第十九話 来ない一日
朝、診療所の扉はいつも通りに開いた。
湿った空気が入り、床板が小さく鳴る。レオンはそれを気に留めない。気に留めないことが、ここでのやり方だった。
器具を並べる。
瓶の蓋を確かめる。
布を畳む。
順番は決まっている。順番が決まっている作業は、考えなくていい。
外で足音が止まった。
――来ない。
そう思ったわけではない。ただ、いつもより早く視線が入口に向いただけだ。
扉が開く。
「先生」
畑仕事の男だった。指先に小さな切り傷。血は止まっている。
「問題ない」
「今日は動かすな」
それだけ言って終わる。男は礼を言い、すぐに出ていく。
次の足音。
老女。
その次に、子ども。
軽い。
急がない。
軽くて急がないものが、続く。
レオンは一人で回す。
回せる。
水を汲みに行く。
戻る。
布を取りに行く。
戻る。
戻るたびに、部屋の中が少しだけ違う。
誰かが拾っていた作業が、そのまま残っている。
昼前、記録をつけようとして、手が止まる。
内容は分かっている。
だが、順番が崩れている。
処置の合間に、水。
布。
片づけ。
どれも医療ではない。
それでも、医療を支えている。
扉の外から声がした。
「先生、ちょっといいか」
腰を痛めた男だ。触診をする。原因ははっきりしている。休めば治る。休めない事情も、分かる。
「今日は帰れ」
「明日、また来い」
男は渋い顔で頷いた。
外で誰かが言う。
「今日は静かだな」
別の声が続く。
「あの子、来てないのか」
名前は出ない。
それでも、誰のことかは分かる言い方だった。
レオンは何も言わない。
説明はしない。
必要だと思っていない。
午後、雨が降り始める。
屋根を打つ音が一定になる。患者は減る。仕事は残る。
レオンは一人で片づける。
布を洗い、干し、器具を戻す。
動作が一つ多い。
それだけだ。
壊れない。
問題にもならない。
それでも、判断が一拍遅れる瞬間があった。
迷ったわけではない。
考えたわけでもない。
視線を向けた先に、誰もいなかった。
その一拍で結果は変わらない。
それでも、医師には分かる。
――前提があった。
夜、ランプを点ける。
記録を書く。文字は整っているが、短い。必要なことだけが残っている。
扉の外は暗い。
今日は、来ない。
その事実を、レオンは言葉にしない。
言葉にしないことに慣れすぎている。
それでも、片づけが終わったあと、入口を見る。
空いている。
一方、リナは村の外れで立ち止まっていた。
足を止める理由は、確かにあった。
頼まれごとは断れなかった。
雨も強かった。
疲れも、あった。
どれも嘘ではない。
どれも、いつもなら理由にならない程度のものだった。
それでも今日は、足が動かなかった。
診療所へ向かう道は、もう覚えている。
考えなくても辿り着ける距離だ。
気軽に行ける場所になっていた。
だからこそ、怖かった。
剣を持っていない。
背中が軽い。
軽いことが、不安だった。
今まで、剣を持つことでしか
自分の立つ場所を確かめられなかった。
戦っていれば、役に立っていると信じられた。
勝っていれば、ここにいていい理由になった。
けれど、あの医師の前では違う。
剣を持たないまま立って、
ただ隣にいて、
何かを渡すだけの自分。
それは、本当に役に立つのだろうか。
邪魔にならないだろうか。
判断を乱さないだろうか。
剣を持たない自分で、
あの人のそばに立っていいのか、
まだ分からなかった。
胸は診療所の方を向いている。
灯りが点く時間を、無意識に数えている。
行きたい。
でも、行ってしまえば、
剣を持たない自分を試してしまう気がした。
試して、何もできなかったら。
そのまま、そこに立ってしまったら。
それが、怖かった。
だから、行けなかった。
選んだというより、
立ち尽くしてしまった、という方が近い。
夜、宿に戻る。
雨音が続く。
目を閉じても、診療所の中が浮かぶ。
水を汲む回数。
布の位置。
記録の順番。
自分がいなくても、回る。
それは分かっている。
それでも、来なかった一日は、長かった。
翌朝、雨は上がっていた。
リナは立ち上がり、外を見る。
理由を作ろうと思えば、作れる。
それでも、足は診療所の方を向く。
扉の前で立ち止まる。
胸が、少しだけきつい。
扉を叩く。
「どうぞ」
返ってくる声は、昨日と同じだ。
中に入る。
レオンは机に向かっている。
顔を上げる。
「おはよう」
短い。
責めない。
問わない。
それが、いちばん重かった。
リナは答える。
「……おはよう」
来なかった一日は、消えない。
消えないまま、ここに戻ってしまった。
そのことが、胸に静かに残った。
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