第二話 教えない剣
診療所の前で、子どもたちが騒いでいた。
「ほら、もっと腰を落とせ」
「逃げる時は、後ろを見るな」
声の主は、昨日の旅人だった。
男は剣を持っていない。
木の棒を地面に立て、子どもたちに向かって立っているだけだ。
「先生、あの人……」
診療所の窓から様子を見ていた村の女が、声を潜めた。
「剣を教えてるの?」
「……そう見えますね」
レオンはそれだけ答えた。
外では、子どもたちが列になって動いている。構えと呼ぶには頼りなく、遊びと言うには真剣だ。男は一人ひとりの足元を見て、短く声をかけていた。
「前に出るな」
「横に逃げろ」
「地面を見ろ。転ぶ」
剣を振らせてはいない。
打ち合いも、競わせてもいない。
あるのは、倒れないための動きだけだ。
一人の子どもが足をもつれさせ、前に倒れかけた。男はすぐに腕を伸ばし、背中を支える。
「無理をするな」
叱る声ではない。
褒める声でもない。
子どもは照れたように笑い、列に戻った。
診療所の中で、レオンは机に向かった。帳面は開いているが、筆は取らない。外の声が、断続的に届いてくる。
「旅の人なんですよね」
薬を取りに来た女が言った。
「ええ」
「剣士だったって……」
「そうですか」
女はそれ以上、言わなかった。
昼が近づくにつれ、子どもたちの数は増えた。
この村に、学校というものはない。用事がなければ、時間は余る。誰かが何かをしていれば、自然と集まってくる。
「剣は使わないの?」
子どもの一人が聞いた。
「使わない」
男は即座に答えた。
「なんで?」
男は少し考え、木の棒を地面に立てる。
「折れるからだ」
子どもたちは顔を見合わせる。
「木の棒なら、折れても困らない」
「剣は?」
「折れたら、終わりだ」
それ以上の説明はなかった。
男は木の棒を軽く指で弾く。棒は簡単に倒れた。
「これくらいだ」
強さを誇る様子はない。
子どもたちは納得したわけではない。ただ、反論もしなかった。男の立ち方を見ていた。
「ほんとに、強いの?」
子どもの一人が、ぽつりとつぶやいた。
男は何も言わなかった。
ただ、一本だけ太めの木の枝を拾い上げ、足元の小石を一歩蹴るように動く。
そして、そのまま、木立の中の一本の細い木に向かって棒を振った。
音は、しなかった。
だが、次の瞬間、木の幹がゆっくりと傾き、倒れた。
根元には、斜めに抉られた跡が残っていた。
子どもたちは声を上げなかった。
何も言えなかった。
倒れた木を見つめたまま、全員が立ち尽くしていた。
「これくらいだ」
男はそう言い、棒をそのまま地面に戻した。
子どもたちは、何も言わずに列に戻った。
遊びではないと、ようやく分かった顔だった。
「逃げる時は、声を出すな」
男はそう言ってから、少し間を置いた。
「……いや、出してもいい」
子どもたちが顔を上げる。
「助けを呼ぶ時だけだ」
誰も笑わなかった。
昼を過ぎると、子どもたちは家に戻っていった。壁には数本の木の棒が立てかけられたまま残る。
男はそれをまとめ、地面を掃いた。
診療所の扉が開き、男が中に入ってきた。汗を拭い、帽子を手にしている。
「邪魔していませんか」
「いいえ」
「子どもたちが、集まってきまして」
言い訳とも、報告とも取れる言い方だった。
「剣は、教えていません」
「見ていました」
それで十分だった。
男は診療台に座らず、壁際に立ったまま続ける。
「依頼の件ですが……」
「はい」
「断りました」
短い言葉だった。
「理由は、聞かれませんでしたか」
「聞かれました」
「どう答えました」
男は少し考える。
「……剣を持てない、と」
「それだけで?」
「それだけです」
それ以上、言わなかった。
「剣を持てるなら、役に立つと」
過去形だった。
「持てなければ?」
「……いないのと同じだと」
言い切ったあと、男は息を吐いた。
「先生は、役割を決めませんでしたね」
「決めていません」
男は視線を落とす。
「それが……」
言葉が続かなかった。
「助かりました」
男は、そう言ってから困ったように笑った。
「剣を持てるかどうかで、自分の場所が決まると思っていました」
レオンは答えない。
「ここにいていい理由を……探していたのかもしれません」
それも断定ではなかった。
「子どもたちに、剣を教えるつもりはありません」
「分かっています」
「……逃げ方を教えています」
確認するような口調だった。
「役に立たないかもしれません」
「役に立つかどうかは、こちらでは決めません」
男は、ゆっくりうなずいた。
午後になり、診療所の前は静かになった。子どもたちは戻らず、木の棒だけが壁に残っている。
一本、二本。
どれも剣にはならない。
村の男が一人、診療所の前で足を止めた。
「……剣は振らせないんですね」
「振らせません」
男はそれだけ答えた。
「昔は、剣を振れる人が来ると、みんな集まったものですが」
「昔は、そうだったでしょうね」
それ以上、会話は続かなかった。
村の男は何か言いかけ、結局、黙って立ち去った。
夕方が近づき、影が長くなる。
男は再び外に出て、木の棒を回収し始めた。その背中を、レオンは窓越しに見ていた。
「また、明日も来るの?」
通りがかった子どもが聞く。
「必要なら」
昨日と同じ答えだった。
診療所の中で、レオンは帳面を閉じた。
まだ終わっていない。
誰の役割も、ここでは決まっていない。
男は木の棒をまとめ、壁に立てかける。その動きに、剣を扱う癖は残っていなかった。
日が傾く。
診療所の灯りが落ちる。
男は一度だけ振り返り、何も言わずに歩き出した。
剣を持たない背中は、特別なものには見えない。
ただ、そこにある。
レオンは扉を閉め、鍵を確かめる。
この場所では、
役割はまだ、流れている。
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