【微百合青春短編小説】氷室さんは静かに暮らしたい ~饒舌と沈黙の間で~
藍埜佑(あいのたすく)
第1話「春・四月の余白 」
櫻子は息を呑んだ。
窓から差し込む四月の光が、静のショートカットの黒髪に触れて、微細な青みを帯びて見える。まるで夜の池に月光が落ちたときのような、冷たく美しい色。櫻子の指先が無意識に自分の長い髪の編み込みをなぞる。
「あの……」
静は顔を上げなかった。
「あの、氷室さん、ですよね? 出席番号の順番で覚えたんです! あいうえお順で、私が一番で、氷室さんが二十三番目。教室の座席表を見たとき、すぐに覚えちゃいました。私、安寧田櫻子って言います。安寧田って珍しいでしょう? 初めて会う人には必ず聞き返されるんです。『え、何て読むの?』って。それでね、『安寧の田んぼ』って説明すると、みんな『ああ、なるほど』って納得してくれるんですけど、でも本当はもっと深い意味があって――平安時代の荘園の名前が由来らしいんです! 父が図書館で古い文献を調べてくれて。安寧田荘っていう荘園が、今の埼玉県のあたりにあったらしくて、そこの領主の子孫が私たちの先祖なんですって。つまり、私の血には千年前の貴族の血が流れているかもしれないわけで! ロマンチックだと思いませんか? それでね、父が調べたところによると、この苗字を持つ人は全国でもたった二百人しかいないんです。二百人! 日本の人口が一億人以上いるのに、たったの二百人。計算すると、五十万人に一人の確率。宝くじに当たるより珍しいかもしれない。つまり私たちは――いえ、私は、選ばれし二百分の一の存在というわけで――そう考えると、この教室で、この学校で、いえ、この世界で安寧田櫻子という名前を持っているのは私だけなんです。唯一無二の存在。それってすごいことだと思いませんか? あ、でも氷室さんも珍しい名前ですよね。氷室って、昔、氷を貯蔵する場所のことを――」
「……そう」
静の声は、まるで冬の朝の霜柱を踏んだときの音。
短く、脆く、冷たい。
櫻子の言葉が喉の奥で渋滞する。でも――でも、と櫻子は思う。静のペンを持つ指が、ほんの少しだけ震えた。櫻子は見逃さなかった。ノートの余白に、静が書いていた文字。『安寧田』。
その夜、櫻子は自分の秘密のノートに書いた。
『氷室静という少女は、きっと氷の中に閉じ込められた火なのだ』と。
翌日も、櫻子は話しかけた。
「ねえ、氷室さん、昨日の給食のカレー、あれ絶対に隠し味にチョコレート入ってましたよね? 私、舌で感じたんです。最初は普通のカレーだと思って食べたんですけど、二口目を口に入れたとき、ふと気づいたんです。甘みの奥に、ほんの少しだけ苦味が。ビターチョコレート特有の、あの深い苦味。それでピンときたんです。これは――チョコレートだって! でも最初は確信が持てなくて、三口目、四口目と慎重に味わってみたんです。そうしたら、やっぱり間違いない。カレーのスパイスの複雑な香りの中に、カカオの香りが隠れてる。まるで秘密のメッセージみたいに。給食のおばさんって、実は隠れた料理の天才なんじゃないかって思って。だって、チョコレートをカレーに入れるなんて、普通思いつかないじゃないですか。でも高級レストランとかでは定番の技法らしいんです。母が料理番組で見たって言ってました。チョコレートのカカオが、カレーのスパイスと化学反応を起こして、コクと深みを出すんですって。科学的にも証明されてるらしくて。だから昨日のカレーがいつもより美味しく感じたのは、決して気のせいじゃない。確かにチョコレートの魔法がかかってたんです。でも周りの子たちに聞いても、誰も気づいてなくて。『普通のカレーじゃん』って。でも私には分かる。絶対に何か特別なものが入ってた。それがチョコレートなのか、それともインスタントコーヒーなのか、あるいは赤ワインなのか――いや、給食に赤ワインは使わないか。でもとにかく、何か隠し味が――」
「……入ってない」
「え?」
「給食のカレーにチョコレートは入ってない。ルウと小麦粉と、野菜と肉」
静の声には抑揚がない。でも櫻子は、その声の響きを、夜になってもう一度思い出してしまう。自分のベッドで、天井を見つめながら、静の『入ってない』という言葉を何度も口の中で転がす。まるで特別な甘さをもったキャンディーのように。
一週間が過ぎた。櫻子は毎日、静に話しかけた。図書室で見つけた本のこと。通学路で見た野良猫のこと。雲の形が龍に見えたこと。静はいつも、同じように答える。
「……そう」「……別に」「……わからない」
でも櫻子は気づいていた。静の目が、ほんの一瞬だけ、櫻子の顔を見る瞬間があることに。その視線は、まるで誰かが暗闇の中で小さなマッチを擦ったときのように、儚く、熱い。
ある日の放課後、櫻子は図書室にいた。窓際の席で、新しく借りた童話集を開く。ページをめくる音だけが響く静寂。その時、誰かが隣の席に座る気配。
櫻子が顔を上げると、静がそこにいた。
「あ……!」
櫻子の声が図書室に響いて、司書の先生が「しーっ」と注意する。櫻子は慌てて口を押さえた。静はいつものように無表情で、自分の本を開く。理科の図鑑。
櫻子の心臓が、教科書に載っている心臓の図のように、規則正しく、でも少しだけ速く拍動する。隣に座る静の髪から、石鹸の匂いがする。いや、違う。石鹸じゃない。もっと淡い、春の雨上がりの土のような、新しい葉っぱのような――
「……うるさい」
静が小さく呟いた。
「え? 私、何も言ってないけど……」
「息」
「息……?」
「……荒い」
櫻子は自分の呼吸に気づく。確かに、少し速い。慌てて息を整えようとして、余計におかしくなって、結局、静が小さく――本当に小さく――ため息をつくのを聞いた。
その日から、櫻子は毎日、図書室で静の隣に座るようになった。
五月に入ると、教室の窓から見える桜の木はすっかり緑の葉に覆われて、時々強い風が吹くと、若葉が波のように揺れる。櫻子は授業中、ノートの端にいつも何かを描いていた。空想の生き物たち。翼を持つ猫。角が生えた兎。三つ目の梟。
ある日、そのノートが静の机に転がり込んだ。
櫻子が慌てて拾おうとしたとき、静がすでにノートを手に取っていた。櫻子の落書きを見ている。櫻子の顔が熱くなる。
「あ、あの、それは……! ただの落書きで、意味なんてなくて、気にしないで――」
「……綺麗」
静の声。いつもより、ほんの少しだけ柔らかい。
「え……?」
「絵。綺麗」
静がノートを櫻子に返す。その指先が、ほんの一瞬だけ、櫻子の指に触れた。冷たい。いや、冷たくない。普通の温度。でも櫻子には、その触れた場所が、まるで氷を押し付けられたみたいに感じられた。
その夜、櫻子は眠れなかった。静の『綺麗』という言葉が、頭の中で何度もリピートされる。櫻子は秘密のノートを開いて、書いた。
『氷室静は、言葉を使わない詩人なのかもしれない。彼女の沈黙には、私の千の言葉よりも重い何かが詰まっている』
六月。梅雨が始まった。
ある雨の日、櫻子は傘を忘れた。いや、正確には、朝は晴れていたのに、午後から突然の雨。櫻子は昇降口で途方に暮れていた。
「……これ」
静が、自分の傘を差し出した。
「え、でも、氷室さんは……?」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃないよ! 濡れちゃうじゃない!」
静は何も言わずに、傘を櫻子の手に押し付けて、雨の中に走り出した。櫻子は思わず叫んだ。
「待って! 一緒に入ろう!」
櫻子は傘を広げて、静を追いかけた。静が立ち止まる。櫻子が隣に並んで、傘を二人の上に広げる。でも傘は小さくて、二人で入ると、肩が触れ合う。
雨音。傘を叩く雨粒の音が、世界の他のすべての音を消していく。櫻子は静の肩の温度を感じる。冷たいと思っていた。でも違う。静かに、確かに、温かい。
「……ありがとう」
静が呟いた。
「え? 私こそ、傘を貸してくれて……」
「違う」
「……?」
「……いつも。話しかけてくれて」
櫻子の心臓が、また変な拍動をする。雨の匂い。アスファルトの湿った匂い。静の髪から立ち上る、雨に濡れた黒髪の匂い。
「私……氷室さんと、友達になりたいな」
櫻子の言葉。静は答えなかった。でも、その肩が、ほんの少しだけ、櫻子の肩に寄りかかってきた。
その夜、静は自分の部屋で、ノートを開いた。そこには、櫻子が話していた物語の登場人物の名前が、びっしりと書かれていた。『翼を持つ猫=フェリシア』『三つ目の梟=トリス』。そして、ページの端に、小さく。
『安寧田櫻子の声は、あたたかい春の雨のようだ』
【微百合青春短編小説】氷室さんは静かに暮らしたい ~饒舌と沈黙の間で~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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