ビーコンの嘘

不思議乃九

ビーコンの嘘

1


文化祭の朝は、空気が薄い。

校門をくぐった瞬間から、廊下の匂いが「学校」じゃなくなる。段ボール、養生テープ、マーカーのインク、揚げ物の油、少しの汗。去年までの自分が、そこかしこに貼り付いているみたいで落ち着かない。


二年C組の教室前には「謎解きラリー受付」の立て看板が出ていた。うちのクラスは来場者に校内を回らせ、指定ポイントでQRを読み取らせて答え合わせに戻させる。人が出入りする分、今年から導入された“安全アプリ”がやたら働く。


K-Log。

校内ビーコンに反応して、係の端末の位置がざっくり表示される。GPSほど正確じゃない。ビーコン範囲に端末があるかどうかだけ。端末を置いて移動するとログ上の「自分」は置き去りになる。


受付用の机に荷物を置き、僕はスマホを充電につないだ。黒いケースの角に、小さな欠けがある。自分のものだと触らなくても分かる傷。

ポケットには、古い端末も入っている。回線は入っていない。予備のQR読み取りとメモ用だ。


そのとき背後から声がした。


「充電、借りていい? 俺の切れそう」


白石蓮が、僕の机の前に立っていた。

うちの企画の頭脳。ラリーのページも、ポイントのQRも、ビーコンの設定も、ほとんど白石が組んだ。なのに今朝のミーティングでは姿を見ていない。


「いいよ」


僕が頷くと、白石は僕の充電ケーブルを抜き、自分のスマホをつないだ。手つきが妙に落ち着いている。文化祭の朝に似合わないくらい。


「サンキュ。すぐ返す」


白石は画面を確かめるように数回タップし、ふっと息を吐いた。

その指先が机の角に当たって、僕の古い端末がほんの少しだけずれた。カツ、と小さな感触。僕は反射的に押さえた。


「今日、来ないかと思った」

僕が言うと、白石は笑いもしないで言った。


「来るよ。……来ないと困るだろ」


その言い方が、何かを終わらせる人の声に聞こえて、胸の奥がざわついた。


通知が鳴る。


『優斗、今どこ?』

柊木優衣からだ。実行委員長。文化祭の中心にいるようで、いつも誰かの裏側を支えている人。


『教室。受付』

僕は短く返した。


すぐに返信が来た。

『10時ステージ前点呼、忘れないで。あと、情報室に資料置いた。ラリーの予備QRも一部持ってきて』


「情報室、行ける?」

白石が僕の画面をちらりと見て言った。覗き見というより、確認みたいに。


「行ける。今から」

僕が頷くと、白石は充電ケーブルを戻した。


「ほら」


白石が手渡してきた黒い塊を、僕はろくに見ずにポケットへ滑り込ませた。文化祭の朝は、細部を確認する余裕がない。

僕のスマホはもう十分、充電できたはずだ。そう思い込んでいた。


九時半前、僕は予備のQRシートと、受付の追加用紙を抱えて三階の情報室へ向かった。

扉の向こうはケーブルと埃の匂いがする。机に荷物を置き、両手を空けた瞬間、ポケットの中身がどこかへ落ちた気がした。けれど呼び止められ、振り返れなかった。

文化祭の朝は、そういう「後で」に満ちている。



2


十時。

ステージ前点呼の時間になっても、白石は現れなかった。


受付の列が途切れた瞬間、僕はポケットに手を入れて空振りした。

……スマホ。

さっき情報室で荷物を広げた時に置いたのかもしれない。文化祭の朝の「後で」が、もう形になっている。


そのとき、遠くでサイレンが鳴った。

校門の外じゃない。校舎の裏手から近づく音。文化祭のBGMが一瞬だけ薄くなる。喉の奥が乾いた。


「何かあった?」


柊木優衣が走ってきた。普段、あの人は走らない。急ぐ時ほど歩幅を大きくするのに。


「分からない」

僕は首を振った。


「……白石、連絡つく?」

優衣の声が低い。


「朝から既読つかない」


優衣は一度だけ目を閉じて、すぐ開いた。祈りみたいな仕草だった。


「体育館裏、来て」


そう言って走り出す。

僕は受付をクラスメイトに押し付け、追いかけた。ポケットの古い端末が硬く当たる。画面は点かない。今はただの重りだ。


視聴覚準備室の前には先生と救急隊員が集まっていた。

扉は半分だけ開いていて、そこから漂う消毒液の匂いが薄く流れてきた。


僕が覗きかけた瞬間、救急隊員が手首から指を離し、先生に首を振った。先生が歯を食いしばる。


床に横たわっているのは、白石蓮だった。


「見学は駄目だ。戻れ」

先生が言う。


優衣は一歩も引かなかった。

「原因は?」


先生は言い淀み、救急隊員の方を見る。

「アナフィラキシーの可能性が高い。何を食べたか……」


白石は重度のピーナッツアレルギーだった。クラスの常識だ。

文化祭の食品は徹底して表示する。うちのクラスは食品を扱わない。なのに。


救急隊員が白石の口元を示した。

生クリームの跡。甘い菓子パンみたいな匂いが、ほんのわずかに残っている。


「差し入れ……」

先生が言った。


優衣が肩を強張らせる。

「私、今朝……実行部に差し入れを買いました。でも白石には——」


先生が眉間に皺を寄せる。

「柊木、その袋は今朝どこに?」


優衣は唇を噛んでから言った。

「情報室です。実行部の臨時拠点にしていて、資料を置いています。買った袋も一度そこに……」


先生の視線が鋭くなる。

「つまり柊木の袋は情報室に置かれていた。そこから誰かが持ち出し、白石に渡した可能性がある」


優衣が小さく首を振る。

「私は持ち出してない」


「証明できるか」


優衣は言葉を失った。

僕は優衣の横顔を見た。強い人だ。けど今は、強さの足場を探している顔だった。


優衣がスマホを操作した。

「……K-Log。白石の端末、どこに出てる?」


優衣が画面を見せた。

青い点が、校舎三階「情報室」に固定されてい

る。

つまり、白石の端末は情報室に残ったまま、白石本人だけが体育館裏へ向かったことになる。


「……情報室?」

僕は思わず言った。白石は今、体育館裏で動かない。なのに端末だけが情報室にいる。


「端末が置きっぱなしなら、ログはそうなる」

救急隊員が淡々と言った。

「人は動けても、端末は動かない。逆もそうです」


「行こう」

僕が言うと、優衣は頷いた。


先生に止められる前に、僕らは情報室へ向かった。



3


情報室の扉は開いていた。文化祭の“裏側”の匂いがする。ケーブル、埃、古いプラスチック。

机の上に資料の山。壁際に折りたたみ椅子。

そして——見覚えのある紙袋の“跡”。底面が四角く残るだけで、中身はない。持ち手の影だけが薄く残っている。


優衣が息を呑んだ。

「……やっぱり」


「誰かが持っていった」

僕が言うと、優衣はK-Logの画面を操作した。情報室にいる係は数人。ログはざっくりしか出ないが、文化祭当日の動線くらいは追える。


「ここ、今朝の九時半に……神谷くんが近くにいる」


神谷航。うちの学年の実行部補助。

優衣と折り合いが悪いのは有名だった。去年、火災報知器の誤作動で避難誘導が混乱した時、責任を押し付けられたと騒いでいた。その時、優衣が前に出た。神谷はそれを“自分を潰した”と受け取ったらしい。


優衣が呟く。

「……あの人、まだ引きずってる」


僕は優衣を見た。

彼女は、誰かの恨みを自分の責任に数える癖がある。正しいと思う。だから余計に、誰かの悪意に利用される。


僕は部屋の中を見回した。机の端に、透明なフィルム片が落ちている。菓子パンの包装の切れ端。誰かが急いで開けて捨てたみたいに雑だった。

印字が途中で切れている。


〈ピーナッツを含む製品と同じ設備で製造〉


優衣がそれを見て、目を細めた。

「……表示、ある」


白石は慎重な人間だった。

以前、文化祭の準備で食品の話が出た時に、白石は言った。


「混ざる可能性があるなら、近づかないのが一番安全」


その白石が、注意書きのあるものを食べた。

“誰かに渡されたから”で済ませられるほど、単純な人じゃない。


「封筒……」

優衣が資料の束をどかすと、その下に薄い茶色の封筒が見えた。宛名は柊木優衣。角が折れている。


僕は手を伸ばしかけて、止めた。

まだ今は触らない方がいい気がした。理由は言葉にできない。ただ、順番を間違えると取り返しがつかない、と直感が言った。


優衣は封筒から手を離した。

「……先に神谷くん」


「うん」

僕は頷いた。


扉を出る直前、僕は机の上に黒いケースのスマホが置かれているのを見た。

誰のものか分からない。けれど、どこか見覚えがある形だった。

僕は一瞬だけ立ち止まり、結局、何も言わずに扉を閉めた。



4


体育館裏へ向かう途中、僕は一度だけ教室の方を振り返った。

K-Logの青い点は、まだ二年C組に残っている。僕が移動しているのに、ログの“僕”は動かない。

それが今は、妙に心強かった。自分がまだ、何かを握れている気がして。


体育館裏は、文化祭の表側から切り取られた影みたいに静かだった。

ステージの音が壁越しに薄く震えるだけで、あとは風が落ち葉を押し流す音がする。

白石が倒れていた場所は、黄色いテープで囲われていた。


そこに、神谷航がいた。

制服の上に実行部の腕章をつけているのに、仕事をしている感じがしない。僕らを見るなり、眉を上げた。


「……何。委員長、まだ足りない?」


優衣が一歩前に出る。

「情報室の袋、持ち出した?」


神谷は鼻で笑った。

「は? 知らねえよ。俺、今日ずっと動いてんだけど」


「K-Logでは九時半、情報室にいた」

優衣が言う。


神谷の視線が優衣のスマホに落ちて、すぐ逸れた。

「それ、誤差だろ。ビーコンなんて。端末がそこにあっただけじゃねえの」


言い方が雑だった。自分を守るために、とりあえず一番都合のいい言葉を投げたみたいな。

僕はその調子に覚えがある。追い詰められた時の、言い訳の速度。


「じゃあ聞く」

僕が口を挟んだ。

「今朝、情報室で優衣の紙袋を見た?」


神谷は一瞬だけ黙った。黙り方が、見た人の黙り方だった。


「……見たよ」

神谷が吐き捨てる。

「だから何」


優衣の頬が硬くなる。

「持っていったの?」


神谷は肩をすくめた。

「持ってった。持ってったよ。あったら邪魔だろ。実行部の拠点なんて、委員長の私物置き場じゃねえし」


「どこへ」

優衣が問う。


神谷は指で体育館裏の方を示した。

「ここ。ちょうどいい場所。誰が見ても“委員長の差し入れ”って分かるだろ」


僕の胃が沈んだ。

「……それを、白石が?」


神谷は口元を歪めた。

「知らねえよ。俺は置いただけ。袋の中身なんて見てねえ。……勝手に開けて、勝手に食ったんだろ」


優衣の声が震えた。 

「白石が……そんなことするわけ」


優衣の震えを聞いた瞬間、僕はもう迷わないと決めていた。


「するわけ、って何」

神谷が吐き捨てる。

「白石は優等生だもんな。委員長の友達だもんな。俺みたいなやつの悪意なんて、想像もしないもんな」


「神谷くん」

優衣が言った。

「あなた、私を困らせたかっただけ?」


神谷は視線を逸らしたまま答えた。

「……そうだよ。困る顔、見たかっただけだ。去年みたいにな」


その言葉が冷たすぎて、背中が痺れた。

優衣は何か言い返すべきだったのに、喉の奥で固めたまま、唇を噛んだ。


僕は神谷を見た。

殺意はない。悪意はある。

そして、その悪意が、人の命に触れてしまった。


「戻ろう」

僕が言うと、優衣は一度だけ頷いた。


戻り際、ポケットの古い端末が硬く当たった。

朝、白石の指が触れたあの感触を、僕は思い出していた。



5


情報室は相変わらず静かだった。

さっき見た紙袋の跡が、まだそこにあるのに、時間だけが先に進んでいる気がした。


優衣は迷わず資料の束をどかした。

その下にある封筒。宛名は柊木優衣。裏に小さく追記がある。


『十時すぎ。必ず読め。読むまでは、誰も信じるな。』


十時すぎ。

白石が倒れたのは、その少し後だ。


優衣の指が封の端を撫でる。封を切る音は、やけに乾いていた。

中の紙は一枚。折り目がきっちりついている。白石らしい。文字も乱れていない。必要なことだけが並んでいる。


『柊木。

もし俺が倒れたら、犯人を探すふりをする奴が動く。そいつが本当の敵だ。

お前の差し入れを「使える」と判断して運ぶ。自分が正しい側に立つために。

K-Logを盾にして、正義みたいな顔をする。

その瞬間、そいつの名前を言え。

黙るな。今度こそ、声を出せ。』


優衣は最後まで読んでから、紙を折り直した。

その動作だけが妙に丁寧だった。丁寧にしないと、何かが崩れるみたいに。


僕は息を吐いた。

「……白石、最初から」


優衣が頷く。

「うん。私が黙るの、知ってたんだと思う」


去年の件。

火災報知器の誤作動で避難誘導が混乱して、泣いた子がいた。保護者が怒鳴って、先生が顔色を変えて、実行部が責められた。

優衣はそのとき前に出た。自分が悪いわけじゃないのに矢面に立って、謝って、頭を下げた。

それで終わった。終わらせた。

でも、神谷は終われなかった。


「白石は……神谷が動くって分かってた」


白石は、優衣が黙って傷つく未来を、何よりも恐れていた。

僕が言うと、優衣は封筒を握り直した。紙が小さく鳴る。


「分かってた、だけじゃない」

優衣の声が掠れた。

「動かしたかったんだと思う。……私が黙るから」


白石が守りたかったのは、優衣の体面じゃない。

“声”だ。黙って耐える癖。自分を守るために黙るのに、結果として誰かの悪意の言い訳になる、その癖。


僕は白石の顔を思い出した。

文化祭の朝、僕の机の前に立っていた白石。充電を借りる、と言って、やけに落ち着いていた白石。

あの落ち着きは、準備が終わっていた落ち着きだったのかもしれない。


「……勝手すぎる」

僕の口から出た言葉は、怒りみたいに聞こえたと思う。でも本当は違う。

白石がいなくなったことが、ただ受け入れられないだけだった。


優衣は目を伏せた。

「うん。勝手。私もそう思う」


それでも優衣は、手紙をもう一度広げ直して読み返した。読み返すほど、白石の輪郭が濃くなるみたいだった。


「でも白石は、私が言えないって知ってた。……だからこういう手段を選んだ」

優衣は言葉を探す。

「いなくなれば、私の周りの“本当の敵”が動くって。私が黙ってる限り、ずっと」


僕は唇を噛んだ。

白石のやり方は正しいのか。正しくないのか。今は判断できない。

ただ、白石が優衣を見ていたことだけは分かる。僕よりずっと深く。


優衣が息を吸った。

いつもみたいに胸の中へしまうための呼吸じゃなく、外へ出すための呼吸だった。


「……言う」

優衣が言った。

「先生に。私、説明する。黙らない」


その声は震えていた。でも震えを隠そうとしなかった。


僕は頷いた。

優衣が声を出すなら、僕も立つ。

それが恋なのか、ただの意地なのか、今は名前をつけたくなかった。



6


情報室を出る直前、僕は机の上のフィルム片をもう一度見た。

〈ピーナッツを含む製品と同じ設備で製造〉

白石はこういう注意書きを、誰よりも信用する人だった。


「混ざる可能性があるなら、近づかないのが一番安全」


その白石が、注意書きのあるものを食べた。

“誰かに渡された”からって、口に入れる人じゃない。


僕の中で、ひとつの線が繋がった。

白石は、危険を知った上で食べた。

自分で選んだ。自分の体を、罠に使った。


優衣が僕の視線に気づく。

「……白石は、分かってて?」


僕は頷くしかなかった。

「分かってて食べた。じゃないと説明がつかない」


神谷の話も合う。

神谷は袋を運んだ。袋を“凶器”に見せた。優衣を困らせたかった。

でも神谷は中身を知らない。混入を知らない。殺意はない。

悪意はある。でも、悪意の方向は「困らせる」で止まっている。


じゃあ、白石が食べた“それ”は何だ。

差し入れ袋の中身のどれかか。もしくは、その中身に紛れた何か。

白石が自分で選び取った、危険のあるもの。


そしてもうひとつ。

白石の端末が情報室に固定されていること。


白石は倒れる前に、端末を持ち歩けたはずだ。

なのに置いていった。情報室に。

優衣の袋と同じ場所に。

“誰かが運ぶ”状況を作るために。K-Logの青い点を、証拠みたいに見せるために。


白石の手紙には、こうあった。

「犯人を探すふりをする奴が動く。K-Logを盾にして、正義みたいな顔をする」


神谷はまさに、それをやった。

「誤差だろ」「端末がそこにあっただけ」

自分を守るための言葉として言っただけのはずなのに、その言葉が“仕掛けに乗った”みたいにぴったりはまる。


白石は神谷の悪意を利用した。

優衣を追い詰める人間を、表に出すために。


優衣がぽつりと言った。

「……白石、私が言わないの、嫌だったんだね」


「嫌だった、じゃない」

僕は首を振った。

「言ってほしかったんだと思う。……白石は、優衣が声を出せば終わるって知ってた」


優衣は頷いた。

その頷きが、決意みたいに硬い。


僕はポケットの古い端末を指でなぞった。

朝、白石の指が触れた感触。

白石は僕の机の前に立って、僕の充電を借りて、僕の端末に触れた。


――僕を利用するつもりだったのかもしれない。

――そのための“駒”に、僕を置いたのかもしれない。


断定すると、白石の死がただの策略になってしまう。

でも、白石の落ち着きが、ずっと胸の中で消えない。


誰が、どの端末を持っているのか。

それだけで、この学校の“真実”は簡単に塗り替わる。



7


先生たちが動き始めた。警察が来る、という言葉が廊下を走った。文化祭は中止になるかもしれない。誰かが泣いて、誰かが怒鳴って、誰かがスマホを握りつぶしそうな手で何かを打っている。


優衣は、その中心に立っていた。

白石の手紙を胸ポケットに入れたまま、先生の方へ歩く。足取りが速いわけじゃないのに、周りの空気が避けていくみたいに開く。


「先生」

優衣は言った。

「私、説明します。神谷くんが袋を運んだ。でも混入は神谷くんじゃない。白石が自分で食べた。……それでも、これは“誰かの悪意”が関わってる」


先生が眉をひそめた。

「悪意?」


優衣は頷く。

「私を犯人に見せるための悪意です。だから、黙りません」


それだけ言うと、優衣は神谷の方を見た。神谷は目を逸らしたまま、唇だけ動かした。何も音にならない。

僕はその横顔を見て、ふと朝の教室を思い出した。


白石が僕の机の前に立っていた朝。

充電を借りて、ケーブルを抜いて、自分のスマホをつないだ朝。

そのとき白石の指が僕の古い端末に触れた気がした。気のせいだと思った。文化祭の朝は、誰の動きも雑になるから。


でも、違ったのかもしれない。


僕は二年C組へ戻った。

教室はまだ、文化祭の飾りつけのまま残っている。受付の机の上に、充電ケーブルが垂れていた。


そこに、スマホが一台、繋がれたまま置いてあった。


黒いケース。角の小さな欠け。

僕のスマホだ。


僕は喉が鳴るのを感じながら、それを手に取った。

画面には、朝の優衣の通知が残っている。


じゃあ、僕が朝から「僕のスマホ」だと思っていたものは何だったのか。

白石の端末は、情報室に固定されていた。

情報室に、黒いスマホが置いてあった。


白石がケーブルを抜いたあの瞬間。

「ほら」と手渡された黒い塊。

僕がろくに見ずにポケットへ滑り込ませたもの。

情報室で荷物を広げた時、どこかへ落ちた気がしたもの。


僕はようやく理解した。


白石の指先の重さが、今になって胸の奥で形を持った。

K-Logが示していた青い点の意味も、先生が疑った順番も、神谷が口にした詭弁も、全部。


教室の机の上で、僕のスマホだけが今日一日ずっと「僕」だった——白石の端末と、入れ替わったまま。


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