【カクヨムコン11短編】私と私と、あなたと、増田

浅羽ゆづき

私と私と、あなたと、増田


 鏡の中の私は、完璧な笑みでこちらを見返している。

 「彼女」としての装備を身につけ、ピルケースに手を伸ばす。


 黄色のカプセルを口に含み、天を仰ぐ。

 奥歯で噛み砕くと、苦味が舌を刺し、ゆっくりと喉を落ちていく。


 これは儀式だ。

 私が私でいるための。


 ――いざ、出勤。



 駅前は人で溢れていた。

 皆、手元のスマホに視線を落としている。

 私もそうする。


 キャスト専用ページを開く。

 『レンタル彼女:マイカノ』の表示の下に『藤乃とうのまりん』の文字。


 名前:モブ太郎

 年齢:二十四歳

 希望プラン:一時間/カフェ

 備考:初めて利用します。


 初回。年齢は同じ。話題のチューニングは難しくなさそう。


 事務所の増田ますださんが「まりんちゃんは顔面強いから、人気出ると思うよ」と言っていた。


 実際、依頼は途切れていない。


 時間までまだある。

 私は街路樹の影に身を隠した。


 レンタル彼女。

 時間制で偽りの恋人を演じる仕事。

 手を繋ぐ、腕を組む以上のスキンシップはNG。

 それ以上を求められたら事務所に連絡を、と増田さんが言っていた。


 改札に「彼氏」らしい人影が見えた。事前に共有されていた全身写真と照合する。

 古いSF映画のポスターがプリントされた黒いTシャツ。


 間違いない。

 本日のご依頼者「モブ太郎」様だ。


 改札を出た彼は、落ち着かない様子であたりを見回し、やがて、スマホに視線を落とした。



 待ち合わせの駅に着き、僕は改めてその写真を眺める。


 『藤乃とうのまりん』


 ブラック労働で息が詰まる日々の中、彼女を見つけたときに僕は生きる喜びを取り戻したように感じた。


 また会えるかもしれない。

 友達に戻れるかもしれない。


 佐藤さとうかなえ。


 中学の頃、ほんの短い間、楽しい時間を一緒に過ごした女の子。

 

 彼女は藤乃まりんではない。

 かなえだ。


 「これさ、昨日観たんだけど、まじやばかった」


 彼女の声が、ふいに蘇る。

 中学三年の夏。

 ホームルーム前の短い休み時間。

 僕の机に置かれた下敷き、そこに描かれた古いSF映画のポスターを指して、彼女は言った。


 「眠くなるみたいなレビューやたらと多いけどドコが?って感じ。マジ狂ってる天才」


 かなえは、クラスの中心にいる女子だった。

 男女分け隔てなく接して、ふざけるときは派手にふざける。


 そんな彼女が、映画について熱く語りながら僕に話しかけている。

 言葉を発することすら億劫になっていた僕は、正直、話すのが怖かった。


 けれど。


 「激しく同意! あの物体の強烈な異物感とか、AIの冷たい眼差しとかすごい緊張感あって」


 気づいたら口が動いていた。


 「そうそう、唇の動きを読んで盗み聞きするところとかね、マジ怖い」


 会話が続いた。


 楽しい。楽しすぎる。

 この日のために今日まで生きてきたのかと思えるほどに楽しい。


 それから、かなえとよく話すようになった。

 映画という共通言語を手に入れた僕たちは、他の誰も入り込めない空気をまとっていた。


 でも。

 

 「こんにちは、モブ太郎さんですか?」


 あの頃と同じ声が鼓膜を震わせ、現実に引き戻される。

 顔を上げると、そこに、かなえがいた。



 声をかけると、彼は一瞬肩を揺らし顔を上げた。


 「あ、はい、そうです」


 「良かった~、マイカノの藤乃まりんです。今日はよろしくお願いします」


 ほっと安心した素振りと優しげな笑みをたたえるのを意識して会釈する。


 「あ、よろしくお願いします」


 声量は控えめ。きちんと言葉を選んでいる。

 初対面で固くなるタイプ。


 「この時間帯、駅前ちょっと混むんですよね。待ち合わせ、見つけにくくなっちゃうことも多くて」


 軽く笑いながら言う。


 「今日はこれからカフェでよかったですよね」


 目的のカフェは駅の目の前。


 「早速、行っちゃいましょうか。後から並ぶと時間もったいないし」


 「……はい、お願いします」


 一時間、六千円のデートが始まった。



 日曜の午後、店内は人で溢れていた。


 彼女はアイスラテを注文し、僕も同じものを頼んだ。

 メニューの写真に目が止まり、パンケーキを頼むか迷っていると、


 「それ美味しいらしいよ? 頼む?」


 僕の心を読んだかのように彼女が軽く促す。


 店員は「焼き上がりまで二十分ほどお時間いただきますが」と言ったが、今更頼まないのも気まずくて「大丈夫です」と答えてしまう。


 向かいに座る彼女は姿勢がいい。

 背筋が伸び、動きに無駄がない。

 エレガントで、とても、仕事の匂いがする。


 「緊張、してる?」


 「え、あ、はい。してます」


 緊張している。

 彼女は、かなえなのか?


 会えばすぐに打ち解けると思っていた。

 僕のことを覚えていて、少し照れながら話しかけてくれて。


 そんな再会を、勝手に期待していた。


 「初めてって書いてありましたもんね」


 「あ、はい」


 話してみるほど、記憶の中のかなえと重ならない。

 初対面のテンプレみたいな言葉が、淡々と積み重なっていく。


 「モブ太郎って本名ですか?」


 「あ、え?」


 「呼び方、どうしようって思って」


 モブ太郎。


 このふざけた名前にしたのも、彼女に気づいて欲しかったからだ。

 でも、気づいてもらえないどころか、何の躊躇いも無く触れてきた。

 覚えていないのか。

 それとも別人なのか。

 一時間で、答えは出るのだろうか。


 モブ太郎。


 かなえを思い出すと同時に呼び起こされる苦々しい僕のあだ名。



 モブ太郎は黙り込んだままだった。


 名前の話は、触れないほうが良かったのかもしれない。

 なぜ触れてほしくない名前で登録しているのかは分からないが。


 増田さんには「まずは呼び名を決めるのが定石だね」と言われていた。

 だが、鉄板にも外れはあるらしい。


 二人分のアイスラテが運ばれてくる。

 モブ太郎は店員に小さく会釈した。


 私はストローに口をつけたまま、反応を待つ。


 「呼び方は、何でもいいです」


 「そっか。じゃあ」


 考えるふり。


 呼び名はいくつかパターンがある。

 脳の揺らぎが、その中から一つを引き当てる。


 「モブたん、でどう?」


 「え?」


 「馴れ馴れしい?」


 「あ、いえ、それで、大丈夫です」


 頬を赤らめて視線を落とすモブたん。


 「じゃあ、私のことは“まりりん”で」


 「……まりりん?」


 「うん、まりりん」


 モブたんは、話す前に必ず一拍置く。

 言葉を出すのに、意を決する必要があるのかもしれない。


 「モブたん、普段は何してるの?」


 「SEです。……システムエンジニア」


 「へえ。てかさ、敬語やめよ。私、彼女なんだし」


 「……わかった」


 モブたんは頷く。


 「それで、仕事はどう?」


 「大変」


 「だよね」


 モブたんはストローを見つめたまま、また黙り込んだ。



 まりりん――。


 違和感しかない。

 目の前にいるのは、どう見ても、かなえなのに。


 「ごめんね。仕事の話、嫌だった?」


 かなえの顔をした彼女が、申し訳なさそうに言う。

 僕は首を小さく横に振る。


 違う。

 仕事の話はしたい。

 僕の話を聞いてくれる人なんていなかったから。


 「……炎上してた案件を引き継いだんだけど」


 言葉がほどけていく。そこからは止まらなかった。


 前任者が辞めていたこと。

 その人が新人なのに三年目と偽っていたこと。

 引き継いだものが、何一つ使い物にならなかったこと。


 「残業も休出も当たり前で。先輩も頼れなくて、ほとんど一人で実装して」


 息をつく。


 「先週、ようやく解放されたんだけど、今まで休みもなかったし、何しようって考えて」


 ストロー越しに、かなえが見える。


 「それで……レンタル彼女って、本当にあるのかなって思って」


 癒されたかった。

 一人でいる時間が限界だった。


 レンタル彼女。


 頼るのは、何かに負ける気がして嫌だった。

 でも、かなえを見つけた。

 会いたかった。

 中学の、ほんの一瞬。

 あの、確かにあった幸福を取り戻したくて。


 気がつくと、彼女が僕の手を握っていた。


 冷たくて、柔らかい手。



 「大変だったね。辛かったね。本当に頑張ったよ。話してくれてありがとう」


 受容。傾聴。共感的理解。

 カウンセリングの基本。


 「ごめん。愚痴ってた」


 「いいよいいよ。愚痴は心の排水。ちゃんと流さなきゃ」


 鼻をすするモブたん。

 今回のデートも高評価は固い。

 彼は一度、息を整えてから顔を上げた。


 「まりりんは、休みの日は何してるの?」


 ありがちな質問。

 私は無難な答えをいくつか並べる。


 映画。

 カフェ巡り。

 たまにジム。


 モブたんは相槌を打ちながら、少しずつ表情を緩めていく。


 手首のスマートウォッチに視線を落とす。

 時刻の下に、増田さんからの着信が表示されていた。

 残り時間も少ない。


 そこへ、パンケーキが運ばれてきた。

 甘い匂い。

 写真を撮り、彼女らしさを演出する。


 「冷めないうちに食べよ」


 ナイフとフォークを手に持った、そのとき。

 食べるより先に、彼の声が落ちてきた。



 「……かなえ」


 喉の奥にとどまっていた名前が、ふいに零れた。


 言ってしまった。

 言葉はもう戻らない。


 彼女は、ぴたりと動きを止めた。

 こちらを見るその目の奥で、何かが高速で組み替えられていくのを感じる。


 数秒。


 「あなたは誰」


 声が変わった。

 柔らかく整えられていた接客用のトーンが、きれいに剥がれ落ちる。


 「どうして、かなえを知っているの」


 警戒。


 「いや、その……中学が同じで」


 言い切る前に、彼女は椅子を引いた。

 動きが早すぎて、テーブルの上のグラスが小さく鳴る。


 「ごめん。今日はここまで」


 「え」


 「パンケーキ、全部食べていいよ。私は帰る」


 彼女は僕を見ていなかった。


 「ちょっと待って、僕は」


 「来ないで」


 その一言で完全に線が引かれた。


 彼女は隣の椅子に置かれた小ぶりな革のバッグを掴み、店の出口へ向かう。

 取り残された空気だけがテーブルに残る。


 椅子の下で乾いた音がした。

 覗き込むと、透明なケースが転がっている。

 中には黄色いカプセルがいくつか。


 慌てて拾い上げ、出口に向かって叫ぶ。


 「これ! これ落ちて――」


 声は届かない。

 彼女の背中は人混みに紛れて消えた。


 僕は手の中のケースを見つめる。


 たぶん無いと困るよね。


 僕は、店を飛び出した。



 「ね、これ似てない?」


 男女混合のグループがスマホの画面と僕を見比べて笑っている。


 「似てる似てる! めっちゃ似てるこのモブ感」


 「ちょ、こっち向いて、ね! 聞こえてるでしょ、モブ太郎」


 学校で日常的に発生する「いじり」という娯楽。


 「モブ太郎、覚えやすくていいじゃん」


 たぶんゲームのキャラか何かだ。

 そう思った瞬間、僕は視線を机に落とした。


 「無視かよ」


 舌打ちが聞こえてくる。

 けれど、反応しない。

 それが一番早く終わる。


 「そういうのやめなよ、嫌がってんじゃん」


 かなえの声だ。

 胸の奥が熱くなる。

 嬉しい。

 嬉しいけれど、ダメだ。反応したら。


 「えー、かなえどうしたの急に」


 かなえのことを嫌っている女子が笑いながら言う。

 僕はモブだから、背景だから、僕の近くで皆気にせず陰口をたたく。

 だから知っている。

 かなえがクラスで浮き始めていることを。


 「ちょ、かなえっちも見てこれ、このモブキャラ、ちょ〜似てるから」


 空気を読まない男子がかなえに絡みにいく。

 くすくすと笑い声が広がる。


 僕はただ教室の隅を見つめていた。


 「親しみを込めて呼んでるだけだよ、ね、モブ太郎」

 

 ――ガタッ。

 

 大きな音がして思わず振り向く。

 かなえが立ち上がっていた。


 僕の方を見ている。目が合う。


 「お前も、黙ってないで何か言い返せよ!」


 かなえの声が反響する。

 教室の空気が一瞬で凍りつく。


 「……え」


 誰かが小さく息を漏らす。


 「ちょっと……かなえ」


 「冗談じゃん、マジにならないでよ、みんなビビってんじゃん」


 さっきまで笑っていた声が困った調子に変わる。


 かなえは空気を壊す人じゃなかった。

 いつも中心にいて、笑って、場を回す側だった。


 かなえは黙って僕を見ている。


 責めているのか。

 訴えているのか。

 それとも、助けを求めているのか。


 僕は、目を逸らした。

 かなえから、この場から、もしかしたら何かを変えられたかもしれない、この瞬間から。


 その日から、かなえは中心から外れていった。

 輪から少し離れた場所に居て、彼女が笑っても周りは笑わなくなった。


 田舎の中学。狭い社会。

 きっかけは小さくても、舵取りを間違えば居場所は簡単に無くなる。

 

 僕はモブ太郎としていじられるようになり、僕とかなえは話さなくなった。


 そして、僕は今もモブ太郎のままだ。



 わたしはまりん、わたしはまりん。


 わたしはまりんであり続けたい。


 足が地面を掴まない。

 歩いているのにどこにも接地していない感覚。

 夢の中で走っている時と同じだ。


 わたしは、今、どっち?


 「かなえ」


 彼の声が、まだ耳に残っている。


 胸の奥が強く引き裂かれ、思考が細切れになる。

 滲み出てくる、かなえの記憶。

 まりんであろうとする意識とそれは、輪郭がズレて重なり、定まらない。


 「……薬」


 バッグに手を突っ込む。

 指先が空を掴む。


 無い。


 一瞬、理解できない。

 もう一度探る。

 無い。


 落とした?


 どこで?

 いつ?


 あれが無いと、わたしがわたしでいられなくなる。


 まりんでいられなくなる。


 「まりんちゃん?」


 この声。

 増田だ。


 「どうしたの? 顔色、やばいよ」


 低い声。


 「大丈夫です」


 自分の声が、ひどく遠い。


 「大丈夫には見えないなあ」


 一歩、距離を詰めてくる。

 腰に手が回る。

 支えるふりをした、拘束。


 「送ろっか。話もあるし、車、ちょうどそこ」


 「いえ……結構です」


 人通りの少ない路地に黒塗りのセダンが停めてある。

 後部座席のドアが開く。


 増田が耳元で囁く。


 「ちょっと緊急で、上の人に呼び出されちゃって、ね? 丁度良かったよ、いつも通りよろしく」


 頭の中で警報が鳴る。


 腕を振りほどこうにも、がっちり掴まれて動けない。

 後部座席に押し込まれそうになった、そのとき。


 「かなえ!」


 声が飛んだ。

 増田の動きが止まる。


 モブ太郎が、増田の腕にしがみついていた。



 考えるより先に身体が動いていた。


 デカくて、見るからにヤバそうな男。

 普段の僕なら、絶対に関わろうとしない男。


 「かなえから離れろよ!」


 しがみついた腕はすぐに振り解かれ、返す手で顔面を殴られた。


 たった一発で、僕の鼻は曲がり、前歯が折れる。


 「誰お前?」


 胸ぐらを掴まれる。

 そのまま服を裂かれ、プリントされた映画のポスターが真っ二つになる。

 錆びた鉄の味が口の中に広がっていく。


 痛い。

 怖い。

 殺される。

 その前に。


 「かなえ! これ!」


 割れる声で叫ぶ。


 僕は握りしめていた透明のケースを、かなえに向かって投げた。



 私は、佐藤かなえ。


 昔から、映画館の暗がりだけが息のできる場所だった。

 スクリーンを見上げている間、私は誰にでもなれる気がした。


 家では「お前のためだ」と稽古を押し付けられた。


 外では「美人は得だよね」と容姿の話ばかりされた。


 どこにいても、勝手に期待され、勝手に幻滅される。


 理由はいつも私だった。


 おのずと、感情を切り離す癖がついた。

 スクリーンの中の女優たちのように。

 カットがかかれば役を脱ぎ捨てられる。

 私はその頃から「もう一人の私」を演じ始めた。


 東京に出て、ベンチャー勤めのエンジニアと付き合った。

 彼の部屋に転がり込み、「社会人」という役を隣でなぞった。


 未経験歓迎の会社に入社すると、すぐに取引先へ派遣された。

 新人なのに三年目という設定。

 若くて、美しい女性社員。

 仕事ができなくてもいい、座っていればいい。

 そう言われた。


 数日で、何もできない私に苛立ちが向けられた。

 質問すれば「そんなこともわかんないの?」と笑われ。

 分からないまま進めれば「勝手なことをするな」と怒鳴られた。


 仕事を辞めて、男とも別れた。

 昼と夜の区別がなくなり、スマホを見る時間だけが増えた。


 気晴らしに入ったバーで増田に声をかけられた。

 胡散臭そうな男だったのに、その時は、ただ居場所が欲しかった。


 レンタル彼女。


 私はそこで「藤乃まりん」になった。

 求められた役を完璧に演じる、もう一人の私。

 まりんでいるときの方が、息がしやすかった。

 もう、ずっと、これでいい。

 気づいた時には、佐藤かなえは、ほとんど残っていなかった。


 「かなえ!」


 名前を呼んでくれたあなたは、私の人生の一部分だけを切り取って綺麗なものにしている。

 あなたの中で組み替えた『かなえ』を見て、勝手に期待している。

 やめてよその視線。もう、ウンザリだよ。


 でも、気づいてしまった。

 呼ばれて、振り向いてしまった。

 何も感じない、何も言わない彼女。

 まりんは、増田にとって都合が良すぎる。

 まりんのままでいたら、私は、もっと酷いことになる。


 足元に転がる薬のケース。

 私はそれに手を伸ばさない。


 私は、佐藤かなえだ。



 増田が、ぐったりしている彼の頭を掴み、ラグビーボールでも投げるように地面に叩きつけた。


 彼は倒れたまま動かなくなった。


 「チッ、シミできちゃったじゃねえか。客のしつけちゃんとしときなよ、まりんちゃん」


 視線が向けられる。


 「救急車を呼びます」


 「大げさだよ、大丈夫だよ」


 そう言いながら私の正面に立つ。

 私は増田を無視して倒れている彼の近くに跪く。


 死んでない。早く助けないと。


 肩を掴まれ、強引に引き上げられる。


 痛いな。


 「シカトすんなよまりんちゃん」


 鳩尾に拳が突き上げられる。

 息が止まる。視界が明滅し音が遠のく。


 「顔は傷つけないでやるよ」


 瞬間、私の身体に刻まれた記憶が呼び起こされる。


 畳の匂い。朝の冷たい空気。父の声。

 立て、倒れるな。

 動きを身体が覚えていく。

 感情を殺す能力が芽生える。


 私は倒れない。


 胃酸が上ってくる。それを口に含む。

 私の髪の毛を掴んで覗き込んでくる増田。

 視界いっぱいに歪んだ顔。


 ベスポジじゃん。


 胃酸混じりの唾液をその顔面に勢いよく吹きかける。


 「ナハッ」


 変な声を上げて顔を背ける増田。


 私は即座に一歩踏み込み股間を思いっきり蹴り上げる。前屈みによろめく増田を視界に収めつつ、バッグの中から鍵の束を取り出し握りしめる。指の隙間から飛び出させた鍵をウルヴァリンよろしく突き立てるパンチ。増田の頬が裂け血が舞う。


 「クソが、このアマあ!」


 傷ついたプライドをエンジンに再び襲いかかってくる。私は反射的に身体を傾ける。逆上に塗れた拳は空を切る。前のめりになった増田の足元を払うと、その身体は支えを失い地面に叩きつけられる。倒れた増田の股間を躊躇なく踏み潰す。


 声にならない声をあげ、アスファルトの上で悶える。


 手が痛い。指が折れたかもしれない。

 でも止まらない。

 骨の一本ぐらいどうってことない。


 “I'm singing in the rain.”


 頭の中で歌を唄う。


 “Just singing in the rain.”


 歌に合わせて蹴る。


 「――ッグギヤァ」


 汚い鳴き声を合いの手に増田の股間がびしょ濡れになる。


 まだ足りない。


 女である私はどうしたって威嚇の効果が弱い。

 相手の戦意を奪うためには徹底的にやるしかない。


 目を潰そう。


 鍵を一本握りしめ、その横で身を屈める。

 目を見る。恐怖の色が浮かんでいる。

 頭を押さえつける。


 ――そして。


 「かなえ!」


 血まみれになった彼がこちらを見ていた。


 「警察、警察呼んだから! もう大丈夫だから!」


 私は増田を見下ろし、再び彼を見つめ返した。


 救急車の方が良いかも。



 回転灯の赤い光が、地面を染めては消える。

 私は歩道の縁石に腰を下ろし、アスファルトに落ちた血をぼんやりと眺めていた。


 現場周辺の防犯カメラには一部始終が映っていた。私が弁解するまでもなく、そこには期待も評価も無い、事実だけの視線があった。

 後から聞いた話では、増田は以前から複数の界隈でトラブルを重ねており、警察も把握していたらしい。


 少し離れたところで、彼が担架に乗せられている。

 腫れた顔のまま、こちらを探すように、何度も視線を彷徨わせている。


 立ち上がろうとしたとき、制服の警官が書類を差し出した。渡されたボールペンを握ると、まだ指先が震えている。


 私はそこに、自分の名前を書き込んだ。


 ――佐藤かなえ。



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 KANAE Action Lab

 【緊急】登録者数1万人ありがとう生配信


 『ホテルの管理人 VS 殺人ピエロ』

 (監督・脚本・主演:佐藤かなえ)

 感謝を込めて同時視聴します!

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 通知に気づき、急いで配信サイトを開く。

 画面の向こうで、かなえが楽しそうに自分の演技を実況していた。


 二十分弱の、かなえの自主制作映画。

 撮影も編集もプロを雇ったらしい。


 整った顔立ちからは想像できないキレのあるアクションと元レンタル彼女という経歴。


 そのギャップが刺さり、SNSで静かにファンを増やしていた。


 【¥5,000】

 《モブ太郎:ご祝儀です》


 少しだけ迷ってから送信する。


 「モブ太郎さん! いつもありがとう〜!」


 ディスプレイ越しに、かなえが笑って手を振った。

 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 あれから一年。

 僕は、かなえを推していた。


 「モブ太郎ってあだ名、気に入ってたの?」


 あの日、ストレッチャーに横たわる僕の横で、かなえは言った。

 怪我と痛みでうまく声が出ず、親指を立てて、無理やり笑う。


 「何それ」


 かなえは、あのときも笑っていた。


 救急車の後部ドアが閉まる、その直前。

 かなえは何かを言った。


 サイレンの音にかき消され、はっきりとは聞こえなかったけれど。


 彼女の唇の動きが、

 確かに僕の名前を紡いだような気がした。

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【カクヨムコン11短編】私と私と、あなたと、増田 浅羽ゆづき @asaba_yuduki

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