RE:異世界から帰ったら江戸なのである~女天狗昔物語~

左高例

第1話『異世界から帰ったら江戸なのである』



 ──時は江戸時代、八代将軍徳川吉宗が天下を治める頃であった。


 初夏のまだ涼しい夜風が吹く、江戸に続く街道を進む影が一つある。

 夜闇は薄っすらとした月明かりに照らされて、淀みないしっかりとした歩み方で行くのは旅装をした一人の男であった。

 名を、六科むじなという。彼の生まれた土地にあやかって付けられた、少々珍しい名だ。

 ずんぐりとしたやや大柄な体つき、髷も結わずに整えられていない髪。厳しい鬼瓦のような顔つきをした男は、旅人というよりも人目を避けて移動する凶状持ちかのようにも見える。


 特に、この時代。たとえ整備されている街道といえども、宿場町で夜を越さずにわざわざ夜でも旅をしているというのは、まともではないと言えた。

 ただ男はそれほど重大な理由で夜に移動しているのかというと別段そういうことはなく、単に娘を一人残している江戸へとなるべく早く帰ろうとしているだけであった。あと、宿に泊まる金を節約したかったのだ。


 府外に住んでいる父が前々から具合が悪いというので見舞いに行き、その帰りである。菓子屋を営む実家では別段、父が明日死ぬという様子でもなく、次は孫を連れてこいと土産を持たされただけでなにも問題は無かったのだが。

 男は昼過ぎに街道沿いの店で握り飯を一つ食べただけで、殆ど休まずに江戸への帰路へとついていた。

 休まず進む体力に自信はあった。昔は魚の天秤売りとして江戸中を一日歩き廻っても平気であったのだ。


 一応、盗賊などへの警戒から杖代わりの頑丈な棒を手に持っていた。武芸など習ったことはないのだが、喧嘩なら何度でもある。不意に近づいてくるものがいれば、棒切れで殴りつけてやろうと思った。夜に旅すること自体が危険なのだが、自衛となればその程度の用心は必要だ。

 それ故に、夜の道をいかつい男が、棒を片手にのそのそと足早に歩いているという、はたから見れば彼こそ危険人物に見えただろうが。


 さて──

 どれほど歩いただろうか。夜の暗さに、六科の目はもうずいぶんと慣れていた。

 そんな彼が気にしたのが──進む道の先に灯る光であった。

 宿場町や民家などではない。どうやら焚き火のようだ。


 夜に旅をする者が怪しい者ならば、同じく夜に屋外で焚き火をして野宿でもしようとしている者もまともではない。

 下手をすれば、近隣の盗賊どもが集まっているか、旅人を焚き火に寄せて襲うための罠かもしれない。

 警戒しつつ六科は歩みを緩める。道を外れて、焚き火に近づかないようにして進むべきだろうか。

 ただ街道から外れるとそこは草藪ならまだ良い方で、森や崖があるかもしれないところを視界の利かない夜に進むことになる。

 そうなると危険だとしてもまだ街道を駆け抜けた方がいいのではないか。


 そのようなことを考えながら六科は足音を殺して道沿いに進んでいった。

 やがて焚き火の様子が見えてくると、六科は息を飲む。彼の娘や姪は趣味からかやたらと狐狸妖怪に詳しく、六科にも教えてくるのだが──まさに、焚き火に当たっているのは怪異の類だと思えた。


(仙女か……?)


 と、六科は思った。

 焚き火近くで一抱えほどの岩に座り込んでいるのは、長い髪をした女のようだった。顔立ちはまだ少女のようであったが、どこか眠そうで、疲れている表情をしている。

 そして異様なのはその体に、焚き火の光を反射してなお青白く見える袈裟のような衣を身に纏っているからだ。着物でも振り袖でも旅装でもなく、このような場所で夜中に出くわすには異常である。

 六科が仙女、と感じたのは別段その女が美しいとか神性だとか感じたわけではなく、仙女は特別な衣を身に纏っているという伝説を聞かされたからだ。それだけ、女よりもその衣が目を引いた。


 だがパチパチと火が弾ける焚き火を見て、六科は警戒心を強く持った。

 焚き火には──その仙女らしき女が獣を焼いていたのだ。

 大きさからして野犬の類だろうか。皮を剥いで内臓を抜いた身を、どういう了見か長い野太刀で尻から頭まで貫いてそれを焚き火で炙っている。

 当然ながら普通の刀を火で炙るなど(ましてや調理器具にするなど)尋常ではない。

 それに、六科としても犬を焼いて食うというのは「厭なものを見た」という感覚がある。暫く前まで江戸では、犬や猫を殺すとなると死刑やら島流しやら重罪であった恐怖政治から生まれる感情だ。


 中には──噂話だが──血を吸った蚊を叩いて殺しただけで罰せられた者もいるという。

 既に将軍が代替わりすることでその法令は撤回されたのだが、それでも忌避感を覚える。いくらなんでも江戸では今更大っぴらに犬を捕まえて食う者などほぼ居なくなった。

 とにかくまともな相手ではない。六科は街道を外れることにした。

そう決断した際に、獣肉の焼ける芳しい臭いが六科の鼻孔へと入ってきた。


ぐう──


 と、腹の虫が鳴ってしまった。咄嗟に手で腹を押さえるのだが、夜の街道にその音は大いに響いた。

 六科が焚き火に視線をやると、怪しい妖女はやけに赤く光って見える瞳を六科の方へと向けていた。彼の存在に気づいたようだ。

逃げよう。六科は駆け出そうとしたのだが、それよりも前に声が掛かった。


「おい。食うかえ? 腹が減っておるのだろう」


 気の抜けるような言葉。だが旅人を惑わそうとする山姥が、そのような文句で家に招き入れる怪談を聞いた覚えがあった六科は無視して逃げるため振り向いて走った。


「まあ待て」


 六科はその、罅の入った鈴のように澄んでいて枯れている声が耳元で息が掛かるほど近くから聞こえたことに戦慄した。

 次に自分の両肩を女の細く冷たい手が押さえていて、まるで柱に縛り付けられたように一歩も前に踏み出せない。小柄な女だというのに自分よりも遥かに力が強いのだ。

 逃げられない。やはり、人食いの邪仙かなにかだったか。にたりと女が笑みを浮かべるのを六科は感じた。


「今、よぉく焼けたところだからのう。遠慮するでない、若いの」

「むうう……」


 妖女は六科の、自分よりも大きな体を掴んだまま軽々と引きずって焚き火の近くまで連れていき、座らせた。

 すぐ目の前では、六科の前に犠牲となったらしき獣がジュワジュワと脂を滴らせて焼かれている。その沸騰して破裂した眼窩がどうにも哀れに思えた。


「気になるかえ? いや、その野犬はいきなり襲いに来おったから返り討ちにしたのだ。なにせ数匹も居たから適当に追い払うのもできんのでな。一匹始末してやったら他は逃げていったが……」


 殺したのだから食ってしまった方が供養になろう、と妖女は口の端を持ち上げた。

 なるほど、自分も殺してから食ってしまうつまりなのだろう。六科は「南無阿弥陀仏」と唱えた。全くもって信心深くはないのだが、それでも。

 だが六科の念仏を聞いた妖女は「うむ、うむ」と嬉しそうに笑う。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と。なあにこれで犬っころも極楽浄土に行くであろう……くくく、念仏を聞くと帰ってきたって感じがするのう」


 にこやかに妖女は焚き火にくべていた犬を刺した刀を取り上げて、まな板のように斬られた平木の上に乗せた。

 無造作に刀を引き抜いて、それこそ刀身が四尺(百二十センチメートル)以上もありそうな大太刀を包丁のように軽く振ってこんがりと焼かれた獣を骨ごと輪切りにしていく。

 しっかりと火の通った肉の断面から肉汁や髄がどろりと垂れて、六科は自分のこれからの運命を見るようであった。


「ほら食え食え。確かに犬は抵抗あるかもしれんが、まあ味は鶏肉とそう変わらん。若いうちはなんでも食うもんだ。新大久保の飲み屋だと思って……ううむ酒が欲しいのう」

「……うむう」


 六科は唸りながらグイグイと差し出された、犬の前足を齧った。太らせて殺して食うつもりかもしれない。最後に食べるのがこれとは。無念である。

 それにしても屈託なく笑みを浮かべている妖女は、まあとにかく近くで見ても怪しい風貌であった。結っていない長い髪に危険な刃物とまるで安達が原の鬼婆のようであり、ゆったりとした青白い衣はひんやりとした空気を纏っていて鳥肌が立ちそうだ。

 間違いなくこの世のものではない。それだけは確信できた。

 手際よく妖女は肋骨を切り分けて、骨付き肉を手に齧る。そしてジロジロと無遠慮に六科の全身を見回して告げる。


「ところでお主……よくよく見れば……なんだその珍妙な格好は。映画の撮影かえ?」

「えいが? さつえいとはなんだ?」

「……」


 六科は聞いたことのない単語を問い返すと、妖女は途端に難しそうな顔をした。


「……まず、ここは日本……だよな?」


 日本、といきなり言われて六科は些か面食らった。

 そもそも、自分たちが住んでいる国全体について、そう考えることなどなかった。敢えて言うのならば住んでいる江戸は武蔵国だろう。

 だが学のある姪が娘に色々と教育しているのも僅かながら聞いていて、どうやらこの徳川と諸藩が治める島国は日本と呼ぶらしい、ということは聞き覚えがあった。


「うむ。確か」

「確か……? そんなあやふやな……いや、お主、どこに住んでおる?」

「江戸の下町だが」


 六科はそこで長屋の大家兼、蕎麦などを食わせる飯屋をしていたのでそう答えた。

 だが江戸、と聞くと妖女はぽろりと、呆けた顔で骨付き肉を取り落とした。


「江戸……まさか江戸時代……!? しょ、将軍は誰だ!?」

「将軍……公方様か。いや詳しくは知らんが……米将軍とか聞いた覚えが」


 更にこの男、社会情勢に疎く自分が住む江戸の将軍すらあまり意識していなかったので、正確な名前すら知らなかった。生来より大雑把な性格なのである。

 だが妖女には聞き覚えがあった。


「米将軍……時代劇で聞き覚えがある。確か徳川吉宗……思いっきり江戸時代ではないか……! 空を飛んでも街の明かりが一つも見つからんはずだ……!」


 彼女は頭を抱えてうめき出す。六科は突然の奇行を不気味そうに見るばかりだった。


「ぬうう……折角、ようやく異世界から帰ってきたというのに、江戸時代だと……!? おのれ、いい加減な術を使いおって……! おまけに、体は女のままだし……!」

 妖女は嘆いたが、もはやどうすることもできない。

 彼女は名を九郎くろう

 現代日本から異世界に飛ばされて数十年過ごし、やっと日本に戻ってきたと思ったら過去の世界だった上に女体化していた者だ。


 異世界から帰ったら江戸なのである。

 おまけに女体化。


 そんないきなりの展開に、彼女は暫く悶えるのであった。


「うむう」


 六科はとりあえず唸って、肉を食べることにした。

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