第2話 始まりの火と、疑惑の黄金
迷宮市場の片隅、廃棄された木箱や壊れた魔導具が山積みになった吹き溜まりに、一台のボロ屋台が放置されていた。
かつては何かのスープ屋だったのだろうか。屋根の布は破れ、調理台は油と煤で真っ黒に汚れ、車輪も片方が外れかけている。
誰もが見向きもしない、ただの粗大ゴミ。
だが、レイン・オルコットの眼には、それがダイヤの原石のように映っていた。
「……骨組みは『鉄樫』か。頑丈だな。磨けば光る」
レインは市場の管理組合――と言っても、強面の男が一人で仕切っているだけの簡易な詰所だが――にわずかな路銀を支払い、この廃屋台の権利を買い取った。
男は「あんなゴミに金を払うのか」と呆れていたが、レインは気にしなかった。
重要なのは、この場所がダンジョンの入り口に近く、それでいて市場のメインストリートから一本外れていることだ。ここなら、本当に美味いものを求める客だけが辿り着ける。
レインは上着を脱ぎ捨て、腕まくりをした。
まずは掃除だ。
こびりついた油汚れをヘラで削ぎ落とし、竈の中に詰まった灰を掻き出す。錆びついた鉄板は、サンドペーパー代わりの『研磨石』でひたすらに磨き上げた。
『いいか、レイン。道具は料理人の鏡だ。曇った包丁じゃ、食材の心までは切れないぞ』
亡き師匠、バルトの言葉が脳裏に蘇る。
頑固で、口が悪くて、けれど誰よりも料理を愛していた老人。
王宮を追われ、味覚を失いながらも、最後までフライパンを握り続けた師の教えが、今のレインを支える唯一の道標だった。
数時間の格闘の末、屋台は見違えるようになった。
黒光りする鉄板、補修された屋根、そして磨き上げられた真鍮の看板。
そこにレインは、チョークで店名を書き記した。
――『真実の匙』。
「さて、と。舞台は整った。あとは役者だな」
レインは市場へと繰り出した。
食材の仕入れだ。
相変わらず市場には、偽物のブランド肉や薬漬けの野菜が溢れている。だが、レインの『異端の鑑定眼』は、その中から砂金を探すように「本物」を見つけ出す。
目をつけたのは、人気のない精肉店の隅に転がっていた肉塊だった。
『岩蜥蜴の尻尾』。
硬くて臭みが強いとされ、冒険者たちからは見向きもされない三流食材だ。
だが、レインの眼には見えていた。そのゴツゴツした皮の下に、美しいサシの入ったピンク色の筋肉が眠っていることが。そして何より、保存料の「靄」がかかっていない、獲れたての新鮮な個体だ。
「親父さん、これ全部くれ。あと、そこの『月桂樹の古葉』と『鬼胡椒』、それから……あの樽に入ってる『白妖精の椰子乳』もな」
「あん? そんなクズ肉と香辛料で何を作る気だ? 奇抜な料理は流行らんぞ」
「いや、人間が一番元気になるやつを作るんだよ」
レインは買い込んだ食材を抱えて屋台へ戻ると、深底の鍋を火にかけた。
今日の一品は、塩焼きではない。この湿った地下市場の空気を吹き飛ばすような、極上の煮込み料理だ。
まずは『岩蜥蜴』の尻尾肉をぶつ切りにし、表面を焼き固める。
次に、石臼ですり潰した『鬼胡椒』や『黄金根』、そして数種類のスパイスを油で炒める。
じゅわっという音と共に、鮮烈な香りが立ち上った。鼻孔を突き抜けるようなスパイシーな刺激と、奥深い甘い香り。
そこに『白妖精の椰子乳』を惜しげもなく注ぎ込む。白濁した液体がスパイスの赤黄色と混ざり合い、夕焼けのような美しい橙色へと変化していく。
レインは鍋を静かにかき混ぜながら、呟いた。
「スパイスは誤魔化しじゃない。食材の魂を叩き起こすための鍵だ」
甘み、酸味、辛味。そしてココナッツの濃厚なコク。
全てが渾然一体となったスープの中に、焼き色をつけた肉と、皮を剥いた『大地の林檎』、最後に砕いた『火の実』を放り込む。
グツグツと鍋が歌う。
とろみが出始めた黄金色のスープの中で、硬い蜥蜴肉が繊維の一本一本まで解れ、柔らかく煮込まれていく。
それは師匠から教わった『マッサマン・カレー』。
師匠が最も美味いと言った煮込み料理の、レイン流アレンジだ。
しかし、予想通りというべきか、客足は鈍かった。
周囲の屋台は「秘伝のタレ」だの「魔法のスパイス」だのと派手な看板を掲げている。地味な屋台に目を向ける者は少ない。
「くんくん……む?」
開店から一時間。
ようやく、その芳醇な魔性の香りに釣られた最初の一匹が網にかかった。
人混みからひょっこりと顔を出したのは、小柄な少女だった。
年齢は16、7歳といったところか。大きな猫耳がピコピコと動いていることから、獣人族だとわかる。
身軽そうな革鎧に、腰には短剣。迷宮探索を生業とするスカウト職だろう。
日に焼けた健康的な肌と、大きな琥珀色の瞳。笑うと八重歯が覗きそうな、愛嬌のある顔立ちをしている。職場にいれば間違いなくマスコット的な人気を博すであろう、元気印の美少女だ。
彼女は鼻をヒクヒクさせながら、ふらふらと屋台に近づいてきた。
「お兄さん、なんかすごーくいい匂いがする! これ、何?」
「『岩蜥蜴と椰子乳の煮込み』だ。カレーとも言う」
「ええー? トカゲェ? あんなの硬くてゴムみたいじゃん。それにカレーって何? 辛いの?」
少女は警戒心と好奇心が入り混じった顔をする。
だが、鍋から漂うココナッツとスパイスの甘く濃厚な香りが、彼女の胃袋を鷲掴みにしていた。
「辛くない。甘くて、深くて、飛ぶぞ」
「と、飛ぶぅ? ……うう、でも匂いはすっごく美味しそう……」
「食ってみればわかる。不味かったら代金はいらない」
「ほんと!? じゃあ食べる! 一杯ちょうだい!」
少女はカウンターに銅貨を置くと、身を乗り出した。
レインは木製の器にたっぷりとカレーをよそい、スプーンを添えて差し出した。
湯気と共に、黄金色の海からゴロリとした肉塊とジャガイモが顔を覗かせる。
少女は、器を受け取ると、まずは恐る恐るスープを一口啜った。
「ん……!」
瞬間、少女の瞳が見開かれ、猫耳がピンと直立した。
「――っ!?」
言葉にならない悲鳴を上げ、彼女は猛烈な勢いでスプーンを動かし始める。
濃厚なココナッツミルクの甘みが舌を包み込んだかと思うと、直後にスパイスの複雑な香りが鼻腔へ抜ける。そして何より、煮込まれた岩蜥蜴の肉だ。スプーンで触れただけで崩れるほど柔らかく、噛めば肉汁とカレーの旨味が口いっぱいに爆発する。
「はふっ、んん~っ! なにこれぇぇ!? めっちゃくちゃ美味しい! 甘いのにピリッとして、お肉がトロトロ! これ本当にトカゲ!?」
「時間をかけて煮込めば、トカゲもドラゴンに化けるのさ」
「信じらんない! あたし、こんな美味しいもの初めて食べたかも……!」
少女は夢中でスプーンを運び、あっという間に器を空にした。「おかわり!」と叫ぶ声が弾む。
二杯目をよそいながら、レインはガラスのコップに注いだ水を差し出した。
「ほら、水だ。地下湧水をろ過しただけの冷水だが、口の中がさっぱりするぞ」
「ありがとー! んぐ、んぐ……ぷはぁっ!」
少女は水を一気に飲み干した。
何の変哲もないただの水だが、濃厚なカレーの後には、その冷たさと純粋さが何よりの贅沢だ。
「いい食いっぷりだ。作った甲斐がある」
「だって美味しいんだもん! ……はぁ、生き返るぅ。最近、ロクなもの食べてなかったからさぁ」
二杯目を食べ終え、ようやく人心地ついたのか、少女は満足そうに腹をさすった。
「ロクなものって? 市場には色んな店があるだろう」
「うーん、種類はいっぱいあるんだけどねぇ。なんか最近、どこの店も味が変っていうか……食べるとお腹重くなるし。それにさ」
少女は声を潜め、周囲を窺うようにしてレインに顔を寄せた。
「あたしのパーティのリーダー、今寝込んでるんだよね。市場で買った『特製霊蜜』ってやつを飲んでから、急に血を吐いて倒れちゃって」
「……霊蜜?」
レインの目が鋭く細められた。
あのギルド長の部屋にあった毒入りの蜂蜜。その名前がここで出てくるとは。
「うん。なんか『ヴォルク商会』っていう新しい商会が売り出してるやつでさ、滋養強壮にいいって評判だったんだけど……リーダーだけじゃなくて、他のパーティでも似たような症状の人が出てるみたいなんだ。変だよねぇ」
ヴォルク商会。
聞いたことのない名だ。だが、ここ最近で急に台頭してきた新興勢力らしい。
レインの中で、点と点が繋がり始めた。
ギルドが横流しした不正な素材や、あるいは毒入りの食品を、その商会がこの市場で売りさばいているとしたら?
その時だった。
「おいおい、兄ちゃん。随分と景気が良さそうじゃねぇか」
ドスの利いた声が割り込んできた。
振り返ると、柄の悪そうな男たちが三人、屋台を取り囲んでいた。
揃いの革ジャンパーを着込み、腕には狼の紋章が入った腕章をつけている。
『ヴォルク商会』の私兵だろう。
「ここは俺たちのシマだ。勝手に店を開いてもらっちゃ困るなぁ」
「場所代は組合に払ったはずだが?」
「組合? ケッ、あんな爺さんの許可なんか知るかよ。この市場のルールは俺たちが決めるんだ。商売したけりゃ、売上の五割をよこしな」
リーダー格の男が、ダンッとカウンターを蹴り上げた。
少女が「ひっ」と短く悲鳴を上げ、レインの背後に隠れる。
レインは静かにため息をついた。
せっかくの料理の余韻が台無しだ。
「……五割か。随分と高くつくな。それだけの価値がある警護でもしてくれるのか?」
「あぁん? 減らず口を叩くなよ。痛い目見たくなかったら――」
男がレインの胸倉を掴もうと手を伸ばした瞬間。
レインはその手首を掴むこともなく、ただ冷徹な眼差しで男を見据えた。
『鑑定眼』発動。
「……あんた、肝臓がボロボロだな」
唐突な言葉に、男の手が止まる。
「は、はぁ?」
「顔色が土色だ。それに独特の甘い体臭……安物の酒と、混ぜ物の多い精力剤の飲み過ぎだ。腰のポーチに入ってる赤い瓶、それ『赤マムシの抽出液』だろ? 成分の半分はただの興奮剤だ。そんなもん飲み続けてると、来年には死ぬぞ」
レインの視線は、男の身体の中身まで見透かすように冷ややかだった。
男は気圧され、ジリジリと後ずさる。
「な、なんだテメェ……気味わりぃな……!」
「客じゃないなら帰ってくれ。俺の店は、料理を食いたい奴のための場所だ。毒を食らって死に急ぐ奴の相手をしてる暇はない」
レインが鍋をかき混ぜるために手にしたお玉が、魔力ランプの光を反射してギラリと光った。
それはただの調理器具だが、男たちには鋭利な武器に見えたのかもしれない。
あるいは、レインの背後に立ち込める「本物」の気迫に恐れをなしたか。
「ち、ちくしょう! 覚えてやがれ! ヴォルク商会に逆らってタダで済むと思うなよ!」
捨て台詞を残し、男たちは逃げるように去っていった。
少女が、目をキラキラさせてレインを見上げる。
「すごーい! お兄さん、ただの料理人じゃないでしょ!? 今の、鑑定スキル? あいつらの顔色だけで病気を見抜いちゃうなんて!」
「……似たようなもんだ。職業病だよ」
レインは肩をすくめたが、その内心は穏やかではなかった。
ヴォルク商会。やはり、この市場を牛耳っているのは奴らか。
そして、その背後には間違いなく、あの腐ったギルドの影がある。
(面倒なことになったな……)
そう思いながら鍋を片付けていると、不意に、背筋に冷たいものが走った。
殺気ではない。もっと異質な、粘りつくような視線。
レインは顔を上げた。
男たちが去っていった方向とは逆、路地の暗がりに、人影があった。
全身を黒いローブで覆った人物。顔は見えないが、その佇まいは明らかに市場の住人たちとは異質だった。
その人物は、レインと目が合うと、ふっと音もなく踵を返した。
だが、その一瞬。
ローブの隙間から覗いた白い手が、何かを握りしめているのをレインは見逃さなかった。
金色の、小瓶。
中には、黄金色の液体が揺らめいている。
「――ッ!」
レインの右目が勝手に反応した。
距離があってもわかる。
あの小瓶から立ち上る、ドス黒い靄。
ギルド長の部屋で見たものと、全く同じ「色」だ。
(間違いない……あれは『毒入りの霊蜜』だ)
黒いローブの人物は、闇に溶けるように消え失せた。
レインは拳を握りしめる。
ただの追放劇では終わらない。
自分が足を踏み入れたこの市場は、王都の闇そのものだ。
そしてその闇は、無数の人々の口へと流れ込み、静かに命を蝕んでいる。
「お兄さん? どうしたの、怖い顔して」
少女が心配そうに覗き込んでくる。
レインは深呼吸をして、いつもの少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「いや、なんでもない。……ただ、これからは忙しくなりそうだと思ってな」
逃げる場所はもうない。
ここが俺の戦場だ。
フライパンとナイフ、そしてこの眼で、腐りきった嘘を暴き、本当に美味いものを届ける。
それが、追放された鑑定士の、ささやかな意地であり復讐だ。
「また来な、お嬢ちゃん。次はもっと美味いもんを食わせてやる」
「うん! 絶対来る! あたし、リズベットっていうんだ。リズでいいよ! お兄さんの名前は?」
「レインだ」
「レインのお兄さんね! 覚えた!」
少女――リズは、手を振って駆け出していった。その背中を見送りながら、レインは夜空を見上げた。
分厚い雲の隙間から、一筋の月明かりが差し込んでいる。
「……さて、仕込みの続きといくか」
屋台『真実の匙』の灯火は、まだ小さい。
だがその火は、確実に闇を照らし始めていた。
追放は終わりではない。
ここからが、レイン・オルコットの本当の物語の始まりなのだ。
追放鑑定士はダンジョン市場で偽物グルメを暴く ――屋台ひとつで成り上がり、王都の“味”を取り戻す―― @DTUUU
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