ゴキブリ

イミハ

ゴキブリ

夜の街は、昼よりも正直だった。

ネオンの光は人の顔を隠さず、感情だけを浮かび上がらせる。

十八歳の少年が歩いていると、背後で笑い声がした。

振り返ると、通りすがりのカップルがこちらを見ていた。

ほんの一瞬。

だがその一秒で、少年の中に積み重なっていたものが音を立てて崩れた。

理由は分からなかった。

なぜ笑われたのかも、なぜ腹が立ったのかも。

ただ、「まただ」という感覚だけがあった。

気づけば、足が動いていた。

夜の階段の前で、女が一度だけ振り返る。

その瞬間、少年の中から「戻る」という選択肢が消えた。

――そして、夜は異様なほど静かになった。

少年はすぐに捕まった。

取調室で刑事に問われても、彼は混乱しなかった。

「どうして、あんなことをした」

少年は少し考え、こう答えた。

「ゴキブリを殺しただけです」

刑事は言葉を失った。

人だ、と告げられても、少年は首を振った。

「人なら、あんなふうに笑わない」

それは言い訳でも挑発でもなかった。

彼にとっては、ただの事実だった。

裁判でも、少年の意見は変わらなかった。

「ゴキブリを殺しただけなのに、

 なんでそんな風に思うのか分からない」

悪意はなかった。

後悔もなかった。

ただ、理解がなかった。

被害者遺族は涙ながらに言った。

「あの子には、未来があった」

その言葉を聞いても、少年の表情は変わらない。

「未来があるなら、なんで僕に対してあんな事をしたのか分からない」

笑ったこと。

見たこと。

それが彼の世界では、すべてだった。

二つの価値観は、最後まで交わらなかった。

判決の日、法廷は静まり返っていた。

「被告人を、更生不可能と判断する」

「よって、死刑を言い渡す」

十八歳という年齢は、考慮された上で意味を持たなかった。

最後に言葉を求められ、少年は立ち上がる。

「僕が犠牲となり、僕以外のゴキブリの犠牲者がいなくなるなら」

一瞬の沈黙。

「僕のやった事は、大いなる意味があったと思う」

それは信念ですらなかった。

彼にとっては、筋の通った結論だった。

少年は連れられていく。

未来という言葉は、最後まで彼の中に形を持たなかった。

世界が彼を理解できなかったのか。

彼が世界を理解できなかったのか。

その答えは、

どこにも書き残されなかった。

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ゴキブリ イミハ @imia3341

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