第二十一話 ずれる手順
朝、診療所の扉を開けた瞬間、違和感があった。
床板が鳴る前に、奥から音がした。
金属が、静かに触れ合う音。
レオンは、もう中にいた。
机ではなく、棚の前に立っている。
いつもなら記録を書いている時間だ。
「おはよう」
声は同じ高さで返ってくる。
「おはよう」
それだけなのに、空気がわずかに違う。
音の位置が違うだけで、診療所が別の場所のように感じられた。
リナは靴を揃え、中へ入る。
いつもの位置に立とうとして、半歩ずれていることに気づき、戻る。
無意識だった。
レオンは瓶を一つ手に取り、棚の奥に戻している。
昨日、自分が揃えた並びだ。
「それ、右でした」
言ってから、少し遅れたと思った。
指示のように聞こえたかもしれない。
レオンは瓶を見る。
一拍置き、元の位置に戻す。
「……そうだったな」
短い。
だが、その一言で、胸の奥が少し緩んだ。
直されたことより、受け取られたことが大きかった。
最初の患者は、顔見知りの男だった。
薪を運んで腰を痛めたらしい。
「先生、今日はちゃんと来たな」
「昨日も来ている」
「いや、昨日はいなかった」
男は笑い、視線をリナに向ける。
レオンは一瞬だけ、そちらを見る。
すぐに患者へ戻る。
「今日はどうだ」
触診は短い。
判断も早い。
「無理はするな。今日は休め」
「休めって言われて、休めたら苦労しないんだがな」
そう言いながらも、男は頷く。
帰り際、男が言った。
「この前の子、助かったって言ってた」
レオンは顔を上げる。
「そうか」
それ以上は続かない。
午前中は、少し賑やかだった。
子どもが二人、ほぼ同時に入ってくる。
どちらも声が大きい。
母親が困った顔をする。
「順番」
レオンの一言で、子どもたちは黙る。
リナはしゃがみ、目線を合わせた。
「先に、どっち?」
子どもたちは顔を見合わせ、指を差し合い、結局じゃんけんを始めた。
レオンは何も言わない。
止めもしない。
勝った方が先に診察を受け、負けた方は椅子を蹴る。
「蹴るな」
「……はい」
素直だ。
診療が終わると、子どもはリナを見る。
「ねえ、ここ、いつもいるの?」
一瞬、答えに詰まる。
「……最近」
「ふーん」
それだけ言って、走っていった。
その背中を見ながら、理由もなく笑いそうになり、やめる。
昼前、指を切った男が来る。
昨日ほど深くはない。
レオンは傷を見る。
「魔法でいい」
短い詠唱。
血はすぐ止まる。
男が目を丸くする。
「おお……」
レオンはもう、次の準備をしている。
「今日はそれで終わりだ」
男は満足そうに帰っていった。
リナは、何も並べなかった。
必要な場面ではなかったから。
その判断が、少しだけ胸に残る。
午後は静かだった。
風が窓を鳴らす。
ランプの火が揺れる。
レオンは記録を書き、リナは床を拭く。
二人とも、ほとんど言葉を使わない。
それでも、動きが重ならない。
水桶を動かそうとして、同時に手を伸ばす。
一瞬、止まる。
「あ」
「……」
どちらともなく、手を引く。
「先、どうぞ」
「いや」
結局、二人で持つ。
重さは半分になる。
「……こういうの、慣れてない」
ぽつりと、レオンが言った。
「どっちが?」
「……二人でやるのが」
それ以上は続かない。
だが、否定もしない。
夕方、診療所に誰もいなくなる。
片づけの時間だ。
棚を整えながら、リナが言う。
「ここ、少し奥のほうが取りやすいです」
「理由は」
「次、手が迷わないから」
一拍。
「……そうか」
瓶が移動する。
並びが、少し変わる。
それでも、診療所は診療所のままだ。
ランプに火が入る。
「今日は、ここまでだ」
いつもの言葉。
だが、今日は続きがあった。
「……明日も、来るか」
命令ではない。
確認でもない。
ただの問いだ。
「はい」
即答だった。
レオンは頷き、視線を外す。
それだけ。
帰り道、剣の重さを確かめる癖が出そうになって、やめる。
今日は、確かめなくてもいい。
代わりに、今日の一日が、そのまま胸に残っていた。
楽しい、というほどじゃない。
でも、悪くない。
その感触を、初めて、剣以外で知った気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます