元セクシー女優『幻夢子』の生涯
道楽仙人
第一話 丸橋芸能事務所
丸橋芸能事務所の社長室は、古びた雑居ビルの四階にあった。壁は黄ばみ、天井の蛍光灯は時折ちらつき、埃の匂いが静かに漂っている。応接セットのソファは擦り切れ、テーブルの上には飲みかけのペットボトルと、いつかのオーディションの資料が無造作に積まれていた。
丸橋茂は、デスクの向かいに座る若い女性を、半信半疑の目で見つめていた。藤原真由美、二十一歳。芸名・幻夢子。履歴書に並ぶ経歴は、三年目を終えたセクシー女優だった。
十八歳で清純派レーベル「ピュア20」、十九歳で過激派の「ナイトメア」、二十歳でバラエティ路線の「元気っ娘」――各レーベルで一年ずつ専属契約を結び、計三十六本の作品に出演。数字だけ見れば、若くして場数を踏んだベテランだ。だが、目の前の真由美は、その経歴をまるで否定するような佇まいだった。
黒髪のロングヘアを無造作に背中に流し、細いフレームの眼鏡越しに見える瞳は静かで、どこか遠くを見ているようだった。声は小さく、指先は膝の上で小さく組み合わされ、まるで文学部の女子大生――それも、人の輪に入るのが少し苦手なタイプ――のように見えた。
丸橋は、かつて大手芸能事務所で敏腕マネージャーと呼ばれた男だった。華やかな現場を数多く回り、売れっ子を何人も育て上げた。だが、理想を追いかけて早期退職制度で独立した途端、現実は厳しかった。営業は思うようにいかず、コネも薄れ、今ではかつての職場からの「情け」で細々と仕事を回してもらっているのが実情だった。
事務所には、肩書だけ欲しいモデル志望の若者や、地下アイドルを辞めたあとに行く当てのない少女、名刺だけ作って消えた自称俳優――そんな者たちが名簿に並んでいるだけで、まともに活動しているタレントは一人もいない。
「どうして、うちみたいな事務所を選んだ?」
丸橋の問いかけに、真由真由美は少し間を置いてから、静かに答えた。
「他の事務所には、履歴書を送っただけで門前払いでした。面接すらしてもらえなくて……。あるレーベルのスタッフさんに、『丸橋さんは来る者拒まずだから』って教えていただいたんです」
その言葉に、丸橋は苦笑いを漏らした。まさにその通りだった。来るもの拒まず、去る者追わず。彼は最初から真由美を落とすつもりはなかった。むしろ、人手不足の事務所にとって、意欲のある新人はありがたい存在だった。
問題は、セクシー女優という経歴が、一般の芸能界でどれだけ通用するか――そして、今後もその仕事を続けるつもりなのか、ということだった。
「今後も、そっちの仕事は続けるつもりか?」
真由美は小さく頷いた。
「いえ、セクシー女優はしばらくお休みします。いずれ、セクシー女優の集大成として、セクシーロマンス映画を一本撮りたいです」
彼女は少しだけ視線を上げ、続けた。
「近いうちに、劇団『水平線』のワークショップを受けようと思っています」
丸橋は思わず眉を上げた。劇団「水平線」は、ジャンルを超えた独自の作風で知られる一流劇団だ。子役も含め多くのスターを輩出してきたが、その稽古は容赦ない。ワークショップといえども、参加者の八割は途中で心が折れて去っていく。得るものは大きいが、代償も大きい。覚悟のない者は、最初から相手にされない。
「知ってるか? あそこは甘くないぞ。ワークショップでも、容赦なく切り捨てる」
真由美は静かに、しかしはっきりと答えた。
「知っています。調べましたから。それでも、行ってみないと、何も始まらないと思って」
その声には、かすかな、だが確かな熱が宿っていた。丸橋は、彼女の瞳に、怯えや迷いではなく、静かな決意のようなものを見た。
これまでの人生で、逃げ場を失い続けてきた少女が、ようやく掴んだ一筋の光――そんなものに、似ていた。丸橋は改めて履歴書に目を落とした。
清純な外見と過酷な過去。そして、今ここに座っている、壊れそうでいて、どこか折れていない少女。
彼は引き出しから契約書を取り出し、テーブルの上に置いた。
「じゃあ、とりあえず三か月の試験期間でどうだ。本当に続ける気があるなら、できる限り仕事は見つけてやる」
真由美の顔が、初めてぱっと明るくなった。彼女はペンを取り、丁寧にサインを記した。ペンの音が、静かな部屋に小さく響く。
丸橋はその様子を見ながら、胸の奥に残る不安を完全に振り払うことはできなかった。この子が芸能界で生き残れるかどうかは、まだわからない。だが、少なくとも――これまで事務所に名を連ねてきた者たちのように、ただ居座って何もしないだけの存在にはならないだろう。それだけは、確かだった。
そして、ふと丸橋は思った。もしかしたら、この子は、このボロボロの事務所を、少しだけ変えてくれるかもしれない。
丸橋は、契約書を片付けながら、ふと口を開いた。
「それはそうと、セクシーロマンス映画って、要は濡れ場のある大衆映画だろ。あれで大丈夫か?」
真由美は一瞬視線を伏せ、膝の上で組み合わされた指先がわずかに動いた。
「はい。濡れ場はあっても、映画として成立する演技力が欲しいんです。だから、ワークショップを頑張ろうと思って。セクシー女優の仕事にもシナリオはありますけど、大衆映画とは全然勝手が違うので……」
丸橋は小さく頷いた。確かにその通りだった。少し間を置いて、彼は慎重に言葉を選びながら尋ねた。
「なあ、嫌だったら答えなくていいんだが……どうしてセクシー女優になったんだ?」
真由美は息を吸い、ゆっくりと吐き出した。蛍光灯の淡い光が、彼女の眼鏡のフレームに細く反射する。
「小学生の頃から、女子のグループにいじめられてました。中学生になるともっとひどくなって、中二の頃から不登校になりました。高校にも行けず、ずっと家に引きこもって……両親に迷惑ばかりかけて、もう死にたいと思う日もあったんです。でも、いつかは社会に出なきゃいけないって思ったとき、自分には営業も事務も接客も、何もできないってわかってて。とりえと言えるのは、女で、若さだけだったから……身体を使う仕事しか残されてないって思いました。その中で、一番ましだと思ったのがセクシー女優でした。清純系のレーベルがあるって調べて、十八歳になったらすぐに応募して」
彼女の声は最後まで震えなかった。ただ、膝の上の指が、ほんの少し強く絡み合った。丸橋は無言で聞き続けた。かつて大手で数多くのタレントを見てきたが、こんな静かな語り口でここまで重い過去を明かす者は珍しかった。
「それで……どうして三年も続けたんだ? 嫌じゃなかったのか?」
真由美は小さく首を振り、初めてかすかな笑みを浮かべた。
「続けているうちに、認められたい、という気持ちが出てきたんです。撮影現場で、監督やスタッフが『すごくいいよ』って褒めてくれる。撮影を無事に終えたとき、自分がちゃんと仕事をやり遂げたって思える。ファンレターで『夢子ちゃんのおかげで元気が出ました』って書かれてるのを読むと、すごく嬉しくて。清純系だけだと新人が次々出てきて埋もれてしまうから、過激系のレーベルに移ったら、新しいファンが増えて。さらにバラエティ系から『イメージガールやってほしい』ってオファーが来て、イベントでリーダー役をしたり、ファンの集いに呼んでもらったり……多くの人に必要とされているって感じられて、どんどん嬉しくなりました」
彼女はそこで言葉を切り、丸橋をまっすぐ見た。
「でも、もうセクシー女優としてはやりきったと思っています。これまでの経験を、ちゃんと生かせる場所は一般の芸能界しかない。だから、ここに来ました」
丸橋はゆっくりと背もたれに体を預けた。ふと、若い頃の自分がよぎった。大手時代、似たような境遇の新人タレントを「売れない」と判断して、早々に見切りをつけたことが何度かあった。あのとき、もう少し粘っていれば――そんな後悔が、胸の奥に小さく疼いた。思った以上に重い過去を背負いながら、それでも這い上がって結果を出し、限界を見極めて次の道を選んだ。
この子は、ただの被害者じゃない。本物だ。丸橋の胸の奥で、長い間眠っていた何かが、静かに目を覚ました。彼はデスクの上の契約書を指で軽く叩き、穏やかな声で言った。
「わかった。三か月の試験期間、しっかり見させてもらう。一緒に頑張ってみるか」
真由美は小さく、だが力強く頷いた。彼女が立ち上がる音がして、埃っぽい窓から差し込む冬の陽射しが、黒髪のロングヘアを淡く照らした。古びた社長室に、かすかな、しかし確かに新しい風が吹き込んだ気がした。
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