護るって言葉が嫌いになった日

植田伊織

護るって言葉が嫌いになった日

「無性の愛から生き別れてしまった小さい子供が、今度こそ、心安らぐ場所だと許した相手に突然去られて。それは死刑宣告と同じなのに。


 時間をかけて乗り越えたと思った途端、近づけば近づくほど、距離を取られて。

その度に、心臓が削り落とされるって、あいつらなんでわかんないんだと思う?


 やっと羽を休ませられる場所ごと、串刺しにされる痛み。

 今生きてるこの場所から“お前はもう生きていなくていい”と言われる痛み。


 なんであいつらには通じないと思う?

 

 あいつら、理論派の学者らはね、

殆どが、そういう地獄とは無縁の人生を送ってきた奴らばかりだからよ!」


 酔ったデルタ……デルフィナ・セイレーンは、繰り言のようにそれを繰り返す。

 普段の彼女ならその後、


「でも、あいつらにはあいつらなりの、別の地獄を潜ってここまで来たってのは、わかってる。

 育ちの良し悪しが、悪人を生み出すわけじゃない。


 住む地獄の回想が違いすぎて、お互いの言葉が通じていない。

 見る物、育つ場所が違いすぎて、お互いの視野に限りがある。


 そんなのは当たり前。


 問題はこの場所が人の傷を癒す場所で、我々は人の心と傷に触れてしまえる仕事に就いてるって事」


 そう言って、互いの視点のすれ違いについて、言及できる。そんな聡い部分があるはずなのに。


「――水、飲めるか?」

「……」


 デルタをソファに横たえて、とりあえず、着ていたレザージャケットをかけてやる。同僚とはいえ、異性の家をごそごそあさるのは気が引けた。

 ハーキマーの歌姫であり、吟遊詩人として音楽療法に携わる人魚のような麗しい人は今、ボロボロと大粒の涙を流しながら、一人では歩く事もままならないのだった。

 素直に、言われた通り一口水を飲むと、ふたたびぼすっとソファーに身を鎮め、猫のように丸くなって、必死に嗚咽を噛み殺している。


 ミルキ―クォーツを思わせる、濃霧色をした豊かな髪が、黒いソファーに光を照らす天使のはしごのように見えた。

 

 心の扉を今一度施錠しなおし、俺は、彼女から目を逸らす。



 *


 『見捨てられ不安』


 他者を「安全基地」にしたいのに、基地が安定しない経験から、

警戒が過敏になった状態を言う。


 過去の関係で「必要な時に守られなかった/戻ってきてもらえなかった」経験があり、似た状況に遭遇すると、胸の痛み・息苦しさ・焦り・過剰な確認欲求が出る症状だ。


 重要なのはこれが、”甘え”や”性格”ではない事。

 安全が揺らいだ時の生存反応で、落ち着くには「言葉での確認」だけじゃなく「一貫した行動(継続して戻ってくる・約束を守る)」が必要。


 *


 ――教養課程で学んだ知識を思いだしながら、普段の彼女の言動に当てはめる。


 デルタの凄惨な過去は、風の噂で聞いていた。


 自分達を殺そうとした虐待癖のある母親から、弟の命を守る為、母親を手にかけざるをえなかった事。

 究極の愛の選別をしなければならなかった痛み。

 絶命時の母の表情が「化け物」から「愛する人」へ氷解した瞬間、


 彼女は壊れた事。


 ハーキマーで荒れた生活をし、依存行為が止まらず、社会復帰が難しかった事。


 自殺未遂を、若き、エミール・ローレン構造精神分析 導師教授に助けられ、一時はアカデミーで保護されていた事。

 その後、ハーキマー教会で吟遊詩人かつ、実践社会心理治癒師として実力を発揮し、自身の傷を治癒しつつ、社会復帰した事……。


 アカデミーの在り方、ハーキマー教会の革命のきっかけとなった『ダイヤモンド症候群事件』の当事者の一人。嫌でもその経緯は誰かしらが口にする。


 ――残酷だ――。

 人の人生を決定づけた「最初の日」を、ゴシップだろうが、慈悲の心だろうが、軽々と茶飲み話にする、アカデミーの民度に吐き気がした。


 ゴミ箱へビニール袋をセットしつつ、デルタの”万が一”に備えつつ、俺も休憩のために、冷蔵庫から炭酸水を一本失敬する。

 レモンピールとアルコール度数の低い酒が数本、冷凍食品にスイーツ……とても、美容と健康に気を遣う歌姫の冷蔵庫の中身では無かった。


 ――手痛いミスをした気持ちになりつつ、その痛みは、役職を越えたものであることへの警鐘が脳内で鳴った。

 確かに、ここ数日働きづめで、自身のケアに気を使えるスケジュールでは無かったかも知れない。

 ランチをカヌレ一つで済ますデルタを横目に、自身も非常食のブロック型スコーンを齧っていたから、違和感に気が付かなかった。

 無理にでも、気分転換に連れて行くべきだっただろうか。せめて、それが越権行為であれば、忠告や差し入れだけでも出来たかも知れない。


 冷蔵庫の扉を閉めて、ゆっくりと息を吐く。6秒。吸う時より長く。


 『ダイヤモンド症候群』を根絶させるきっかけとなる理論を生み出した、ローレンの弟子、エメ・デマレも、過酷な環境出身だったというが、天災で故郷が流される前は、古都で高水準の教育を受けていたという。

 無論、難民先で娼館に売られたというのは、若い女性にとって、地獄だったろう。(手を出そうとした男全てを殺し、地下牢に隔離されていたという噂もあるが、どちらが本当なのだろう)


 しかし、彼女はローレン導師教授に並ぶ、天才的才能があった。

 だからこそ、アカデミーの上部は彼女を自分の手元に置きたがり、未来を託したがったのだ。


 だが、デルタは違う。

 ハーキマー地域で有名な歌姫である事は間違いなかったが、エメほどの非凡さは持ち合わせていなかった。


 保護の後、帰宅させようとしていた、元・教授会議長の意向を、娘の、アンナ・ヘイスティングス名誉教授が大反対し、同じ依存行動を繰り返さぬよう、ハーキマー教会を改革したからこそ、今の彼女がある。


 しかし、「愛着障害――見捨てられ不安」の後遺症に悩むデルフィナ・セイレーンの深い傷跡が見える治癒師は、教授陣の中に誰も居ない。


 誰もが、デルタがわざと被っている「軽い、いい女」という道化の仮面を、本物の素顔と勘違いし、「手を貸さなくても良い大人」として扱う。

 彼女が、荒れた家庭環境で生き延びた、タフで美しい蓮だと、信じて疑わない。


 そんなわけ、あるか?

 俺は、彼女に出会ってからずっと、それが疑問だった。


 もし、アンナの改革が無かったら――俺とデルタは、同僚として仕事をする事も、ある種の師弟関係を結ぶことも――それどころか、すれ違う事もなかったかもしれない。


 彼女は、命を手放していただろうから。


 泣き止んだのか、ソファーの上でごにょごにょ言いだしたデルタの言葉に、耳を傾ける。

 直ぐに、辞めておけばよかったと頭を抱え、ソファから離れた。


 デルタは、必死に赦しを乞うていた。

 弟に、母親に。


 

 エメとローレンがすれ違う、何度かに一回、デルタはこうやって荒れていた。

 それは、エメに自身を重ねているのでもなく、ローレンに未練があるわけでもなく。

 誰も、ケアしてくれなかった自分自身の膿を、自らの手で無理やり、出し切っているように、見えたのだ。


 これ以上、抱えきれないから、しかたなく。

 誰も手を貸してくれないし、誰かに依存してしまった経験もあって――

 ――きっと、どうしたらいいのかわからなくって。


「……アダム?」


 己の思考を読まれたような気がして、びくりとした。

今、振り返るわけにはいかない。


 ――俺はチャラくて、適当で、デルタの過去の噂なんて興味無くて、弱った女性に絆されるなんてあっちゃならなくて、苦労知らずの銘家の三男坊なんだから。


「……来てたの、あああ……まじか、アタシ、やらかした感じ? フォローありがとう」

「――講義後荒れただけ、俺以外、あんたの酔いどれ姿は見てないよ」

「げげー」


 軽口を叩くも、目の焦点が合っていない。

 どこかぼんやり外を見て、笑顔の仮面を貼りつけて、

皆に嫌われまいとしている綺麗なお人形さんのようだった。


 やめてくれよ、いつもの、可憐な顔して人の急所を一突きする、怖いもの知らずの歌姫のアンタが、俺は誇らしくて、綺麗だと思っていて、それで、それで――。


「なあ、今夜は一晩、一緒にいようか?」


 ピクリと動きを止めたデルタは、次第にがたがたと震えだす。


「あ、いや、そういう、いやらしい意味でとかそういう意味じゃなくて、マジで、俺、心配だったから」


「ねえ、アンタの気持ちはそうだとしても、周囲がそう解釈すると思う?

 男たらしの吟遊詩人が、ランカスターのお坊ちゃまをかどわしたってスキャンダルが流れたとして、あんたにそれを火消しできんの?」


「……事実じゃないんだ、問題ないだろ。俺はただ、アンタの事を護りたくて……!」


 その言葉を聞いた途端、デルタは色素の薄い灰色の瞳をかっと見開き、心臓を貫かれたかのような――少しでも動こうものなら、そのまま土へ還ってしまいそうな、一つの過ちも許されない、傷ついた表情をした。


「護るなんて言葉……大嫌い。……アタシ、同情で傍に居られるのはもう、嫌。

ねえ、いつもフォローしてくれて助かってるし、今日の事も、ありがとう。でも――出来ない事を言うのは、辞めて」


 一人にして欲しい。


 そう言われて、デルタの部屋を後にする。


 エレベーターの呼び出しボタンを押そうとするのに、胸が重くて、指が動かなかった。そうしてはじめて俺は、デルタの部屋から帰りたくなかった自分に気づいたのだ。


 気づいたからには早かった。


 みっともなくたって構わない。俺は元の顔が良いから、多少の挙動不審は許されるだろうと開き直り、デルタの部屋に戻った。


「デルタ、デルタ、デルタ、デルタ、デルタ、デルタ、デルタ、デルタ!!」


 がんがん扉を叩きまくって、最悪な妄想を振り切った。

 彼女に背を向けたその日に、万が一、彼女が人生を手放したとするならば、俺は一生自分を恨む。それだったら、近所迷惑だろうがストーカーで通報されようが、構わなかった。


「……何、帰ったんじゃなかったの」

 

 ものっすごい嫌そうな顔のデルフィナに、


「なあ、どうすれば、”出来る事”に変えられる!?」


 と、俺は、彼女の言葉を遮った。


「……は?」


「だから、俺、あんたの事好きだし、彼女になったらうれしいけど、結婚までするかはまだわかんないし、そもそも同僚として今の距離感も気に入ってんだよ。でもさ、でもさ、そんな大事な仲間がさ、人生で一番苦しんでいる時に何も出来ないで、一人にさせて――絶望の底に叩き込むなんて嫌なんだって。

 だから、どうすれば、そうならないように出来るか、教えてくれよ」


「……いや、死なないから大丈夫だって」


「だから、そういう事じゃないんだって!」


 近所迷惑だよー!

 と投げかけられたヤジに、デルタが力なく、すみませーんと答えた。


「……とりあえず、近所迷惑だから、入んなよ」

「おじゃましまっす!」


 俺の選択は、決してスマートじゃなかったと思う。

彼女を信じて、帰った方が、互いの為にはよかったかも知れない。

 

『護る』って言葉が嫌いになったなら、

『共に生きる』って言葉に変えてもいいと思ったんだ。

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