未だ、剣遠からず

白銀 白亜

第1章ー1

第1章 剣に魅入られた少年

1


この話の舞台は、はるか昔。

富士を仰ぐ町に生まれた、一人の少年の物語である。

朝霧が町を包む時間帯、富士の裾野は白い息を吐くように静まり返っていた。

山は語らず、ただそこに在るだけで、人の営みを見下ろしている。

冷えた空気が肺に染み込み、吐く息は細く白い糸となって空へほどけていく。

その町の一角に、小さな道場があった。

板張りの床、低い屋根、古びた柱。

だが、朝のこの時間だけは、そこだけが生き物のように息づいていた。

――カン。

乾いた音が鳴る。

木刀が空を裂いた音だった。

――カン、カン。

規則正しく、しかし決して単調ではない音が続く。

その音は道場の壁を抜け、町の静けさに溶け込みながら、やがて富士の方角へと吸い込まれていく。

子どもたちが走り回っていた。

朝露に濡れた地面を踏みしめ、笑い声を上げながら、町の細い道を駆け抜けていく。

その先頭を走っているのが、この物語の主人公――

藤吉郎(とうきちろう)である。

年の頃は、まだ七つか八つ。

背は低く、腕も細い。

だが、その足取りだけは、やけに軽かった。

「待てよ!」

後ろから仲間の声が飛ぶ。

藤吉郎は振り返らない。

彼の目は、すでに別のものを捉えていた。

道場の戸が、少しだけ開いている。

その隙間から、朝の光が差し込み、床の上に細長い帯を落としていた。

藤吉郎は走る速度を緩め、音を立てぬように近づく。

――カン。

また、音が鳴った。

その瞬間、藤吉郎の胸が、きゅっと縮む。

剣が振るわれる。

人の腕が動き、木刀が空を切る。

ただそれだけのことなのに、彼の目には、それがまったく別のものに見えていた。

剣は、光の尾を引く鳥のようだった。

羽ばたくたびに空気を裂き、見えない線を描いて飛んでいく。

あるいは、風が一瞬だけ形を持ったもの。

触れようとした瞬間に、すり抜けてしまう、掴めぬ存在。

藤吉郎は息を止めて、その光景を見つめていた。

彼にとって、剣の稽古は修行ではなかった。

厳しさでも、苦しさでもない。

ただ――美しかった。

木刀と木刀がぶつかる音。

床を踏みしめる足音。

掛け声と共に放たれる一太刀。

それらすべてが、藤吉郎の中で一つの流れとなり、胸の奥へと流れ込んでくる。

「……すげえ」

思わず、声が漏れた。

自分でも、なぜそう思うのか分からない。

剣の意味も、勝ち負けも、彼にはまだよく分からなかった。

ただ、あの場に立ち、あの音の中に身を置きたい。

それだけが、はっきりとしていた。

「藤吉郎!」

背後から、母の声が飛ぶ。

藤吉郎ははっとして振り返る。

「また、道場の前で立ち止まって!」

「だって……」

言い訳をしようとして、言葉が見つからない。

藤吉郎は、もう一度だけ道場の中を見た。

剣が振るわれる。

光が走る。

その一瞬が、胸の奥に焼き付いた。

「行くよ!」

腕を引かれ、藤吉郎は道場から引き離される。

それでも、彼の耳には、剣の音がいつまでも残っていた。

町の喧騒が戻ってくる。

子どもたちの笑い声、商人の呼び声、桶の水音。

だが、藤吉郎の世界は、もう違って見えていた。

富士の山を見上げる。

朝霧の向こうに、どっしりとした山影がある。

――あの山みたいに。

なぜか、そう思った。

理由は分からない。

けれど、剣を振るう人々の姿は、藤吉郎にとって、山と同じように動かぬもの、変わらぬものに見えた。

強いとか、弱いとか、そういう話ではない。

ただ、そこに在るべき姿。

藤吉郎は、まだ知らない。

剣が、人を傷つけるためのものであることも。

剣が、人の生き方を問うものであることも。

この時の彼は、ただ純粋に、剣に魅入られていた。

光るものを追うように。

風の形を追うように。

そして、この日から藤吉郎は、何度も道場の前に立つことになる。

朝も、昼も、夕暮れも。

剣の音を聞くために。

あの美しさを、もう一度見るために。

それが、彼の歩むことになる、長く奇妙な道の――

最初の一歩であった。

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