第七話 判断は、すでに終わっている

 朝の診療所は、いつもより遅く始まった。


 遅れた理由は特別なものではない。患者がいなかっただけだ。村では昨日から雨が続き、外に出る者が少ない。夜明け前に火を起こし、湯を沸かし、包帯を切り揃えたあと、レオンはしばらく椅子に腰を下ろして待っていた。


 診療台は空いている。


 治療は、もう終わっている。


 扉の外で足音が止まった。村人の歩幅ではない。数が多い。ためらいがない。役目として来ている音だった。


 ノックは三度。


 形式通りだ。


「失礼する」


 扉が開き、男が一人、深く頭を下げた。背後には兵が三人。武装は抑えられているが、王都の匂いは隠せない。


「英雄専門最高判断医様」


 正式名称だった。長い肩書きを、噛まずに言い切る。事前に何度も練習してきた声音だ。


「評議院および王都医務局を代表し、話を伺いに来ました」


「どうぞ」


 レオンは椅子から立たなかった。促しもしない。ただ、話す場を開けただけだ。


 男は一歩進み、距離を測るように立ち止まる。診療台を一度見たが、何も言わない。そこに患者はいない。結果は、もう知っている。


「昨日の件ですが」


「終わっています」


 先に区切ったのはレオンだった。


 男は一瞬、言葉を失ったが、すぐに立て直す。


「承知しています。治療結果についての再確認ではありません」


「では、何ですか」


「再配置です」


 言い切った。


「当該英雄は、国家管理下に戻すべきだと判断されました。身体的な問題は解消され、再発の兆候も見られない。前線復帰は想定していませんが――」


 レオンは手を上げない。遮らない。ただ、視線を外した。


「その話は、ここでは扱いません」


 男の眉がわずかに動く。


「判断医殿」


 呼び方が変わった。実務に入った合図だ。


「これは交渉ではありません。決定事項です」


「そうですか」


 肯定でも否定でもない返答だった。


「英雄は国家資産です。本人の意思に関わらず、管理対象となります」


「治っています」


 レオンは事実だけを置いた。


「ええ。だからこそ――」


「治っている以上、管理の前提が成立していません」


 男は息を止めた。


「判断医殿、それは制度の解釈として――」


「制度の解釈は、あなたの担当です」


 責任を返しただけだった。


「私は、判断を担当します」


 男は書類を出そうとして、やめた。紙を出せば、ここからは記録の話になる。だが、この場では、すでに遅い。


「国家命令です」


 最大のカードだった。


 兵の背筋が伸びる。空気が硬くなる。圧をかける準備が整う。


 レオンは、首をかしげた。


「その命令には、条件が不足しています」


「……何が」


「生存を優先する判断が含まれていません」


 声は低い。説明でも説得でもない。


「治療は終わっています。本人は歩ける。生活が可能です」


「それは確認しています」


「では、何を管理するのですか」


 男は答えられなかった。


 英雄。資産。配置。再編。


 どれも、役割の言葉だ。


「判断医殿」


 男は、再び正式名称に戻そうとして、やめた。


「あなたが拒否するなら、責任問題になります」


「拒否していません」


「では、受け入れるのか」


「判断は、終わっています」


 繰り返した。


 男はようやく理解する。


 ここにあるのは、是非ではない。可否でもない。すでに終わった判断の残骸だ。


「……戦場復帰は」


「決めていません」


 短い。


 だが、それ以上は出ない。


「国家としては――」


「国家の判断は、国家で行ってください」


 突き放しでも拒絶でもない。ただ、管轄を戻しただけだ。


「この件に、これ以上の判断は要りません」


 沈黙が落ちる。


 兵の一人が、視線を逸らした。負けを悟ったわけではない。ただ、ここでは何もできないと理解しただけだ。


「……英雄専門最高判断医様」


 男は最後にそう呼んだ。


 それは敬意ではなかった。敗北でもない。処理完了の合図に近い。


「本件は、持ち帰ります」


「どうぞ」


 男たちは去った。扉が閉まり、足音が遠ざかる。


 診療所に、元の静けさが戻る。


 しばらくして、村の女が顔を出した。


「先生……終わりました?」


「ええ」


「じゃあ、お昼」


 弁当包みを差し出す。


「冷めますよ」


「ありがとうございます」


 受け取る。


 それだけで十分だった。


 役割は、ここでは決まらない。


 判断は、すでに終わっている。


 レオンは椅子に座り、包みを開いた。

 外では雨が、静かに降り続いていた。

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