記憶が白紙になっても私は貴女を忘れない…

南條 綾

記憶が白紙になっても私は貴女を忘れない…

 毎日の放課後、誰もいなくなった図書室で本の整理をするのが日課。図書委員なんだから当たり前なんだけど。


 静かな空間が好きで、埃っぽい本の匂いが心地いい。委員は私一人だから、ほとんど独占状態。時々、遅くまで残業する先生や、勉強しに来る生徒がいるけど、それもすぐに帰ってしまう。


 あの子の存在に気づいたのは、秋の終わり頃だった。図書室の奥、古い書架のさらに奥。立ち入り禁止の扉がある。そこは「保存書庫」と呼ばれていて、貴重な古書が置かれているはずだけど、誰も入らない。鍵はかかっているし、図書委員の私でも許可がないと開けられない。


 ある日、整理を終えて片付けをしていると、扉の向こうからかすかな音がした。ページをめくる音。誰かがいる?怖いもの見たさで、耳を当ててみた。確かに、誰かが本を読んでいるような気配。息づかいまで聞こえる。でも、扉は固く閉まっている。鍵は私の手元にあるのに。


「……誰?」


 小声で呟いたら、音がぴたりと止んだ。それから、毎日のように気になって、放課後にその扉の前で立ち尽くすようになった。音はする。でも、返事はない。ただ、時々、甘い匂いがする。古い紙と、何か花のような、でも少し鉄錆びたような匂い。


 初めて彼女を見たのは、十一月の雨の日だった。図書室を閉めようと鍵をかけに回ったら、保存書庫の扉が、わずかに開いていた。隙間から、淡い灯りが漏れている。私は息を呑んで、そっと近づいた。


 部屋の中には、少女がいた。白いワンピースを着た、長い黒髪の少女。年齢は私と同じくらいに見えるけど、どこか時代遅れの雰囲気。肌は陶器のように白く、瞳は深い紅。彼女は古い本を膝に広げて、ページを指でなぞっていた。でも、読んでいるというより、ページに顔を近づけて、息を吸い込んでいるようだった。


「……あなた、誰?」


 私が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。微笑んだ。とても美しい、でも少し寂しそうな笑顔。


「ここに、住んでいるのよ」


 声は低くて、鈴のように澄んでいた。


「住んでる? どうやって……鍵は……」


「ふふっ、鍵なんて、必要ないわ。私にとっては」


 彼女は立ち上がって、私に近づいてきた。距離が縮まるたび、心臓がどきどきした。怖いのに、綺麗すぎて目を逸らせない。


「あなた、毎日来てくれるのね。私の気配を感じて」


「……うん」


 正直に頷くと、彼女は嬉しそうに目を細めた。


「私は、莉緒りお。よろしくね、綾ちゃん」

 

 名前を知られていたことに驚いた。でも、それ以上に、彼女の瞳に吸い込まれそうになった。


 それから、私たちの時間は始まった。放課後、私は保存書庫に入るようになった。鍵は必要なかった。莉緒が言う通り、扉は私が入りたいと思うと、自然に開く。まるで、彼女が招き入れているみたいに。


 書庫の中は、意外に広くて暖かかった。古いランプが灯っていて、本が山のように積まれている。莉緒はいつも、同じ場所に座っていた。膝に本を抱えて。


「莉緒は、何をしているの?」


 最初に聞いた質問。彼女は、少し困ったように笑った。


「生きているのよ」


「生きるって……ご飯は?」

生きているから、話してるのに?どういうことなんだろう?


「私は、血はいらない。代わりに……物語を食べるの」


 物語を食べる。最初は、比喩だと思った。でも、莉緒は本気だった。彼女は本を開いて、ページに唇を近づける。そして、ゆっくりと息を吸う。すると、ページの文字が、薄く霞んでいく。まるで、インクが蒸発するように。


「これで、私は生きていられる。でも、本だけじゃ……足りなくなってきた」


 彼女の瞳が、私を見た。

「人の記憶の中にある物語が、一番美味しいの」


 記憶の中の物語。それが、彼女の生きるための栄養だった。


 莉緒は、吸血鬼のような存在らしい。でも、血ではなく、他人の記憶を食事するみたい。特に「物語性のある記憶」を吸って生きている。誰かの大切な思い出、恋の記憶、悲しい別れ、冒険のような体験……それが、彼女の糧だと教えてもらった。


「でも、吸うと、その記憶は薄れていく。最後には、白紙になる」


 静かに、莉緒は言った。


「それでも、いいって言う人がいたら……私は、嬉しい」


 私は、怖かった。でも、同時に、惹かれていた。莉緒は孤独だった。何十年も、この書庫に閉じこもって、本の物語だけで生きてきた。でも、もう限界らしい。


「綾ちゃんの記憶……少しだけ、いただいてもいい?」


 初めて頼まれたのは、十二月の初め。私は、頷いた。莉緒は、私の手を取って、そっと額に唇を当てた。冷たくて、でも優しい感触。


 その瞬間、私の頭の中に、幼い頃の記憶が浮かんだ。夏祭りで、初めて好きになった女の子と花火を見た記憶。あの子の笑顔、浴衣の袖、甘い綿あめりの匂い。莉緒が、それを吸い取っていく感覚があった。心地よくて、でも少し寂しく感じちゃった。


 終わった後、私はその記憶を思い出そうとした。でも、ぼんやりとしか残っていない。あの子の名前も、顔も、はっきりしなかった。


「ごめんね、綾ちゃん」


 莉緒は、申し訳なさそうに言った。でも、頬は少し紅潮していて、生き生きとしていた。


「でも、美味しかった。あなたの初恋……甘くて、切なくて」


 私は、頷いた。それから、毎日のように、私は記憶を捧げた。莉緒は、決して多くは取らない。少しずつ、優しく。私の中学生の頃の記憶。部活で一緒だった先輩への憧れ。修学旅行で夜通し話した親友との秘密。全部、女の子たちの記憶ばかりだった。


 私は、ずっと、女の子が好きだった。でも、それを誰にも言えなかった。莉緒は、それを受け止めてくれた。


「綾ちゃんの物語……全部、優しくて温かいの。私、幸せ」


 彼女は、私の膝に頭を乗せて、目を閉じる。髪が柔らかくて、いい匂いがする。


 私たちは、キスをした。初めてのキスは、クリスマスの前。莉緒が、私の記憶を吸った後、顔を上げて、私の唇に触れた。冷たい唇だったけど、すぐに温かくなった。


「綾ちゃん……好き」


 ささやかれて、私は泣きそうになった。この子のために、もっと記憶をあげたいと思った。自分の過去が白紙になってもいい。この子が生きて、私の隣にいてくれるなら。それで充分


 でも、記憶が薄れていくのも怖かった。ある日、鏡を見たら、自分の顔がぼんやり思い出せない瞬間があった。幼い頃の写真を見ても、感情が湧かない。家族の記憶も、友達の記憶も、色褪せていく。それでも、私はかよった。


 莉緒は、日に日に美しくなっていった。肌に血色が戻り、瞳が輝く。笑顔が増えた。


「綾ちゃんのおかげよ」


 彼女は、私を抱きしめる。私たちの恋は、静かで、甘くて、残酷だった。莉緒は、私の記憶を吸うたび、私の過去を食べていく。私は、自分の人生を、少しずつ失っていく。でも、同時に、莉緒との「今」が、私の新しい物語になっていた。


 ある日、莉緒が言った。

「もう、十分かもしれない。私、強くなった。本の物語だけでも、しばらくは生きられる」


「でも、私は……」私は、言葉を続けた。


「もっと、莉緒にあげたい。全部あげてもいい」


 莉緒は、首を振った。

「だめ。綾ちゃんが、綾ちゃんでなくなっちゃう」


 涙が、彼女の頬を伝った。吸血鬼なのに、涙が出るんだ。


「私は、綾ちゃんの全部が好き。過去も、今も、未来も」


 私たちは、抱き合った。


 その夜、私は、最後の記憶を捧げた。自分の、莉緒と出会ってからの記憶。図書室での日々、彼女の笑顔、キスの感触、全部。莉緒は、最初は拒んだ。でも、私が強く望むと、受け入れてくれた。


「ごめんね……ありがとう……愛してる」


 莉緒の唇が、私の額に触れる。記憶が、流れていく。莉緒との日々が、白紙になっていく。でも、なぜか、心の奥に、何かが残った。莉緒の名前。莉緒の声。莉緒の温もり。それだけは、消えなかった。

目を開けると、莉緒が泣いていた。


「綾ちゃん……もう、私のこと、忘れちゃうかもしれないのに」


 私は、微笑んだ。

「忘れないよ。莉緒は、私の……」


 言葉が出てこない。でも、胸が熱い。莉緒は、私を抱きしめて、囁いた。


「私も、綾ちゃんの物語を、ずっと胸にしまっておく。あなたがくれた、初恋の物語」


 図書室のランプが、ゆらゆら揺れる。私たちの恋は、ここで終わらない。


 記憶を失っても、莉緒は私を覚えていてくれる。そして、私は、莉緒を感じ続ける。


 血の代わりに物語を吸う吸血鬼と、過去を捧げた少女の、静かな初恋は、永遠に続く。図書室の奥で、二人だけの物語として。


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