第2話 美しき処刑人の裁定

 東都テクノリンク、システム開発本部の会議室。

 空調の音がやけに大きく響く静寂の中で、俺と谷車部長の視線が火花を散らした。

 俺が放った「リスク管理」という言葉が、この部屋の空気を完全に凍りつかせていた。


「リスク管理……だと?」


 谷車剛造の端正な顔から、貼り付けたような笑顔が剥がれ落ちた。その下から現れたのは、爬虫類を思わせる冷酷な素顔だった。

 彼はゆっくりと立ち上がり、イタリア製の革靴の音を響かせて俺に歩み寄る。


「葛石くん。君は広報時代、私の言葉をこう翻訳したはずだ。『困難な状況下でのリーダーシップ』とね。それが今は、リスクだと言うのかね?」


 威圧感。52歳にして鍛え上げられた肉体と、数々の修羅場をくぐり抜けてきた男の覇気が、物理的な圧力を伴って俺にのしかかる。

 かつての俺なら、この圧力に屈していただろう。だが、今の俺の背後には、最強の「武器」たちが控えている。


「ええ、申し上げます。谷車部長」


 俺の言葉を継いだのは、合渡悠作だった。

 彼は静かに眼鏡の位置を直し、手元の六法全書を開くことなく、冷徹な声で告げた。


「先ほどの貴方の発言――『生きている価値がない』『廃棄されるべきエラー』。これらは明確に労働施策総合推進法第30条の2、いわゆるパワハラ防止法における『精神的な攻撃』に該当します。加えて、人格権の侵害として不法行為責任を問われる可能性が極めて高い」


 合渡の声は、温度のない氷の刃のようだった。


「我々はヒアリングに来たのではありません。コンプライアンス違反の現行犯を確認しに来たのです」


 谷車のこめかみに青筋が浮かぶ。


「法律論で現場が回ると思っているのか! 納期という絶対的な正義の前では、君たちの理屈など――」


「戯言ね」


 その怒号を遮ったのは、甘く気怠げな声だった。

 入坂すずが、退屈そうに長い脚を組み替え、飴を噛み砕く音を響かせた。

 彼女は、その濡れた瞳で谷車を見上げることもせず、手元のタブレットを操作している。無造作にかき上げられた髪の間から覗く白い首筋には、どこか背徳的な色気が漂い、張り詰めた会議室の中で異質な存在感を放っていた。


「納期を守れないのは、現場の責任じゃないわ。リソース配分のミスよ。……ほら、ログに出てる」


 すずはタブレットを会議室の大型モニターにミラーリングした。

 そこに映し出されたのは、複雑怪奇なフローチャートだった。


「第3開発部のコミットログを解析したわ。門廻くんの担当モジュールだけ、依存関係が異常に複雑化されている。これ、彼一人の権限じゃ修正できない仕様になってるじゃない」


 すずが指摘したのは、谷車が意図的に仕組んだ「蟻地獄」だった。

 門廻湊だけでは解決できないタスクを与え、失敗させ、それを理由に攻撃する。その悪意ある設計図が、白日の下に晒されたのだ。


「な……っ!」


 谷車が絶句する。


 俺は、震える門廻の肩に手を置いた。


「門廻さん、行きましょう。これ以上、ここにいる必要はありません」


 門廻は、縋るような目で俺を見た。その瞳から涙がこぼれ落ちるのを、彼は必死に堪えていた。


「でも……僕が抜けたら、プロジェクトが……」

「大丈夫です。会社は潰れません。貴方が潰れる前に、逃げる権利がある」


 俺たちは呆然とする開発部員たちを尻目に、門廻を連れて会議室を出た。

 背後で、谷車が何かを怒鳴り散らす音が聞こえたが、俺は振り返らなかった。


 地下2階、特命調査室。

 地上とは隔絶されたこの薄暗い部屋で、門廻湊は温かいココアを両手で包み込んでいた。湯気の向こうで、彼の顔色は少しだけマシになっていた。


「……すみません。こんなことになってしまって」


 門廻は消え入りそうな声で言った。


「僕が、もっとうまくやれていれば」


「貴方は悪くないわ」


 すずが、自分のデスクから高級チョコレートの箱を取り出し、門廻の前に置いた。


「脳に糖分を入れなさい。判断力が鈍ると、またあいつの言葉に洗脳されるわよ」


 彼女なりの不器用な慰め方だった。すずは自分の椅子に深く座り込み、天井を仰いだ。その姿勢で伸びた身体のラインは、しなやかな猫のように美しく、同時にどこか壊れそうな脆さを感じさせる。彼女の存在自体が、この殺風景な地下室における唯一の華であり、毒だった。


「門廻さん、証拠が必要です」


 合渡が事務的に、しかし優しく切り出した。


「谷車部長の発言を録音したものはありますか?」


 門廻は首を横に振った。


「いえ……会議室への電子機器の持ち込みは厳しく制限されていて……スマホもロッカーに預ける決まりなんです」

「なるほど。証拠を残させないための徹底した管理ですね」


「でも……」


 門廻は躊躇いがちに口を開いた。


「開発用のチャットツールなら、履歴が残っているかもしれません。谷車部長からの指示は、ほとんど口頭でしたが、修正指示のチケットには……」


「チケットのコメント履歴ね。見せて」


 すずが即座に反応し、門廻のアカウントからログを吸い上げる。

 数分後、彼女の美しい顔が、わずかに歪んだ。


「……酷いものね」


 モニターに流れる文字列。


『こんなコードはゴミだ』

『小学生からやり直せ』

『君のせいでチーム全員が連帯責任だ』


 業務指示を装った、執拗な人格攻撃の羅列。

 そして何より悪質なのは、深夜2時、3時といった時間に送信され、それに対して門廻が『申し訳ありません、直します』と即レスポンスしている記録だ。

 これは、深夜労働の動かぬ証拠だった。


「これだけあれば十分です」


 合渡が眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに怒りを燃やした。


「安全配慮義務違反、およびパワーハラスメントの客観的証拠として成立します。……行きましょう、葛石さん。断罪の時間です」


 本社ビル最上階、役員フロア。

 地下2階とは別世界の、分厚い絨毯が敷かれた廊下を歩く。空気すらも上質で、微かに高価な香水の香りが漂っていた。


 通されたのは、副社長応接室。

 窓の外には東京の街が一望できる。この高さからは、人間など塵のようにしか見えないだろう。

 その窓際に、一人の女性が立っていた。


 東鶴襟華。東都テクノリンク副社長にして、リスク管理委員会のトップ。

 振り返った彼女の姿に、俺は息を呑んだ。

 年齢は40代後半のはずだが、その美貌は年齢という概念を超越していた。成熟した貴婦人のような気品と、底知れない知性を湛えている。

 淡いベージュのシルクブラウスに、パールのネックレス。その柔らかな装いは、彼女がこの巨大組織の「母」であることを演出しているようだった。しかし、その瞳の奥には、すべてを見透かす冷徹な光が宿っていた。


「あら、地下室の皆様。ようこそ」


 彼女の声は、最高級のベルベットのように滑らかで、心地よく耳に絡みつく。


「谷車部長の件、聞きましたわ。……残念なことね」


 彼女はソファーに腰を下ろし、優雅な仕草で紅茶を口に含んだ。

 合渡が、調査報告書と証拠データをテーブルに置く。


「単なる『残念』では済まされません、東鶴副社長。これは明確なコンプライアンス違反であり、放置すれば東都テクノリンクのブランド毀損に直結します。即刻、谷車部長の解任と、被害者である門廻氏の保護を求めます」


 東鶴は、報告書を手に取り、パラパラとページをめくった。その指先までが、計算されたように美しい。


「合渡さん、貴方のレポートはいつも完璧ね。法的にも、論理的にも、一点の曇りもないわ」


 彼女はふわりと微笑んだ。その笑顔は、見る者を安堵させると同時に、心臓を鷲掴みにされるような畏怖を感じさせるものだった。


「でもね、会社というのは法廷ではないの。政治とバランスで動く生き物なのよ」


「それは不正を容認するという意味ですか?」


 俺が思わず口を挟むと、彼女は面白そうに俺を見た。


「葛石さん、貴方も変わったわね。昔はあんなに上手に嘘をついていたのに」


 彼女の言葉が、古傷を抉るように刺さる。


「誤解しないで。私は改革派よ。膿は出し切らなければならないと思っているわ」


 東鶴は立ち上がり、ゆっくりと俺たちの周りを歩き始めた。香水の香りが鼻孔をくすぐる。


「谷車部長は優秀な男でした。数字を作る能力にかけてはね。でも、時代が変わった。今の時代、パワハラというレッテルは致命傷になる。……ええ、切りましょう」


 あっさりと、彼女は言った。

 まるで、枯れた花を剪定するかのように。


「谷車部長は関連子会社へ出向。名目は『業務改革の指導』ということにして、事実上の左遷にします。彼にはほとぼりが冷めるまで、倉庫の在庫管理でもしてもらいましょう」


「……処分が甘すぎませんか?」


 すずが低い声で噛み付いた。


「彼は一人のエンジニアの人生を壊しかけたのよ」


「入坂さん、感情論は美しくないわよ」


 東鶴はすずの前に立ち、その乱れた髪に触れようとして、寸前で手を止めた。


「懲戒解雇にすれば、彼は裁判を起こすでしょう。そうなればスキャンダルが公になる。株価への影響、顧客への不信感……それを最小限に抑えるのが、私の仕事。そして貴方たちの仕事でもあるはずよ」


 正論だった。あまりにも冷徹で、完璧な正論。

 彼女にとって、谷車も門廻も、単なる「リスク係数」の異なる駒に過ぎないのだ。


「被害者の門廻くんについては、希望通り配置転換を行いましょう。メンタルケアの休暇も与えるわ。……これで、手打ちにしていただけるかしら?」


 東鶴は微笑んだ。聖母のような、あるいは悪魔のような微笑みで。

 俺たちは沈黙するしかなかった。

 これ以上の要求は、組織の論理として通らないことを理解していたからだ。


 数日後。

 社内イントラネットに、谷車の異動がひっそりと掲示された。

 表向きは「グループ会社への栄転」に近い書き方だったが、行き先を見れば誰もがその意味を察するだろう。

 門廻は休職に入った。彼が職場復帰できるかどうかは、まだ分からない。


 地下2階の特命調査室。

 俺たちは、苦いコーヒーを啜っていた。


「……結局、トカゲの尻尾切りか」


 俺が呟くと、すずはチョコレートを力強く噛み砕いた。


「東鶴副社長……あの女、気に入らないわ。自分の手は汚さずに、私たちを使って掃除をしただけじゃない」


「ええ。彼女は谷車部長を切るタイミングを待っていたんでしょう。我々の調査は、そのためのちょうど良い大義名分だった」


 合渡が悔しげに眼鏡を拭いた。「法的には勝ちましたが、政治的には彼女の手のひらで踊らされましたね」


 完全勝利とは程遠い、泥の味がする結末。

 だが、それでも。

 俺は空になった門廻のデスクを思い出した。少なくとも、彼という一人の人間を、地獄から引きずり出すことはできたのだ。


「……ま、次があるさ」


 俺は空になったカップを置いた。


「この掃き溜めには、まだまだ腐ったゴミが流れてくる」


 すずが、ふっと小さく笑った。

 その笑顔は、初めて見せる、年相応の少女のような無邪気さと、共犯者としての信頼を含んでいた。


「そうね。……次は、もっと甘い案件がいいわ」


 彼女は新しいチョコレートの包みを開けた。

 地下室の空調が、低く唸り続けている。

 俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ。

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