鼻風船とキラーチューン ―グータラーズ生存戦略―

Tom Eny

鼻風船とキラーチューン ―グータラーズ生存戦略―

鼻風船とキラーチューン ―グータラーズ生存戦略―


1. 鼻風船と介護の朝


私の朝は、ボーカリストの鼻から膨らんだ、巨大な「鼻風船」を叩き割ることから始まる。


プシュッ、と間の抜けた音がリビングに響く。 今日も胃の奥が、熱い鉄を飲んだようにキリキリと悲鳴を上げていた。 原因は、目の前でだらしなくソファに沈み込んでいる男。ロックバンド「グータラーズ」のボーカル兼ギター、ユウだ。


「ユウ! 起きなさい! 十時からスタジオ収録だって言ったでしょう!」


私はユウの鼻風船を弾き飛ばすと同時に、床に脱ぎ散らかされた湿った靴下を拾い上げた。芋虫のように寝返りを打つ彼の足に、半ば強引にそれを押し込む。指先に触れる生ぬるい感触に、こみ上げる殺意をプロフェッショナルな献身で押し殺す。


「いい? あなたの喉は楽器なの。こんな場所で冷えて、結露した窓ガラスを擦るような声になったらどうするつもり!?」


「んー、ミチコ……そこ、くすぐったい……」


ユウは寝ぼけた声を出し、当然のように私の膝に頭を預け直した。私は憤りながらも、彼の髪についた糸屑を器用に摘み取り、濡れタオルで頑固な寝癖を抑えつける。 ふと、ユウが床に落としたスマホを拾い上げた。画面には『ZZZ_無限大フォルダ』の文字。そこには、数千もの「寝ぼけ録音」が詰まっていた。


(……この子は、ただ眠りの中で呼吸をしているだけで、こんなにも純粋な宝物を生み出している)


その事実に戦慄する。だからこそ、腹が立つのだ。 才能があるなら、なおさら人間として自立しなさい!


2. 呆れの午前四時


その日の深夜、午前四時。 私の意識は疲労で霧の向こう側だったが、「しっかり者」という呪いだけが、私をPCに向かわせていた。


「もう! こんな夜中に作業させるなんて、本当に非効率的だわ!」


怒りに任せてBandLabのクラウドを開く。そこには、ユウの断片的な鼻歌に加え、ドラムのカズとベースのアオイが「ミチコさんならなんとかしてくれる」という甘えから放り込んだ、無垢で完璧すぎる演奏パートが揃っていた。


私は「もうどうにでもなれ!」という諦念と、強烈な眠気に負けたままの指先で、制作AIすら凌駕する速度でトラックを組み上げていく。 無意識に、私の口からもユウと同じような鼻歌が漏れていることには気づかなかった。


「新曲_完成デモ_0400AM.mp3」


それは、計算された商業音楽を嘲笑うような、最高のキラーチューンだった。完了の通知を確認した瞬間、私はキーボードの横で崩れるように意識を失った。


3. 船こぎライブの奇跡


ライブ当日。大手プロモーターが視察に来る、運命のステージだ。 私は楽屋で、ふらふらと立ち上がったユウの口元にカットフルーツを放り込み、衣装のボタンを留め直し、その背中を強めに叩いた。


「いい? ユウ。最高の演奏をしなさい。そして、一分一秒、意識を保つのよ!」


ステージに上がったユウは、荒波に揉まれる小舟のようにゆらゆらと不規則に揺れていた。だが、その身体は「無意識」という名の、誰にも真似できない完璧なグルーヴを放っている。


ライブ開始五分。事件は起きた。 ギターソロの最中、ユウが深い眠りに落ち、再び鼻の穴から特大の鼻風船が膨らみ始めたのだ。


客席がざわつく。私は舞台袖で、祈るように両手で顔を覆った。 (お願い、割れないで……!)


プシュッ!


風船が破裂した衝撃で、ユウがハッと目を開けた。 「あれ? 俺、今、物理の授業中じゃ……」


マイクがその寝言を拾い、会場が凍りつく。プロモーターの顔が険しくなるのが見えた。 しかし、ユウはカズの刻むバスドラムを聴いた瞬間、私の叱責から逃げるように再びウトウトと目を閉じ始めた。彼は「最高の怠惰」へと回帰し、何事もなかったかのように、さらに深度を増した超越的な演奏を繰り出したのだ。


その瞬間、静寂を突き破るような轟音が会場を支配した。 ユウがマイクスタンドにもたれかかり、完全に寝落ちした直後。鼻風船を揺らしながら彼が口ずさんだ「たった二秒間」のメロディ。それは、この世のどんな楽譜にも書き起こせない、神様との交信記録だった。


会場全体が、言葉を失って震えていた。


4. 報われない決意


ライブは大成功。プロモーターたちは契約書を手に、嵐のように楽屋へと殺到した。


ユウはソファで、赤ん坊のように丸まって寝ていた。私は契約書を握りしめ、彼の肩を激しく揺さぶる。 「ユウ! 契約が決まったわ! 大成功よ!」


ユウはゆっくりと目を覚まし、一点の曇りもない澄み切った瞳で私を見た。 「え? ああ、ミチコ、お疲れ。最高の気分だよ。だって、今日は八時間しっかり寝られたから」


ユウはそう言うと、当然のような顔をして、空になったペットボトルを私の手に握らせた。そして、代わりに私のポケットに入っているはずのキャンディを、手探りで探し始める。


私の必死の努力が、彼らの「怠惰」によって最高の結果に繋がったという究極の皮肉。 そして、この生活能力ゼロの天才たちを、守り抜かなければならないという抗いようのない使命感。


私は黙ってキャンディの包み紙を剥き、ユウの口に放り込む。


「いい? 明日こそ、ちゃんと朝から練習しなさい! 忘れ物したら承知しないんだから!」


私の文句は、彼らの才能を純粋なまま世界に届けるための、不器用で献身的な祈りだ。 私の戦いは、今日も、そして明日も、永遠に終わることはない。

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