第八話 境界に立つ者

 夜明け前だった。


 診療所の扉が叩かれる。

 強くはない。だが、ためらいのない音だった。


 レオンは、すぐに分かった。

 急患ではない。

 答えを求めに来た音だ。


 扉を開けると、松明の光が差し込んだ。

 担架がある。


 その上の男を見て、レオンは小さく息を吐いた。


 剣を置いたはずの英雄だった。


「……来たか」


 英雄は、かすかに笑った。

 その表情は、もう戦場のものではない。


 兵が一歩前に出る。


「前線で崩れました。

 踏み込みの瞬間です」


 簡潔な報告だった。

 言い訳も、装飾もない。


「固定はしています。

 ですが――」


 兵は一拍置いて、


「戻してほしい」


 そう言った。


 レオンは、兵を見なかった。

 英雄の脚を見る。


 膝の角度。

 腫れ。

 重心の逃げ方。


 触れなくても、分かる。


「……それでも出たな」


 英雄は、目を閉じた。


「……あなたの言葉は、正しかった」


 兵が、息を呑む。


「なら――!」


「黙ってください」


 レオンの声は低かった。

 怒気はない。

 だが、その場の空気が変わる。


 診療が始まった。


 包帯を解く。

 関節は、形を保っている。


 だが、内部は完全に壊れていた。


 固定はできる。

 痛みも抑えられる。


 それ以上は――


「ここまでだ」


 レオンは、はっきり言った。


「戦場には戻れない」


 兵が声を荒げる。


「それでも!

 彼がいれば、持ちこたえられた!」


 レオンは、ゆっくり立ち上がる。


「それは“使う”という判断だ」


 一歩、兵に近づく。


「治療じゃない」


 兵は、言葉を失う。


「彼は、戻らないと決めた」


 英雄が、静かに口を開いた。


「いい」


 声は弱い。

 だが、揺れていない。


「最初から、分かっていた」


 レオンは、新しい包帯を取る。


「固定する。

 痛みは抑える。

 歩くことはできる」


「戻らせないのか」


 英雄が問う。


「戻せない」


 即答だった。


 英雄は、天井を見つめたまま、息を吐く。


「……それでいい」


 兵が、最後の言葉を絞り出す。


「医――

 ……あなたは、医師だろう。

 救える命が、あるだろう」


 レオンは、包帯を締めながら答えた。


「ある」


 迷いはない。


「だから、選ぶ」


 手は、震えていない。


「生きるほうをだ」


 英雄が、ゆっくりこちらを見る。


「……聞いてもいいか」


「何だ」


「俺は、役に立ったか」


 それは、英雄の問いじゃない。

 人間の問いだった。


 レオンは、視線を逸らさない。


「立った」


 一言。


「剣を振らなくてもだ」


 英雄の喉が鳴る。


「選んだことで、だ」


 声を出さず、涙が落ちた。


 兵は、もう何も言えなかった。


 夜が、少しずつ明けていく。


 レオンは、担架を兵に引き渡す。


「ここから先は、生活だ」


 英雄は、ゆっくり頷く。


「……頼む」


 それは命令じゃない。

 戦場の声でもない。


 人生を、預ける声だった。


 扉が閉まる。


 レオンは、手を洗う。


 水音の中で、外の世界が動いているのを感じながら。


 剣を持たない英雄がいる。

 だが――


 英雄を終わらせた医師が、ここにいる。


 この診療所で扱うのは、治療だけだ。


 それでも、

 人の生き方を守ることはある。

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