京都七不思議 怪死事件簿 ――編纂官/助手:九条陽奈の噤口録――

女性向けホラー&百合小説が書きたい人

Case.00:京都・市井七不思議の総括と隠蔽の経緯

■遺失記録 File No.02154『京都・市井七不思議:総括と隠蔽の経緯』

 此処に記されるのは、京都という都市の皮膚の下、毛細血管のように張り巡らされた路地裏に澱む「真実」の記録である。一般に流布される七不思議は、その凄惨な呪理を隠蔽するための「蓋」に過ぎない。編纂室へんさんしつはこれらを「特定の動作」を起因とする自律型呪詛群と再定義し、その殺傷機序を次の通り、緊急通報および現場遺留品に基づき編纂する。


 以下、編纂官:九条 栞くじょうしおりが記録



一、【鉄輪(かなわ)の離縁】

 正式名称:鉄輪の井戸(かなわのいど) 所在地:下京区堺町通松原下ル 鍛冶屋町

 出典:『呪遺考・其の四』より抜粋

 かつて、後妻に夫を奪われた女が、五徳を逆さに被り、三つの火を灯して宇治川に浸かり、生きながら鬼となった。彼女が呪詛の末に果てた地にあるのが、この井戸である。だが、真実この井戸に沈められたのは、藁人形ではない。女は、夫と共に過ごした日々の「記憶」を、一つ、また一つと物理的な重りとして井戸へ投げ捨てたのだ。最後に女が井戸へ身を投げた時、この世から彼女を覚えている者は一人もいなくなった。「縁を断つ」とは、誰の心にも居場所を無くすということだ。

 忘れ去られた者は、死ぬことさえ許されず、永遠に空虚な路地を彷徨い続ける。



二、【戻橋(もどりばし)の足音】

 正式名称:一条戻橋(いちじょうもどりばし) 所在地:上京区堀川一条

 出典:『呪遺考・其の九』より抜粋

 堀川に架かる橋。そこは現世と常世が交差する、薄氷の境界である。古くは死者が蘇り、あるいは渡辺綱が鬼の腕を切り落とした地。渡りゆく者の背後には、常に「もう一人の自分」がつきまとう。それはかつて死んでいった己の残滓、あるいは、選び損ねた最悪の未来の姿だ。足音が重なる時、過去は現在を侵食し、肉体は泥へと還る。逸話は語る。「振り返れば、そこには誰もいない。ただ、貴方の足元に、貴方のものではない影が伸びているだけだ」。

 音の主を認めた時、橋の向こう側へと引きずり込まれ、二度と戻ることはない。



三、【幽霊松(ゆうれいまつ)の絞縄】

 正式名称:累ヶ淵の松(かさねがふちのまつ)/幽霊松 所在地:中京区三条河原

 出典:『呪遺考・其の十二』より抜粋

 かつて処刑場であった三条河原を見下ろすように立つ松。その枝が不自然に垂れ下がるのは、吊るされた者たちの重みに耐え続けてきたからだという。怨嗟が松の根に吸い込まれ、大地を呪った。その影を踏んだ者は、何かに魅入られたように空を見上げ、自らの首を差し出す。「重力は、罪の重さに比例する」。見えない縄に吊るされた肉体は、自重によってゆっくりと引きちぎられてゆく。

 松の木が風に揺れるたび、枝から零れるのは葉音ではなく、断絶した喉から漏れる「ごめんなさい」という震え声である。



四、【迷いしるべの空白】

 正式名称:迷子標(まいごしるべ)の石柱 所在地:上京区北野天満宮・一の鳥居

 出典:『呪遺考・其の十五』より抜粋

 「教ゆる方」「さがす方」と刻まれた石柱。迷子の情報を貼れば戻るとされたが、いつしかそこには「この世ではない場所への案内」が混ざるようになった。石柱の裏側に、決して読んではならぬ「逆さの地名」が刻まれている。それを一度でも意識した者は、見知った京都の街並みが、臓腑を裏返したような肉の迷宮へと変貌する。「行き先を問えば、道は閉ざされる」。

 無限に続く路地の中で、標的は自らの家へ帰る方法を忘れ、最後には自らの名前さえも石柱の空白へと吸い取られて消える。



五、【泥眼(でいがん)の羨望】

 正式名称:般若の面「泥眼」ゆかりの地 所在地:上京区西陣・紋屋町付近

 出典:『呪遺考・其の二十一』より抜粋

 嫉妬に狂った女の目が金色(泥眼)に濁る時、その視線の先にあるものはすべて、冷たい金塊へと変質する。西陣の織り糸が、かつて女の情念によって黄金の針へと変じたという伝説。彼女が欲したのは富ではない。自分を顧みぬ者の、その「永遠の静止」であった。射抜かれた者は、皮膚の下から内臓に至るまでが金属へと置き換わり、美しくも醜い像として完成する。「見つめられれば、時は止まる」。

 意識だけを黄金の檻に閉じ込められ、標的は風化することのない孤独の中で、自らが壊されるその日を待つことになる。



六、【千本(せんぼん)の数え唄】

 正式名称:千本通(せんぼんどおり) 所在地:京都市北区〜伏見区の主要道

 出典:『呪遺考・其の三十』より抜粋

 かつての葬送地「鳥辺野」へ続く、無数の卒塔婆(千本)が立ち並んでいた道。通り過ぎる風の中に、幼子の声で歌われる数え唄が混ざることがある。一から千まで数え上げる間、標的の肉体からは一秒ごとに「若さ」が剥落してゆく。千を数え終えた時、そこにあるのは生後間もない赤子の骸か、あるいは数百年を経て風化した枯骨か。「時間は、平等に貴方を食いつぶす」。この唄から逃れる術はない。

 耳を塞げば、唄は心臓の鼓動に混じって響き続け、内側から死をカウントダウンする。



七、【冥土(めいど)の逆井】

 正式名称:冥土通いの井戸(めいどがよいのいど) 所在地:東山区・六道珍皇寺

 出典:『呪遺考・其の三十三』より抜粋

 小野篁が夜な夜な地獄へ通うために使ったとされる井戸。そこは、現世の罪を裁くための覗き窓であった。井戸を覗き込んだ者は、水面に映る「真実の自分」――すなわち、自分の中に潜む怪物の姿を直視することになる。その影が井戸から這い出した時、本主の肉体は殻となり、怪物が中身を入れ替えて世界へと解き放たれる。「一人の人間には、二つの命が宿る」。

 昼と夜、光と影。反転する二つの能力を操る怪異は、自らが人間であった頃の記憶を餌に、新たな獲物を井戸の底へと誘い込む。



 ◇◆◇



 夕闇が、古い街並みの輪郭をどろりと溶かしていく。


 それは単なる日没ではなく、何者かが墨汁をぶちまけたような、粘り気のある不可逆な浸蝕だった。


 京都、下京区。


 碁盤の目のように整然と並んでいるはずの通りも、ひとたび大通りを外れれば、そこには時間から見捨てられたような歪な路地裏が口を開けている。


 観光客の嬌声が遠のくにつれ、空気は冷たく、重く、石畳の隙間から這い出した古い記憶の匂いを帯び始める。


 九条陽奈くじょうひなは、ビニール袋の持ち手が指に食い込む痛みを感じながら、急ぎ足でその迷宮を進んでいた。


 安売りの卵と、少し萎びた京野菜。


 そんな生活感の塊を両手に下げていなければ、自分さえもこの街の影に溶けて消えてしまいそうな、そんな錯覚に囚われる。


「……全く、あの人ときたら。たまには自分で行けばいいのに」


 独り言が、白く濁った吐息となって闇に消える。


 心の中で、同居人――正確には叔母であり、この世で唯一の血縁である九条栞くじょうしおりへの、出口のない愚痴を反芻する。


 大学1年生、19歳の春。


 同級生たちが色鮮やかな春服に身を包み、四条河原町でパンケーキを囲んでいる間に、自分は湿った路地の奥へと帰っていく。


 現実は、偏屈で生活能力皆無な叔母の食事係兼、雑用係だ。


 看板も出していない、築年数さえ定かではない雑居ビルの一室。


『九条遺失記録編纂室』。


 九条家という、京都の土に深く根を張った古い名家から籍を抜き、勘当同然でこの街に居座った栞は、親族の助けも一切借りず、ただ独りでこの街の「奇妙な事件」を記録し、収集することに執着していた。


 陽奈にとって、栞は理解し難い存在だった。


 家族であって家族でなく、保護者であって、どこか崇拝の対象に近い。


 不意に、前方から綺麗な二人組の女が歩いてくるのが見えた。


 街灯の届かない場所で、彼女たちの輪郭は不自然に揺らめいている。


 一人は柳のように細長く、もう一人はその背中に縫い付けられた影のように、ひどく小柄だった。


 揃いの、しかし現代の流行からは完全に切り離された、葬礼を思わせる黒い衣服。


 そして異様なほどに密着していた。まるで一つの個体のように。


 すれ違う瞬間、陽奈の視界が、まるで氷水を直接脳に流し込まれたように、一瞬だけ不透明な闇へと暗転した。


 繋がれた手と手。


 その指と指の隙間に、白く鋭い「骨のような何か」と「紅い糸」が、肉を割いて編み込まれているのが見えた気がした。


 それは、人間という種の限界を超えた、執着の結実。


「……っ」


 思わず足を止め、心臓が肋骨を突き破るような勢いで跳ねた。


 喉の奥が、目に見えない何かに締め付けられるように引き攣る。


 慌てて振り返るが、彼女たちの背中は、既に路地の角を曲がったわけでもないのに、煙が霧散するように消えていた。


 残されたのは、冬の残滓のような冷たい静寂だけ。


 気のせいだ、これはただの疲れだと、自分に言い聞かせるように乱れた呼吸を整える。


 京都の路地には、時折こうした「質の悪い空気」が、井戸の底のように溜まっている場所があるのだ。


「直感に従ってはいけない。それは貴方の脳が、理解できない恐怖に理由を付けるために作った『嘘』よ」


 かつて、幼い頃に栞に叩き込まれたその言葉を、陽奈は祈りのように頭の中で繰り返した。


 そうして彼女は、不可解な現象に理由を求めることを、意識的に止めてきたのだ。


 剥落したコンクリートの破片が散らばる急な階段を上がり、重い鉄扉を開ける。


 錆びた蝶番が、断末魔のような悲鳴を上げた。


「ただいま戻りました、栞さん。……また電気も点けずに、目に悪いですよ」


 薄暗い事務所の奥。


 床から天井までを埋め尽くす資料の山と、埃を被った古い書架。


 その中心にあるソファに、九条栞は、死体のようにだらしなく横たわっていた。


 整いすぎた容姿を、無造作に結い上げただけの黒髪。


 着崩した白シャツの隙間から覗く鎖骨は、青白い月光に晒された陶器のように、冷たく、不健康な美しさを湛えている。


「……遅かったわね、陽奈」


 栞はモニタから目を逸らさず、低い、鈴を転がすような、けれどどこか体温を感じさせない声で応じる。


「講義が終わってから特売のスーパー回るのがどれだけ大変か、少しは想像してください。依頼も来ないのに、何をそんなに凝視してるんですか」


「依頼など来なくていい。私の仕事は、誰かに頼まれるような安っぽいものではないわ」


 栞はそう言って、ようやく視線を陽奈に向けた。


 他者の嘘を見透かすような、透徹したガラス玉のような瞳。


 陽奈は、この人のこういう、世捨て人のような傲慢さが嫌いだった。


 けれど、自分をこの世という居場所に繋ぎ止めてくれている、唯一の楔であることを、彼女は痛いほど理解していた。


「記録を整理し、事実を固定すること。それが私の意思よ。この街からこぼれ落ちた、忘れ去られるべきではない『歪み』を、文字にして封じるの」


 栞の言葉には、いつも重い覚悟が宿っている。


 それは宿命などという甘いものではなく、彼女という個人が、自分の人生を削って捧げている「儀式」に近いものだった。


 陽奈は溜息をつきながら、手早く夕食の支度を始める。


 狭いキッチンに、出汁の香りが広がり、ようやくこの「墓場」のような事務所に、微かな生の気配が宿った。


 二人で囲む、小さな食卓。


 栞は、陽奈が作った出汁巻き卵を、無表情に、しかし一切の無駄がない所作で口へ運ぶ。


「……美味しいわ」


「なら、もっと美味しそうに食べてください。作り甲斐がないですよ」


「味覚と表情を連動させる必要性を感じないだけよ。……それより陽奈、今日の帰り道、おかしな連中を見なかった?」


 栞の問いは、唐突で、そして射抜くように鋭かった。


 陽奈は箸を止め、一瞬だけさっきの二人組を思い出し、背筋が凍った。


「え……別に、誰って。あ、変な二人組なら見ましたけど。すごく、こう……依存し合ってるみたいな?」


「そう。……それ以上は、深く考えないことね。無駄な好奇心は、いつか貴方の喉を焼く」


 栞はそれ以上何も言わず、茶を啜り、再びモニタの光の中へと戻っていった。


 陽奈は、そのだらしなく、けれど凛とした栞の横顔を盗み見る。


 自分には決して明かさない、京都という街の「真の姿」を、独りで背負っているようなその後ろ姿。


 文句を言いながらも、陽奈は知っていた。


 自分がこうして呑気な大学生という『日常』を演じていられるのは、家を捨て、自らの意思で闇に身を投じたこの叔母が、巨大な盾となって自分を隠し続けてくれているからだということを。


 それは、手を伸ばせば凍りついてしまいそうなほどの憧憬。


 そして、決して踏み込んではならない神域への畏怖だった。


 夜、11時。


 レポートの執筆に行き詰まり、煮詰まった頭が水分を欲していた。


 栞は既に、隣の寝室へと引っ込んでいた。


「夜は絶対に出歩いてはダメよ。特に深夜の自販機は、此岸と彼岸の境界が曖昧になる」


 栞の厳命が、呪文のように脳裏をよぎる。


 しかし、自販機はビルのすぐ下、徒歩にして十数秒の距離だ。


 ほんの数分。


 自席のマグカップが空であることに耐えきれず、陽奈は音を立てないようにサンダルを履き、深夜の静寂へと滑り出した。


 外気は、夕方よりも一層重く、湿り気を帯びていた。


 まるで、街全体が巨大な獣の胃袋の中に沈んでしまったような、閉塞感のある闇。


 街灯に照らされた自販機だけが、闇の中で人工的な浮き島のように不気味に光っている。


「……おしるこ、でいいかな。甘いのが飲みたい」


 糖分を使い切った脳に染みわたるような、あの背徳の感覚を想像する。


 コインを投入し、温かい飲み物のボタンを押し込む。


 静寂を裂くようにガタゴトと重い金属音が響き、夜の空気を震わせた。


 取り出し口に、期待を込めて手を伸ばした、その時だった。


 背後に、誰かが立った。


 気配がない。足音さえもしなかった。


 ただ、耳元で、絹が擦れるような、かすかな「衣擦れの音」がした。


「……ひ、ふ、み、よ……」


 幼い子供が遊んでいるような、あるいは、喉を潰した老婆が恨みを込めて唱えているような、ひどく不安定で、生理的な嫌悪を呼び起こす数え唄。


 陽奈の心臓は瞬時にして凍りつき、指先は氷を掴んだように強張った。


 恐る恐る取り出し口から手を引くと、そこにはアルミ缶などではなく、一塊の「真っ白な真綿」が、まるで摘出されたばかりの臓器のように生々しい熱を帯びて、じりじりと、じりじりと、取り出し口から転がり落ちてきた。


「――ひゃっ」


 声にならない悲鳴を押し殺し、陽奈は弾かれたように階段を駆け上がった。


 後ろを振り返れば、そのまま連れ去られてしまう。


 確信に近い恐怖が背中を押し、乱暴に事務所の扉を開け、床に転がり込む。


「栞さん! 栞さん!」


 事務所の真ん中。


 寝室にいたはずの栞が、電灯も点けず、深淵のような暗闇の中に屹立していた。


 その手には、旧式の、使い古された携帯電話ガラケーが握られている。


 そのストラップが、まるで生き物のように激しく、狂おしくのたうち回り、冷たい空気の中でそこだけが異常な熱気を放っていた。


「……陽奈。言ったはずよ?」


 栞の声は、普段のそれとは一線を画す、聞いたこともないほど冷たく、鋭利な刃物のようだった。


「この街の夜には、人に寄生して、人を喰らう怪物が溢れていると」


 栞の視線は、ガタガタと震える陽奈を通り越し、閉まった扉のすぐ向こう側に――今も、そこに張り付いているであろう「何か」を、真っ向から射抜いていた。


 その瞳には、陽奈が一度も見たことのない、冷酷な編纂官としての、そして「狩人」としての苛烈な殺意が、静かに、けれど確かに燃え盛っていた。

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