第四十一話 診療所の一日
朝、井戸の前に人が並んでいた。
列は長くない。だが昨日までとは違う。誰も桶を覗き込まない。誰も鼻を近づけない。水を汲み、蓋をし、静かに家へ戻っていく。
水は澄んでいた。
異臭も、濁りもない。
役場が立てた札には、短く「使用可」とだけ書かれている。説明はない。理由もない。だが町の人間は、それで十分だった。
町は、もう水を使っていた。
診療所の裏で、ミアが桶に水を汲んでいた。透明な水が、音を立てて満ちていく。その音を聞きながら、彼女はほんの一瞬だけ手を止める。
水面を見る。
昨日まで、そこにあった重さがない。
「……よし」
独り言のように呟いて、桶を持ち上げた。力は要らない。だが気持ちは軽くなった。
診療所の中では、もうルネが動いていた。
扉を開ける前に、彼女は棚を一つ確認する。包帯。消毒液。記録用の紙。足りないものはない。昨日の夜、最後に補充したことを覚えている。
そのまま、入口の椅子を少しだけ動かす。足が悪い患者が座りやすい位置だ。何度か動かして、納得のいく場所で止める。
朝一番の患者が来る前に、やることは決まっている。
ルネは無言で動いた。
指示を待たない。
誰かに見られているかも、気にしていない。
ミアが中へ入ってくると、ルネは顔を上げた。
「おはよう」
ミアが声をかける。ルネは一瞬だけ考えてから、同じくらいの声量で返した。
「……おはようございます」
それだけだ。
挨拶以上の言葉はない。
ミアはそれを気にする様子もなく、診察台の横に桶を置いた。
「水、戻ったね」
確認のような言い方だった。
ルネは頷く。
「……はい」
言葉は短いが、迷いがない。
もう一度、水を見る必要もない。
二人はそれぞれの場所へ散った。
無駄な動線がない。
ルネは入口へ。
ミアは奥へ。
最初の患者が来る。昨日、足が抜けるように動かなくなっていた男だ。今日は、杖を使っているが、立っている。
「……先生は」
「少しあとで出ます」
ミアが答えるより早く、ルネが言った。
声は落ち着いている。
「今日は、無理しないって言ってました」
男は安心したように頷いた。
「それでいい。あの先生は……無理するからな」
冗談めかして言って、椅子に腰を下ろす。その動きに、昨日までの危うさはない。
ルネはその足元を見て、次に何をすべきかを考える。
立たせる必要はない。
座ったままで診察できる。
そう判断して、何も言わずに記録の紙を差し出した。
ミアが気づき、受け取る。
「ありがとう」
ルネは小さく頷き、次の患者へ視線を移す。
そのやりとりを、診察室の奥からレオンが見ていた。
椅子に腰掛け、足を伸ばしたまま、無理に立とうとはしていない。顔色は悪くない。だが、動きは抑えている。
レオンは何も言わなかった。
言う必要がないと判断した。
診療所は、もう回っている。
午前の診療は、途切れずに続いた。
重症はいない。
だが昨日の影を引きずる患者は多い。歩けるが不安定な者、指先の感覚が戻りきらない者、夜に足がつったという訴え。どれも、命に直結するものではない。だが放置すれば生活を削る。
診療所は、そういう日常の不調を拾う場所に戻っていた。
レオンは椅子に座ったまま、診察を続けている。足をかばう様子はあるが、声も視線もいつもどおりだ。患者に対しては、丁寧で落ち着いた敬語。説明は短く、必要なことは省かない。
「今日は無理をしないでください。
水分はこまめに。痺れが強くなったら、すぐ来てください」
患者は頷き、礼を言って出ていく。
その動線の先に、ルネがいる。
彼女は患者を迎え、椅子を引き、記録を渡す。声は少ない。だが、目線と動きに迷いがない。患者が不安そうなときは、ほんの少しだけ近づく。近づきすぎない距離で。
「……こちらへ」
それだけで、患者は動く。
不思議と、拒まれない。
ミアはその様子を横目で見ながら、次の準備を進める。薬の補充、器具の消毒、記録の整理。動きが重なりそうになると、ルネが一歩引く。逆に、ミアが手を取られると、ルネが前に出る。
言葉は少ない。
だが、動線が噛み合っている。
昼前、診療が一段落したところで、ミアが小さく息を吐いた。
「……ここまで来たら、落ち着いたかな」
ルネは、次の患者が来ないことを確認してから、頷いた。
「……はい」
ミアは湯を沸かし、二つのカップに注ぐ。一つをルネに差し出した。
「少しだけ」
休憩と言うほどのものではない。だが、立ちっぱなしの脚を緩めるには十分だ。
ルネはカップを受け取り、少し考えてから口をつけた。
「……熱い」
「当たり前」
ミアが小さく笑う。
ルネは視線を落としたまま、もう一度だけ吹いてから飲んだ。
「でも、いいね」
その言葉は、湯のことなのか、今の空気のことなのか、分からない。
ミアはどちらも受け取ったように頷いた。
「動きやすい?」
ルネの足元を見る。
ズボンの裾は、もう診療所の床に馴染んでいる。
「……はい」
「でしょ。ここ、立ち仕事だから」
それ以上は言わない。
選んだ理由を聞かない。
ただ、正解だったことを共有するだけだ。
そのやりとりを、レオンが診察室の奥から見ていた。
目を細めるでもなく、表情を変えるでもない。
ただ、視線を向けて、次の患者の準備に戻る。
午後の診療が始まる。
昨日まで足が抜けるように動かなかった老人が、今日は自分で歩いて入ってくる。杖はあるが、足取りは安定している。
「だいぶ戻りました」
「無理は禁物です」
レオンが答える。
「戻ったからといって、急に元どおりにしないでください。
今日は、できることを少し減らす」
老人は苦笑しながら頷いた。
「先生が言うなら」
そのやりとりを聞きながら、ルネは記録を取り、必要な薬を準備する。迷いがない。昨日まで、いちいちミアの顔を見ていた手順を、今日は一人で進めている。
レオンはそれを見て、ようやく口を開いた。
「ルネ」
名前を呼ばれて、ルネは顔を上げる。
「……はい」
「もう、指示はいらないな」
一言だけだった。
評価も説明もない。
ルネは一瞬、言葉を探した。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
それで終わりだ。
だが、その後の動きが変わった。
一拍、考えてから動くのではなく、考えながら動く。自分の判断に責任を持つ速度に変わった。
ミアがその変化に気づき、何も言わずに一歩下がる。
診療所の中で、役割が自然に更新されていく。
夕方、最後の患者が帰ったあと、診療所は静かになった。
レオンは椅子から立とうとして、止めた。
足は、まだ万全ではない。
ミアがすぐに気づく。
「今日は、ここまでにしましょう」
「そうだな」
レオンは否定しない。
ルネが窓を閉め、戸締まりを確認する。
その動きに、もう“新しい人”のぎこちなさはない。
診療所は、いつもの場所に戻っていた。
大きなことは、もう起きていない。
だが確かに、何かが定着した一日だった。
レオンは椅子に座ったまま、診療所を見渡す。
ミアとルネが、それぞれの役割で動いている。
水は戻り、町は回り、診療所は機能している。
それでいい。
診療所の戸締まりが終わり、外の音が遠のいた。
ルネは最後に、棚の前で立ち止まった。
今日使った分の包帯と薬品を確認し、足りないものに小さく印をつける。誰に言われたわけでもない。明日の朝、迷わないための癖だ。
それを見て、ミアが声をかけた。
「もう、完全にこっちの人だね」
冗談めかした言い方だったが、響きは軽くない。
ルネは一瞬だけ手を止めた。
「……まだ、覚えることはあります」
「それはみんなそう」
ミアは肩をすくめて笑った。
「でもさ、順応が早いのは才能だよ。
現場で一番大事なやつ」
ルネは何も言わなかった。
褒め言葉を受け取るのに慣れていない。だが、否定もしなかった。
その様子を、レオンが見ていた。
しばらく黙ってから、短く言う。
「判断が早い」
それだけだ。
感情も装飾もない。
だが、評価としては十分だった。
「状況を見て動けている。
それができれば、医療現場では困らない」
ルネは、はっきりと頷いた。
「……はい」
その返事には、もう緊張がない。
役割を与えられている自覚があった。
ミアが一歩引き、二人の様子を見てから、軽く手を叩いた。
「じゃ、今日はここまで。
先生も、もう休まないと」
「そうだな」
レオンは立ち上がろうとして、やはり無理をしなかった。
それを、ルネが見ている。
助けようか、と一瞬迷って、やめた。
必要なときは、言われる。
今は違う。
その判断ができていることに、ルネ自身が気づいた。
診療所の灯りが落ちる。
水は戻った。
町は動き出した。
診療所も、もう大丈夫だ。
それでいい。
英雄医は、今日も特別なことはしなかった。
ただ、必要な判断を、必要な順で積み重ねただけだった。
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