうつぶやきながら、柚葉は駅ナカの回転寿司店に入る。旬の地魚を気軽に味わえるのも旅の醍醐味だ。軽くお腹を満たした後、彼女は午後の目的地を「金沢悠久美術館」と決めた。時刻は14時を過ぎたところだった。
第二章:静謐の美術館
金沢駅からバスで15分ほど。
金沢悠久美術館は、堅牢な石積みと縦長窓が印象的な昭和初期の洋館風の建物。新しい華やかな観光施設ではなく、落ち着いて作品と向き合える空気を大切にする中規模の美術館である。
受付でチケットを買いパンフレットをもらう。館内に足を踏み入れると、柔らかな照明が作品を包み、ゆったりとした空間が広がっていた。観光客はそれなりにいるが騒がしくはなく、どこか静謐な雰囲気が漂っている。
柚葉はパンフレットを片手に展示を巡っていたが、方向音痴の癖が出てしまい、次第に職員専用エリアに近い通路へと迷い込んでしまった。
「ええと……この展示室、どうやって行けばいいんだろう」
館内図を指でなぞりながら小声でつぶやいた時、不意に声がかかる。
「そちらではなく、あちらを進むといいですよ」
帽子を目深にかぶった男性が足早に通りすぎながら指を差して道を教えてくれた。お礼をする間もなくその人物は立ち去った。柚葉は後ろ姿を見ながら「ありがとうございます」と軽く会釈して、教えてもらった方向へ進む。
だが結局、辿り着いた先は先ほど見た展示室。
「また戻ってきちゃった……」柚葉は苦笑する。だが、せっかくなので再びゆっくりと作品を見直すことにした。絵画や彫刻を行き来しながら、館内を一時間近くかけて巡る。観光の旅に時間の余裕はある。方向音痴もまた、旅の楽しみの一部なのかもしれなかった。
やがて時計の針は16時になろうとするところだった。
「そろそろホテルにチェックインしようかな……」
そう思い始めた矢先。
遠くからサイレンが近づき、館の外にパトカーが次々と停まった。制服警官が慌ただしく駆け込み、館内の空気が一変する。
観覧客たちがざわめき、静かな美術館に緊張が走った。
柚葉は思わず足を止める。
「……いったい、何が起きたの?」
第三章:15時の会議室
15時40分。
美術館の事務室では、数人の職員が慌ただしく資料を確認していた。16時からは、特別展示に関する公開レクチャーが予定されている。登壇するのは調達部長の岡部俊一だ。
しかし、予定の時間が迫っているにもかかわらず、岡部の姿がどこにも見えない。
「岡部さん、どこにいるんだ?」
「控室にもいないし、電話にも出ないんだよ」
不安がさざ波のように広がる。職員の一人が「もしかしたら会議室にいるのでは」と口にし、一行は資料室や廊下を探しながら会議室へ向かった。
その扉を開けた瞬間、空気が凍りついた。
床に倒れ込んでいる岡部の姿。頭部付近に血が広がり、傍らには散乱した書類が無惨に落ちている。
「……っ、血だ!」
誰かの悲鳴が静かな館内を突き破った。
動揺する職員の一人が、震える手で携帯電話を取り出し、すぐさま110番通報をする。
そして数分後。
外からサイレンの音が響き、次々とパトカーが美術館の前に集結していった。
第四章:『誰に殺された?』
館内に制服警官や鑑識班が入り込み、静謐な美術館は一転して騒然とした空気に包まれていた。黄色い規制線が張られ、職員たちは不安げにざわめいている。
指揮を執っているのは、金沢本町警察署の刑事課に所属する野村剛志刑事だ。45歳、叩き上げの現場刑事で、がっしりとした体格と大きな声が印象的だ。
「よし、関係者は一人残らず確認するぞ。客も含めて全員、名前と連絡先を控えろ!」
職員たちへの聞き込みが進められる中、野村の視線が偶然居合わせた観光客の一人、白石柚葉に向いた。
「そこの方、ちょっといいですか。事件がありまして念のために伺います。お名前とご職業を」
柚葉は落ち着いた声で答えた。
「白石柚葉です。職業は……公務員です」
「公務員、ね」野村は腕を組む。「公務員といってもいろいろありますよ。市役所とか県庁ですか?」
柚葉は一瞬ためらい、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「……国家公務員です」
野村は少し驚いたように眉を上げる。
「国家公務員。なるほど。ですが国家公務員も幅広い。どちらにお勤めなんです?」
柚葉は観念したように、小さく息をついて答えた。
「警察庁、生活安全局に所属しています」
一瞬、周囲の空気が止まった。
ふわりとした服装に柔らかな雰囲気。どう見ても旅行中のOLにしか見えない彼女の口から「警察庁」という言葉が出るとは、誰も想像していなかった。
「……冗談じゃないよな?」野村は半信半疑で確認した。
念のために無線で照会をかけると、すぐに返ってきたのは「本庁のキャリア官僚・白石警視」の名。
「失礼しました!」野村は姿勢を正し、頭を下げる。野村は警部補、白石は警視。組織の上では二階級上になる。
「まさか本庁の方とは……。白石警視、今後の捜査でご協力いただければ幸いです」
柚葉は首を横に振り、柔らかく笑った。
「いえ、私は旅行者ですから。ただ、見たことや感じたことをお伝えできれば」
そのときだった。
館の入り口からざわめきが起こった。黒塗りの車が横付けされ、スーツ姿の男が降りてくる。
「館長が戻られました!」と職員が声を上げる。
現れたのは、館長の加賀谷崇だった。野村刑事と同様に大柄でガッチリした体格だ。疲れたふりをしながら、大股で歩いてくる。
「どうしたんですか、この騒ぎは? 携帯に着信はありましたが……ちょうど会場を出たところで、車に乗っていたので出られなかったんです」
野村が正面に立ちはだかる。
「加賀谷館長。調達部長の岡部さんが、会議室で亡くなっているのが見つかりました」
館長は顔をしかめ、芝居がかった驚きを見せた。
「なんてことだ……。いったい誰に殺されたんですか?」
その瞬間、柚葉の耳がぴくりと反応した。
誰に殺された?
柚葉は一歩近づき、柔らかい口調で問いかける。
「館長。まだ詳しいことは分かっていないのに、どうして“殺された”と?」
加賀谷はわずかに目を泳がせたが、すぐに取り繕った。
「いや……これだけ警察の方が大勢来ているのを見れば、普通の病死じゃないと分かりますよ。最近は物騒でしょう? 近くでも事件があったばかりですし」
柚葉はにこやかに頷き、口を閉じた。
「なるほど、そういうことですね。ええ、最近は本当に事件が多くて」
そのやり取りの直後、加賀谷館長は別の刑事に声をかけられた。
「館長、詳しい状況を伺いたいので、こちらの部屋で改めてお話を聞かせてください」
「ええ、もちろんです」
館長は落ち着いた表情を取り繕いながら、職員に案内されて別室へと向かっていった。
残された柚葉は、傍らの野村刑事に声をかける。
「野村さん。この美術館の館長さんは、どんな方なんですか? 有名な方なんですか?」
野村は腕を組み、やや渋い顔で答えた。
「加賀谷館長は、金沢の美術業界じゃ知られた人物ですよ。地元じゃ文化人として顔も広いし、実力もある。まぁ、この美術館がここまで大きな展示を開けるのも、館長の人脈あってのことですからね。そして向こうはわたしの事を知らないでしょうが、わたしが行くジムでたまに見かけます」
「なるほど……ジムで鍛えてるから身体もガッチリしてるんですね」
柚葉は視線を落とし、先ほどのやり取りを思い返す。
柚葉は胸の奥で引っかかりを覚えていた。館長は“殺された”と断言した。それは、偶然の一言だったのか。それとも……。
彼女は表情を変えず、心の中で考え込んでいた。
第五章:湯気の中の違和感
その日の美術館は、夜まで混乱が続いた。
関係者や来館者の数が多く、一人ひとり事情を聞くのにも膨大な時間がかかる。
白石柚葉は旅行者でありながら、警察庁の人間だ。事情聴取の補助に加わり、来館者への聞き取りや簡単なメモ取りを手伝った。慣れた応対に、地元署員たちは「さすが本庁」と舌を巻く。
そうしてようやく解放されたのは、20時を過ぎてからだった。
柚葉は予約していたホテル、金沢香林坊の宿・乃々庵へと足を運んだ。街中にありながら、加賀温泉の源泉を運んできている大浴場も備える和風ホテル。畳敷きの廊下を歩けば、旅館に来たかのような落ち着きがあった。
夕食は、警察署で出された幕の内弁当になってしまった。本当は海鮮丼でも楽しむつもりだったが、そんな気分ではない。部屋に戻り、大浴場へ向かう。
湯船につかると、昼間の出来事が頭をめぐった。
館長の一言。「誰に殺されたんですか?」
あのときの表情。
そして、何か小さな違和感。うまく言葉にできないが、胸の奥に引っかかる感覚が残っている。
柚葉は目を閉じ、心に決めた。
「……明日、館長のアリバイを調べてみよう」
第六章:15時の不在
翌朝。ホテルの朝食バイキングは北陸らしい品々が並んでいた。加賀野菜の煮物に新鮮な魚、そして香ばしい味噌汁。柚葉は小皿をいくつも並べ、静かに楽しんだ。
朝食を食べ終え金沢本町警察署を訪れると、野村刑事が出迎えた。
「白石警視、昨日はご協力ありがとうございました。助かりましたよ」
「いえ、少しでもお役に立てたならよかったです」柚葉は笑みを浮かべる。
署内では監視カメラ映像の解析が進められていた。野村が説明する。
「14時50分ごろ、帽子に眼鏡の黒ずくめの人物が入館し、20分ほどで退館しています。顔ははっきりしませんが、怪しいのは確かです。館内の一部は死角になっていて、その先に職員専用通路がある。そこから会議室へ入った可能性もありますね。しかも被害者の岡部調達部長は他の職員に14時50分頃にトイレで見かけられている。とするとその時刻から発見されるまでの50分間に殺害されたことになります。時間的にもこの黒ずくめの男がますます怪しくなります」
野村は手元の資料を指で叩いた。
「殺害現場の会議室は、次の展覧会の撤収前でした。石像や石の小品が梱包待ちで並んでいました。物取りの線はなさそうですね。そして凶器はパイプ椅子。折り畳んだまま何度も鈍打しています。」
柚葉は石像の列を思い浮かべ、首を傾げた。
「石像が隣にあるのに、パイプ椅子? 一撃なら石のほうがよいのに」
そして小さく息を吸い込み、野村刑事に向き直った。
「私、昨日のパーティーの出席者に少しお話を伺ってみます。気になることがあるので」
野村は驚いたように眉を上げたが、すぐに苦笑する。
「ええ……まあ、本庁の方に止めろとは言えませんしね。ご無理はなさらないように」
「ありがとうございます。それでは、行ってきます」
柚葉は丁寧に一礼し、署を後にした。
彼女の背中を見送りながら、他の刑事たちがひそひそと話し出す。
「……旅行で来てたはずなのに、ずいぶん熱心だな」
野村も肩をすくめて笑った。
「せっかく事件に巻き込まれたんだ。少し刑事ごっこを楽しみたいのかもしれないな。まあ、任せておいてもいいだろう」
そう言いながら野村の目には不安と期待が混じっていた。
第七章:方向音痴の聞き込み
柚葉はタクシーに揺られながら、前夜の文化交流パーティーの出席者を訪ね歩いた。方向音痴ゆえに地図だけでは不安で、タクシーの運転手さんに道案内を頼みながらの聞き込みである。
訪ねた先は、商工会議所、青年会議所、観光協会、地元経済団体の支部、どこでも館長の姿は確認されていた。
「最初にご挨拶いただきましたよ」
「後半にも少し言葉を交わしました」
時間の細かい証言は曖昧だが、どの出席者も「館長は確かにいた」と口を揃えた。
最後に訪ねたのは金沢市長だった。
「いやぁ、加賀谷館長にはいつもお世話になっています。昨日もご出席されてましたよ。初めと終わりにお話ししました」
柚葉が「何か変わったことはなかったでしょうか」と尋ねると、市長はふと笑顔を見せた。
「変わったことといえば……私、最近マジックを始めましてね。昨日のパーティーでも披露したんですよ。ホテルのスプーンが硬すぎて全然曲がらず、力任せにねじったら笑われてしまいました。練習不足でしたな、ははは」
柚葉「市長、それは何時ごろですか?」
市長(上機嫌に)「司会の進行表に『15:00 市長スプーン曲げ』と入れてもらってね。会の中盤、“ここでサプライズショーがあります”って段取りにしたんだよ」
柚葉は丁寧に笑みを返しつつ、心の中でつぶやいた。
(今どき、マジックでスプーン曲げか……)
さらに市長は調子に乗って「今ここで少しやってみましょうか」とテーブルにあったスプーンに手を伸ばしかけた。
「いえ、この後予定がありますので……またの機会にお願いします」柚葉は慌てて頭を下げ、その場を辞した。
市長は残念そうに柚葉を見送った。
第八章:偽りの鳩
午後、柚葉は再び金沢悠久美術館を訪ね、館長室の加賀谷崇に会った。
「昨日はご挨拶ができず失礼いたしました。白石柚葉と申します」
「ああ、警察庁の方でしたか。刑事さんなんですね」
「いえ、刑事ではありませんけれど」柚葉は軽く笑って受け流す。
そして、昨日の事件について何か思い出したことはないかと尋ねると、館長は真面目な顔で答えた。
「岡部調達部長は本当に実直な人でした。恨みを買うような人間ではありません。ただ、真面目すぎてやりにくいと感じた人もいたかもしれませんが……。調達の仕事は競合も多いですしね」
世間話に流れかけたところで、柚葉は思い出したように話題を振った。
「そういえば、昨日のパーティーで15時ごろ市長さんが面白いことをされましたね。マジックを披露されて」
「ええ、驚きましたよ。あんな芸もされるんですね」館長は即座に相槌を打った。
柚葉はさらに踏み込んだ。
「市長さん、ハンカチの中から白い鳩を出されたでしょう?なかなか最近は見ないマジックですもんね」
「本当に。私もあんな白い鳩は久しぶりに見ました。あれには驚きましたよ」
柚葉は、にこやかに頷きつつ話を続けた。
「実は私、先ほど市長さんにお会いしたときに“今ここでやりましょうか”なんて言われて、マジックを披露されそうになったんです。慌てて予定があると言って逃げてきちゃいましたけど」
すると館長は笑みを浮かべながら答えた。
「それは惜しいことをしましたね。せっかくの機会だったのに。今の時代、ハンカチから鳩を出すなんて古典的なマジック、そうそう見られるものではありませんから」
柚葉は表情を崩さず、美術館を後にした。だが胸の奥では、確信が固まりつつあった。
館長は15時の市長のマジックを見ていない。
それなのにありもしない「鳩を見た」と自ら語った。
しかも「今の時代では珍しい」とまで言ってのけたのだ。
柚葉は歩きながら、小さく息を吐いた。
(やっぱり、この人……。絶対に何か隠してる)
第九章:パンフレットの手触り
その晩も、柚葉は宿泊先のホテルへと戻った。畳敷きの落ち着いた部屋に荷物を置くと、大浴場へ向かう。
湯船に浸かりながら、彼女は一日の出来事を振り返った。
館長が最初に見せた違和感。岡部調達部長が「亡くなった」としか告げられていない段階で、「誰に殺されたのか」と口走ったこと。
そして今日。パーティー出席者の証言はどれも「館長はいた」という証言だった。
だが市長のスプーン曲げのくだりで、館長は「鳩のマジックを見た」と嘘を重ねた。
(やっぱり、あの人……途中で抜け出して犯行に及んだんだ)
確信めいたものはある。だが、それはまだ推測に過ぎない。逮捕につながる「決定的な証拠」には程遠い。
柚葉は湯気に包まれながら、自嘲気味に小さく笑った。
自分は刑事じゃない。ただの官僚に過ぎない。やはり事件を解くのは簡単じゃないなぁ。
湯から上がると、夜食の時間が近かった。ホテルでは「夜鳴きそば」と称する醤油ラーメンが無料で振る舞われる。柚葉も小腹を満たそうと食堂へ向かった。
ラーメンをすすりながら、ふと隣のカップルに目が行く。二人は肩を寄せ合い、楽しそうに旅行の予定を話し合っていた。
(いいなぁ……彼氏がいれば、方向音痴で美術館で迷って事件に出会うこともなく、もっと楽しい旅行になったのに)
そんな思いが胸に浮かび、少しだけ寂しさがこみ上げる。
早めに部屋に戻ろうかな。
そう思った矢先、隣の彼女がガイドブックを開き、彼氏に尋ねた。
「ねえ、このカフェ行ってみたいな。ここって遠いの?」
彼氏は地図を指でなぞり、「車ならこの道を通ればいいよ」と答える。
その仕草を見た瞬間、柚葉の脳裏に昨日の光景が蘇った。
美術館の館内で迷っていたとき、背後から声をかけられた。
「こちらの通路を行けばいいですよ」
そう言って、パンフレットの館内図を指でなぞって示してくれた男がいた。振り返る間もなく立ち去ったため、顔はよく覚えていない。だが、声と雰囲気……そして今の一連の違和感とつなげれば。
「……あれは、館長だったんじゃないの!?」
思わず口に出した声は大きく、隣のカップルの耳にも届いてしまったらしい。二人が驚いたようにこちらを振り返る。
「す、すみません!」
柚葉は顔を赤らめ、慌ててラーメンをかき込み、席を立った。
胸の奥がざわめいた。
柚葉は急いで部屋に戻り、旅行カバンをひっくり返すようにして探した。やがて一枚の折り畳まれたパンフレットを見つける。
もう夜も遅かった。だが迷ってはいられない。簡単に着替え、すっぴんのままマスクをかけてタクシーを拾った。
金沢本町警察署に飛び込み、鑑識さんにパンフレットを差し出す。
「すみません。これ、指紋を調べてもらえませんか? 明日の朝、また伺います」
緊張と高揚を抱えたまま、柚葉は署を後にした。
翌日が、事件の真実に一歩近づく日になると信じて。
第十章:重なった指紋
翌朝。
柚葉は胸の奥に高鳴りを感じながら、金沢本町警察署へと足を運んだ。
昨日鑑識に託したパンフレット。その結果が出ているはずだ。
署に入ると、すでに野村刑事が待っていた。隣には鑑識係の男性が資料を手にしている。
「おはようございます、白石警視。昨夜お預かりした件、結果が出ましたよ」
柚葉は静かに息をつき、わずかに口元を緩めた。
「……やっぱり、出ましたか」
だが、野村刑事は腕を組み、首を傾げる。
「このパンフレット、そもそもどこで手に入れたものなんですか? 館長の指紋がついていること自体は分かりましたが……それが事件にどう結びつくのか、まだはっきりしませんよね」
柚葉はふっと笑みを浮かべた。
「そこは、これからのお楽しみです」
言葉を濁したまま視線を前に向ける。
逆に柚葉の方から問い返した。
「ところで野村刑事、事件の方に何か進展はありましたか?」
野村刑事は顎に手を当て、慎重に言葉を選んだ。
「ええ、いくつか分かってきました。まず美術館の職員についてですが、全員の行動を洗い直した結果、それぞれのアリバイが確認できました。内部の職員が関与している可能性は低いと見ています」
資料を指で叩きながら続ける。
「それから、事件当時に館内にいた来館者についても、防犯カメラを詳しく調べました。皆、それぞれ行き先や行動が記録されており、長い時間カメラから消えていた人物はいません。ただ一人を除いて、です」
柚葉の視線が鋭くなる。
「一人?」
「実は白石警視に確認したかったことがあるんです。監視カメラの解析を進めたところ……白石警視が写っていました」
柚葉は思わず目を瞬かせ、口を開いた。
「えっ!私が、犯人と思われているんですか?」
野村刑事は慌てて両手を振った。
「いやいや! まさか。白石さんを犯人扱いしてるわけじゃありません。ただ、映像には、白石警視が奥の通路へ向かう姿がはっきり残っているんです」
「白石警視が美術館の奥の通路に向かわれている。その通路は途中でカメラが切れていて、先は死角になっているんですが……問題はその直後です。白石警視が通った後に、例の黒ずくめの眼鏡の男が同じ通路を通過していた。時刻は14時53分です。」
野村刑事は指で時間を示す。
「白石警視は数分で引き返してきました。しかしその男は15分ほど戻らず、再び姿を見せたのは15時8分。その黒ずくめの人物が退館ゲートを出たのは15時11分と記録されています。」
柚葉は黙って聞きながら、目を細める。
「つまり、その15分の間に犯行が行われた可能性が高い。――そこで伺いたいんです。白石警視、この男に見覚えはありませんか?」
柚葉はゆっくりと立ち上がり、口元に小さな笑みを浮かべた。
「はい、心当たりがあります。……野村さん、少しご一緒していただけますか」
「どこへ?」
「美術館長のところへ。答え合わせをしましょう」
最終章:真実の指先
金沢悠久美術館は、一昨日の事件以来、休館が続いていた。だが翌日からの再開に向け、館内では慌ただしく準備が進められている。
柚葉と野村刑事は、館長室に通された。
「館長、事件の進展についてご報告に参りました」
野村刑事が口を開いた。
「調べたところ、美術館の職員のみなさんは全員アリバイが確認されています。外部からの侵入も、IDカードの履歴や警備の都合上、極めて難しい。ただ一点、一般客の中で14時50分に入館し、15時11分に退出した黒ずくめの眼鏡の男――その約20分間が犯行に充てられた可能性が高いと見ています。館長、この人物に見覚えはありませんか?」
加賀谷館長は、表情を曇らせ、肩をすくめた。
「いや、そんな人物は存じませんな。……そういえば、こないだ公園で起きた事件で、防犯カメラに黒ずくめの男が映っていたと聞きました。もしかしたら、その事件と関連があるのでは?」
野村刑事は答えず、柚葉に視線を送る。
「館長、率直に申し上げます。美術館の全職員にはアリバイがあります。残るは文化交流パーティーに出席していた、あなたです」
加賀谷館長の眉がぴくりと動いた。
「私を疑っているんですか? 馬鹿なことを」
「もちろん、館長が登壇して挨拶されたことも、終了後に来賓と歓談されていたことも、複数の証言があります。ですが、問題は死亡推定時刻と思われる“15時”前後です。その時間、館長が確かに会場にいたという証言は、ひとつもない」
館長は声を荒げた。
「言いがかりだ! 私は多くの人と挨拶をしていた。それを一分一秒、誰が覚えていると言うんだ? むしろ時間を正確に言える方が不自然じゃないのか?」
野村刑事がなだめるように口を開く。
「まあまあ、白石さん。館長のおっしゃる通り、会場は大勢で賑わっていましたし、酒も入っている人も多い。確かに細かい時間を覚えている方が珍しいでしょう」
館長はすかさず頷いた。
「そうでしょう? それに私は、あのとき市長のマジックを確かに見ていますよ。あなたも言ったではありませんか、“白い鳩”が出てきたと、わたしはそれを見て驚いたんですよ。あれは確か15時ごろだったはずですよ」
柚葉は一瞬、にこやかに微笑んだ。
「……そうですね。館長にはそう申し上げました」
そして表情を引き締める。
「ですが、あれは嘘でした」
館長の顔が強張る。
「な、何を……」
「実際に市長が披露したのは鳩ではなく、スプーン曲げです。硬いスプーンが曲がらず、力任せにねじ曲げて、皆に笑われていました。鳩など一羽も出ていません」
館長の頬が引きつる。柚葉は淡々と続けた。
「それなのに、館長。あなたは“久しぶりに白い鳩を見た”とおっしゃった。わたしが昨日お会いした時も、そして今は自ら鳩を見たんだと言われた。でも鳩のマジックなんて無かったんです。つまり、あなたはその場にいなかったのです」
館長は慌てて弁明した。
「ち、違う! あなたがあのときに“鳩が出た”と言うから合わせただけだ。実はそのとき、私は体調が悪く、トイレにこもっていたんだ。見ていないと言えば疑われると思い、話を合わせただけだ!」
柚葉はカバンから一枚のパンフレットを取り出した。
「では、これはどう説明なさいますか?」
館長の目が固まる。
「……そのパンフレットは?」
柚葉はパンフレットを掲げ、館長に詰め寄った。
「私は事件当日、観光で美術館を訪れました。でも方向音痴で、館内で迷ってしまったんです。普段なら彼氏と一緒に来て、くっついて行くので迷わないんですけどね。……その時、後ろから来た人物に、この地図を指でなぞられて道を教えられました」
館長は目を見開いた。
柚葉は続けて言った。
「その指紋が館長、あなたのものでした」
館長は一瞬たじろぎ、すぐに声を荒げた。
「馬鹿な! そんなものは証拠にならん。この美術館にパンフレットは山ほどある。私は普段から手に取っているんだ。パンフレットだけではなく、この美術館はわたしの指紋だらけだよ。事件当日に触れたのか、それとも以前なのか、どうして断言できる?」
柚葉は静かに微笑み、淡々と告げた。
「館長、申し訳ありませんが……その指紋は“私の指紋の上に”重なっていました。つまり、私が迷って触った後に、あなたが同じ場所をなぞったということです」
その瞬間、館長の顔から血の気が引いていった。
館長は愕然とした表情を浮かべ、しばし沈黙した後、力なく笑った。
「あの時の女性があなただったとは……もし、白石さんが恋人と来ていたなら、道に迷うこともなく、私の正体に気づくことはなかっただろうに」
柚葉は残念そうに言う。
「これから大事な犯行の前に道案内をして、指紋を残してしまう優しさを持つ人が殺人なんかしちゃダメですよ」
さらに柚葉がつぶやく「最後にもうひとつ、会議室には凶器になりそうなたくさんの石像がそばにありました。それでも凶器にパイプ椅子を選んだのはなぜですか?」
館長「私は美術で生きてきた。大切な作品を犯罪で汚すことはできなかった」
柚葉「岡部さん、あなたの優しさが、あなた自身を捕まえてしまったんですよ」
野村刑事は毅然と告げた。
「加賀谷館長、詳しくお話を聞きたいので署までご同行願います」
館長は抵抗もせず、ただ項垂れたまま頷いた。
エピローグ:帰路へ?
数時間後、3連休最終日の夕方。
金沢駅前のロータリーに、石川県警の車が静かに停まった。野村刑事がハンドルを握り、柚葉を駅まで送り届けてくれたのだ。
「館長は観念して自白しました。白石警視の方向音痴……じゃなくて推理力のおかげで、事件は驚くほど早く解決しました。本当にありがとうございました。……次はぜひ彼氏さんとご一緒に。今回のお礼に、私が金沢の穴場をご案内します」
野村の笑顔に、柚葉は思わず苦笑しつつ、小さく頷いた。
「ありがとうございます。じゃあ……そのときはお願いします」
新幹線の改札口に向かいながら、柚葉は心の中でそっとつぶやいた。
(……なんで普段は彼氏と来てるから迷わないなんて余計なこと言ったんだろ。これで金沢には、彼氏を見つけてくるしかなくなった。彼氏を探さなきゃ)
そう決意めいた思いを胸に抱き、北陸新幹線の改札へと向かった。
柚葉は勢いよく切符を自動改札に入れた。
が、次の瞬間、キンコンキンコンと甲高い音が鳴り、バーが閉じる。
「えっ……?」
慌てる柚葉の目に映ったのは、「在来線改札口」の文字。
駅員が駆け寄り、苦笑しながら案内する。
「お客様、新幹線はこちらではありません」
柚葉は耳まで赤く染めながら、切符を受け取り直し、今度こそ新幹線改札に入りホームへと向かった。
――構内アナウンス――
まもなく、かがやき536号東京行きが発車します。
停車駅は、富山、長野、大宮、上野、終点、東京です。ドアが閉まります。閉まるドアにご注意下さい。
「お嬢さん、ここは福井方面のホームだよ。東京方面はあっち」
「ぎゃぁー」
金沢の新幹線ホームに柚葉の声が響く。
(第一話 了)
次回予告 【第2話:富山編】 1月3日(土) 21:00 公開予定 金沢での事件を解決し、次に柚葉が降り立ったのは「富山」。 路面電車が走る街で、柚葉の方向音痴で事件に遭遇……? 次回もお楽しみに!
白石柚葉の旅先推理帖 白石柚葉 @yuzuha_mystery_
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