プルキンエ細胞増大に伴う運動機能の変化と身体機能の変容に関する報告書

泡森なつ

第1話

「世紀の大発明に繋がるかも」

「はぁ……」

 真っ白な病室で寝ていると、彼女が現れ、そんなことを告げた。

 なので俺が素っ頓狂な声も出てしまうのも仕方がなかったという訳だ。

 白衣の女性――栗色のボブショートと黒い縦セーターは白衣と対照的だ。白い衣服の陰影から、その胸が普通よりかなり大きいことが分かる。

「見事、日本男児およそ六千万人の中から選抜された大倉コウスケくん。君の尽力あって私たちはものすごい研究成果を得ることができたの。ノーベルとかそんなの比じゃない、人類を次のステージに押し上げるかもしれない革命的な――」

 それはそれは大層なことで。俺は呆れ混じりに返事をする。

「そもそもその選抜って、どういう基準なんでしたっけ」

「ある程度の生理的欲求を持った健康的かつ丈夫な身体の十五から十八歳……かな」

「誰でもいいじゃないですか」

 白衣の人――姉さんは笑って答えた。

「そう、誰でも良かった。でもお子さんを人体実験していいですかって聞いて、ハイどうぞなんて言ってくれる親御さんは中々居ないでしょ?」

「だからユキ姉が俺に声かけたんすね」

 大倉ユキ、二十六歳。俺と十つ歳の離れた年上のお姉さん。職業は脳とか細胞の研究者らしい。俺は詳しくないけれど、過去に一度、天才だとしてニュースに取り上げられていたことくらいは知っている。

 幼いうちに事故で両親を失くした俺は、最初の一年間は親戚中をたらい回しにされる日々を送っていた。そんな俺を見かねて大倉ユキが保護者になってくれたのが八年前。それからは一人暮らしの彼女の家に住まわせてもらうという、男の子なら鼻の下を伸ばして喜んでしまうような甘い日々が続いていた。

 けれど俺は、そんな甘々しい現実とは別に、彼女に「いつか恩返しがしたい」と願っていた。その日がこんな形でやってくるなんて。

「まさか、この実験のために今日まで俺を大切に育てて……」

「なわけないでしょー!」

「いて、やめろよ! そこ患部だぞ」

 ユキ姉の優しいチョップが頭を叩く。その後、彼女は翳りのある笑顔を見せた。

「でも、ごめんね。我儘なことして……大切に育ててきたのはホントなんだからさ」

 資料を胸で抱えると、そのまま部屋を出ていった。

 冗談のつもりだったが、彼女の中にも良心の呵責があったのだろうか。だとすれば迂闊なことを言ってしまったのかもしれない。自分の発言を悔いている内に彼女の足音は遠くなっていった。




『ゾウの脳が人間よりも遥かに大きいことを知っていますか?』


 それは今からおよそ一か月以上も前のこと。

 医療センターの一室をまるまる貸し切って行われた説明会——といっても参加者は俺一人な訳だが――にて、大倉ユキはよそよそしい敬語のまま問いかけた。

「そりゃまあ、見た通りでしょうね」

 俺は素っ気なく返事するが、ユキ姉は満足そうに続ける。

「それでも、実際の知能指数は人間のほうが遥かに上なんです。これは脳の細胞数が関係してまして、大脳の細胞数を比較すると人間のほうがずっとずっと多い。数字で言うとヒトはおよそ一五〇億個、ゾウはおよそ五〇億個くらいで……」

 ホワイトボードにあれこれと書き足される。その横には『小脳』という枠が書かれていた。

「ただし、この小脳の数だけはゾウさんの方が圧倒的に多いんです。これは学習能力とか末梢神経に関係するもので、ゾウさんが上手に絵を描けるのもこれが理由なんだよね~」

 少しずつ彼女の敬語がほぐれていく。プロジェクターにはゾウが描いたらしき絵が映し出された。

「これリンゴらしいんだけど、全然見えなくない?」

「俺は見えますけど」

「うっそぉ~」

「……この話関係あります?」

 ごほん、と誤魔化すと、彼女は真剣な声色になった。

「君がこの同意書にサインしてくれたら、君の脳を手術して、小脳神経細胞ニューロンを増やす実験を行います。これにより君はゾウ並の高度な学習能力を得て、末梢の感覚がスゴいことになっちゃいます。ざっくり言うとめちゃくちゃ運動神経が上がるってことね」

「ざっくりすね……」

「これはうちの偉いオジサンたちが苦労に苦労を重ねてようやく国から認可を受けた、大変貴重な手術なの。だから却下すればまた候補探しと実験環境の設定をやり直さなくちゃいけないけど、でもまずはコウスケくんの意思が大事だから、一応聞くね」

「なんか拒否権なくないですか」

「あるある。全然あるよ」

 だったらなんで実験環境を先に整えているんだ? うっかり文句が喉をついて出そうになったが、俺はすぐに引っ込めた。

 今日この時まで、俺はどんな形であれ、ユキ姉の助けになりたいと思って生きてきた。拒否する理由がないならここは黙って頷くのがカッコいいだろう。

「やりますよ。どんどん増やしてください。その小脳ニューロって奴」

「ははっ、光回線でも通すの?」

 さりげなく小馬鹿にしながらも、ユキ姉は嬉しそうに笑ってくれた。

 かくして俺は実験の被験体になることを受け入れた。およそ半年にわたる数回の大手術で頭はたびたび丸坊主になってしまったが、それでも俺は構わなかった。

 手術から戻ると、ユキ姉はいつも安堵と喜びと申し訳なさを、それぞれないまぜにした複雑な表情を浮かべる。そんな彼女を見る度に俺は自分の行いが彼女の心を動かしているような気がして、頭の奥がくすぐったかった。


「全手術工程終了から一日目。経過はどうですかー」

 真っ白な病室の中で、ボイスレコーダーを片手にユキ姉が尋ねる。この場には俺と彼女しかいない。二人だけの静かな空間だ。

「あー、そりゃもう凄いすよ。視界が全部真緑で、暗闇でも人の体温とかが分かるようになりました。あと建物も軽々登れるようになって、暗闇で目だけ光らせて――」

「ちょっと、嘘はやめて! これは後々公的な記録になるんだよ? お偉方にプレデターのスペックを聞かせてどうするの」

「ごめんってば」

 珍しく、少し怒った調子でユキ姉がたしなめる。

「でも正直、あんまり変わらない気がする」

「物を握った時、指先とか変な感じしなかった?」

 言われてみれば、とコップを手に取った時の感覚を思い出す。

「少し軽かった。あと冷たかったかも」

「ふむ……」

 サラサラとメモをしたためる。彼女が僅かに屈んだ拍子に、セーターのシルエットが胸のラインを強調した。

 距離が近い。良い匂いがする。布擦れの音が気になる。

 何故だか手足の先が熱い。これも手術のせいだろうか? 一緒に暮らしていた時は意識していなかったことがふつふつと湧いてくる。

「おーい」

「へっ?」

「だから、ちょっとテストさせてって言ったんだけど。ほら」

 考え事をしている間に経過観察は進行していた。彼女はペンをそこらの机の上に置くと、その小さく綺麗な手を俺に差し出す。

「握って」

「や、握るって……」

「ん」

 どういう意図のテストなのか分かりかねたが、ユキ姉はそんな俺に構わないで無理やりお互いの手を重ね、いわゆる恋人繋ぎのようにして握り込んだ。

「あつっ!」

 瞬間、想定以上の熱が右手の皮膚全体に伝わった。

 だがそれは苦痛を伴うような熱さではない。冬場に握ったカイロが思ったより熱を持っていたとか、そういうレベルのものだ。

「思ったより効果出てるね。手先までどくどく言ってる。神経過敏の兆候あり……あんまり極端なら冷却か、脈拍を抑える薬が必要かも」

「……そ、そうなん、ですね」

「あるいは、ただ敏感すぎるだけかな」

 状況が状況なものだから、俺は顔を俯かせるしかなかった。あんな握り方をしてユキ姉は何も思っていないのだろうか。いや、全て実験のためにしているのだから、何も気にしていないだろう。

「わお、脈が速くなってる……今日はこれくらいにしましょう。出した薬、ちゃんと飲んでね」

「うん……分かりました」

 手早く記録を終えると、彼女はそそくさと部屋を出てしまう。

 後に残された俺は、じんじんと温もった右手をぼうっと眺めるしかなかった。なんなんだ、一体この気持ちは――


「経過観察、七日目。調子はどうですか~コウスケく~ん」

「うるさい……今起きたばっかなんですけど……」

 早朝六時に突如ユキ姉に叩き起こされた俺は、不祥事を起こした有名人の如くレコーダーをぐいぐいと差し向けられていた。

 偉い人に聞かせる音声なんだよな、これ。

「どうして布団にくるまってるの?」

「光がキツい……」

「それは寝不足? それとも前から?」

「昨日の昼くらいから、ずっと……」

「だからずっと電気消してたんだ」

 布団の外側でペンの走る音が聞こえる。何かを書き終えると、彼女はいきなり布団を引っぺがしてベッドに乗り込んだ。

「目見せて」

 ユキ姉の端正な顔が近づく。目元を親指で引っ張られ、眼球が無理やり外の世界にさらけ出された。

 ほんのり目が痛い。しみるような痛みだ。手先だってまだ熱い、やっぱり異常だ。

 何かが変わろうとしているのだろうか?

「ユキ姉、俺なんか変……?」

「……」

「ユキ姉……?」

 少しの沈黙の後、彼女は答えた。

「大丈夫。ちょっと目が充血してるだけ。夜中にスマホとか見てたでしょキミ」

「それが原因? 手術じゃなくて……?」

「こちとら日本の最高位研究機関の研究者よ、安心しなさい」

 言いながらも、彼女は俺の眼球の写真を『念のために』と数枚撮っていた。彼女は真剣な表情のまま俺に告げる。

「本当にやばくなったら言って。私は絶対にキミの命を優先するから」

「で、でもそれだと実験が……すごいお金かかってるって……」

 悪びれる俺に、彼女は語気を強める。

「何億何兆かかった実験でも、人間の命は天秤にかけられません。科学の発展が人命を優越するなら、人類は今頃何度も滅亡してるでしょう?」

「……ユキ姉、怒ってる?」

 彼女は一瞬冷静になり、浅く呼吸を置いた。

「別に。ただ、君と同じようなことを研究所長に言われただけ。多少の無理はさせろって何よ、あのハゲほんっとムカつく……」

 どうやら知らないところで彼女は戦っているらしい。彼女の願い半分でここに居る分、少しだけ複雑な気持ちだ。俺だって多少の無理は承知でここに立っているつもりなのだから。

「——それに、約束したもん」

「え……?」

 一通り言い終えると、彼女はまた足早に部屋を去った。

 約束――ふいに言われたその言葉は、どこか懐かしい匂いがした。


 経過観察から十日が過ぎようとしていた。

 その日、何人かの研究員が俺のいる病室を訪れた。誰も彼も見物のつもりで来たのかもしれないが、今のところ俺に異常は見られないはずで、来たところで何も面白いことはないのにと始終不思議で仕方がなかった。また彼らは俺に幾つかの質問をして、その答えに満足そうな顔を浮かべるとすぐに退散した。中には俺ではなく、俺の股間を見ている奴もいた。なんだっていうんだ、気味が悪い。

 そうして夕方、最後の訪問者が病室に現れた。

「うぃーす」

「えっと……誰、でしたっけ」

 ノックもせず、挨拶と共に扉をあけたその男は、見るからに研究者の中でもはぐれもののような雰囲気を醸し出している。

 ぼさぼさの髪、目立つ無精ひげ、目つきと顔立ちは狐のように鋭い。だが諸々を加味してもあまりある、イケメンと呼ばれる部類の顔面だ。

「安形っつーもんです。君のおねえさんの助手みたいなアレで、コキ使われてやってきました」

「ユキ姉の……」

 一瞬、心の奥がざわつく。要らない心配がよぎってしまった。

「脈計るのと、あと色々質問させてもらうから、包み隠さずお願いね」

 安形という男は、淡々といくつかの質問事項を消化していく。内容はどれも俺の体調に関するもので、他愛ない応答がしばらく続いた。しかし――

「で、どうなの、性欲のほうは?」

「せっ、せい……!?」

「性欲。シコってんのかシコってないのか、本当のところはどうなんよ」

 半歩、といってもベッドの上なので擦り歩くようにだが、思わず引き下がってしまう。いきなり何を言い出すんだこの大人は!

「なんで答えなきゃいけないんですか、今時そういうのって男同士でも――」

「人体実験の被験者にプライベートなんかあるわけないでしょ。カメラで確認したけどさぁ、昨日、一昨日、その更に二日前で、就寝前のニ十分以上をトイレで過ごしてたよね」

 男はいたって真面目に、鋭い目つきを変えずに質問を続ける。本当にこれが通常運転なのか。知らぬ間にとんでもないセクハラを受けている気はしたが、それでも俺は馬鹿正直に答えるしかなかった。葛藤の間にも、ユキ姉の顔が脳裏を過ってしまったからだ。

「そりゃ、男子高校生なんだからそれなりには」

「ふ~ん」

 勇気を出して答えたのに、なんとも割に合わない相槌だ。安形はメモボードにしばらくペンを走らせると、ペンを胸ポケットにしまってこちらを睨んだ。

「じゃあ、今日からシコるのやめてね」

「え、な、なんで」

「キミのチンチン、今すごいことになってるから」

「は!?」

 何を言ってるんだこの人は? 俺が困惑している間に、彼は数枚のレントゲン写真を俺に差し出した。様々な角度から俺の透明な陰茎が投射されている。へえ、男の子のチンチンってこうなってるんだ。

 ――よく見ると、亀頭の部分に見たことのない影が写っている。

「あの、普通のチンチンってこうなってるんですか」

「なってねえよ。全く、どうしてんだ? 意味分かんねえ」

 バンバン、と安形はペン先で亀頭の部分を執拗に叩いた。他のレントゲン写真も併せて確認する。確かに、影の形は脳のようにも見える。

「……なんで?」

「キミのチンチンだろ、自分で確認しろよ」

「すみません、ちょっと意味が分かんなくて……」

 安形は半ば苛立っていた。その理由はなんとなく察せられる。

「今、研究所では大騒ぎが起きてるんだ。小脳細胞ニューロン増大実験のはずが、どんなオペをしたらペニスに脳ができるんだって。国に報告書出したいのにどうやって言葉を選んでもタチの悪い怪文書の出来上がりだ。おまけに下っ端研究員どもは面白がるばかりで事の重大さに気付いてねえ」

「事の重大さって……」

 俺の問いに、安形は大きなため息を吐いた。

「数兆円をかけたこの実験に、俺たちは『人間の身体能力増大』という少年マンガみてーなことを期待してたんだ。それがフタを開けりゃトンチキなエロSFだなんて、どう採算取れるんだよ。こっちの面子は丸つぶれだぜ?」

「はぁ……」

 きっと、大人には大人の事情があるんだろう。脳味噌を増やす実験だけでも十分スゴイのに、性器に脳が出来たらそれはそれで世紀の大発明なんじゃないかと俺は思ってしまった。それがたとえ自分の身体に起きていることだとしても、今は非現実的すぎてまだ頭が追いついていない。

「とにかく原因究明まで何にも興奮するな。シコるな。チンポを加熱させるな。じゃないと熱暴走でその小さな脳が死ぬ。チンポ脳が死んだところで大した影響はないかもしれないが……とにかく、それが今お前の小さな脳味噌にしてやれる唯一のケアだ。分かったな」

「そんな、無茶苦茶ですよ!」

 実際、経過観察が始まってから、ユキ姉との距離はぐんと近くなっていた。日常生活の中でも、あそこまで彼女という存在をしっかりと感じたことはない。そんな刺激的な思春期に右手がご無沙汰だなんて考えられない。

「とにかくチンポで考えることはやめろ。キミにできることはそれだけだ」

 ぼさぼさの頭を乱暴に掻いて、安形は部屋を出ていった。意味が分からない。俺のチンポに何が起きたって言うんだ。俺のチンポが一体何をしたって言うんだ。

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