引退した宮廷医、田舎で診療所を開いたら患者が英雄級でした
@hayanedhi
第一話 戻れなくなった人間
戦場から戻ったあと、握力が落ちた。
剣が滑った。
最初は疲れだと思った。
誰もがそう言った。
歩きすぎだ、気温のせいだ、寝れば戻る。
戻らなかった。
翌日、握る角度を変えた。
次の日、踏み込みを浅くした。
その次の日、振り切らずに止めた。
止めた剣は、当たらない。
当たらない剣は、仲間を守れない。
男は笑った。
「問題ない」と言った。
言えば軽くなると思っていた。
軽くならなかった。
戦場では、遅れは致命になる。
腕が遅れ、足が遅れ、その一拍で仲間が傷ついた。
男は自分の動きを削った。
削れば壊れない。
壊れなければ生きられる。
そう信じて削った。
医師に見せた。
治癒魔法を受けた。
少し良くなる。
動く。
数日後、戻る。
別の医師にも見せた。
また動く。
また戻る。
「神経の癖だ」
「焦るな」
「すぐには戻らないが、悪化もしない」
何度も言われた。
どの言葉も、誰もが言っていた。
男は、それを繰り返し信じた。
そのたびに、同じ動きが、同じように戻らなかった。
握れないものを、握れるようにする努力はした。
筋を伸ばした。呼吸を変えた。負担を減らす構えも覚えた。
無理をしない技術が、身体に染みついた。
だがそれは、
剣の動きではなく、
剣を「避ける」動きだった。
一年目の終わり、
男は剣を振るふりだけをするようになった。
前に出ると、仲間が先に動いた。
振りが遅いと、味方が巻き込まれた。
巻き込むくらいなら、出ない方がいい。
臆病じゃない。判断だ。
そう信じた。そう言い聞かせた。
夜に一人で確認するたび、
その“判断”が間違いだった気がして、眠れなかった。
二年目、役割が変わった。
前ではなく後ろ。
攻めではなく、補助。
任される範囲が狭くなった。
責められなかった。
むしろ気遣われた。
気遣いはやさしさではなかった。
“そこまでの人”として扱われることだった。
男は王都へ行った。
医師が増えた。
検査が増えた。
言葉が増えた。
言葉は丁寧だった。
だからこそ絶望が遅れた。
「完全には難しい」
「剣の操作に必要な感覚は、回復が不確実です」
「戦列からは一度下りたほうが、回復の見込みが上がります」
役割を変えろと言われた。
それは回復のためでもあり、方便でもあった。
三年目。
男は剣を置いた。
置いたのではない。
握れないことを、認めた。
認めた瞬間、周囲の空気が変わった。
「教える側に」
「護衛任務なら」
「後方支援で必要とされている」
言葉はやさしかった。
けれど、男は“誰にも必要とされていない”ことを、
一番自分でわかっていた。
夜、握ろうとしても指が閉じなかった。
閉じようとすれば震えた。
震える指を、何度も叩いた。
誰にも見られない場所で、悔しさに声が出た。
それでも、治癒魔法を受け続けた。
一度でいい、反応が変わってくれと願った。
反応は変わらなかった。
むしろ、なにか“固まっていく”感じがあった。
何者でもなくなった。
誰の役にも立てず、名を持たず、
ただ、痛みも苦しみも、
“誰にも伝わらないもの”になっていた。
噂を聞いたのは、そのあとだった。
英雄医と呼ばれた男が、かつて王都にいた。
だが、もういない。
なぜいないのか、誰も知らない。
治す医師ではない。
戻す医師だ――と。
どこかの兵が言っていた。
確かではなかった。
言い方も曖昧だった。
信じなかった。
信じると、壊れる。
だが、それでも心に残った。
正確には、希望ではなく、判断として残った。
治るかどうかではない。
剣を持てるかどうかでもない。
まだ、自分が“立てる場所”が残っているのか。
それを確かめに行く。
男は剣を持たなかった。
治ることを前提に歩くのは、敗北だと思った。
そして村へ。
診療所の前に立ち、扉の前で止まった。
開ければ、期待になる。
期待は裏切られれば壊れる。
男は、一度目の呼吸を途中で止めた。
それでも――開けた。
診療所の昼は静かだった。
レオンは帳面を閉じ、棚に戻していた。
「次の方、どうぞ」
返事はなかった。
だが、気配はあった。
扉の向こうに、明確な意思が立っていた。
数秒後、扉が開いた。
男が一人、立っていた。
旅装は古い。
装備はない。
ただ、身体だけが整っていた。
整っているというより、整え続けてきた動きだった。
乱れたら倒れる。倒れたら終わる。
そういう世界にいた身体だ。
「診てもらえると聞いて来ました」
「座ってください」
椅子に腰を下ろすとき、背中のどこかが遅れる。
癖だった。三年間で身についた誤差だった。
「症状を」
「背中から腕にかけて。力が抜けて、戻らない。握っても、離すのが遅れる」
「いつからですか」
「三年」
レオンは背後に回り、手を当てる。
指先に、違和感。
治癒魔法の残滓。
ひとつではない。幾層にも重なり、慎重に、丁寧に、だが、絡みついている。
「相当、診られていますね」
「王都でも。前の隊でも」
その言葉に、レオンの手が一瞬だけ止まった。
王都。
その語だけが、診療所に残った。
レオンは何も言わなかった。
再び手が動く。
魔力を流さない。足さない。
ただ、ほどく。
男の背中の熱が、少しずつ均されていく。
呼吸が変わる。
深くなる。
重さが落ちていく。
そして、
「立ってください」
男は無意識に立ち上がった。
…違う。
立ち方が、違う。
いつも補助に使っていた腕が、いらない。
中心が、自分の中にある。
浮かない。傾かない。
「手を」
拳を握る。
閉じる。
遅れない。
開く。
まったく遅れない。
「……あれ」
言葉が漏れる。
息が入る。
入ってしまう。
痛みが来ない。
「振れます」
言うつもりのなかった言葉が、勝手に出た。
男は、腕を振った。
空を切る。
狭い診療所の中で、
抑えきれずに振ってしまった。
振った腕が戻る。
戻っても、遅れない。
震えが来る。
身体が、追いついていない。
「三年……何人も……王都でも……」
言葉が崩れた。
指が震える。
呼吸が暴れる。
嬉しい。
怖い。
信じたくない。
でも、確かに動いている。
レオンは片付けを終え、ただ言った。
「治っています」
男は、目を見開いた。
涙ではなかった。
涙の前に来る、言葉の喪失だった。
「なぜ……あなたは、王都を――」
レオンは顔を上げた。
男は、それ以上言えなかった。
崩れたくない。
これ以上、何かを知ってしまったら、戻れなくなる気がした。
「……分かりました」
男は診療所を出た。
空気が違っていた。
匂いが違うのではない。
呼吸が変わっていた。
握って、開いた。
その動きが遅れなかったことに、また驚く。
振り返らなかった。
治った身体は、もう戻らない。
戻らないという事実だけが、男の背中を支えていた。
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