第3話
等々力に来たのは、本当に久しぶりだった。
武蔵小杉駅からスタジアムへ向かう人の流れに混じりながら、私は何度も立ち止まりそうになった。
ここに来る理由を、うまく説明できなかったからだ。
応援したいわけじゃない。
ましてや、叫ぶつもりもない。
ただ——
来てしまった。
ゴール裏には行かなかった。
正確には、行けなかった。
私はバックスタンドの端、隅のほうの席に座った。
立たない。跳ねない。声も出さない。
視線の先に、美咲がいた。
拡声器を片手に、ゴール裏の中央で叫んでいる。
小学生の頃よりずっと大人になったのに、声の張り方は変わっていなかった。
「前向け! 下向くな!」
その声は、私のところまで届いた。
試合は、最初から苦しかった。
相手に押し込まれ、パスはつながらず、セカンドボールも拾えない。
あげく、失点。
スタンドの空気が、目に見えて沈んでいく。
美咲は、それでも声を止めなかった。
「まだいける! 顔上げろ!」
でも、周りは違った。
太鼓の音が弱くなり、手拍子がばらばらになる。
「今日は無理だな」
「来週に切り替えよう」
そんな声が、あちこちから聞こえた。
——ああ、これだ。
私は思った。
みんな、傷つきたくないんだ。
期待した分だけ、痛くなるから。
それは、昔の私と同じだった。
美咲は必死だった。
声がかすれても、拡声器を握り直して叫び続ける。
だけど、応援席は少しずつ諦めの色に染まっていく。
そのまま、試合終了のホイッスルが鳴った。
勝てなかった。
それどころか、内容もよくなかった。
人々が立ち上がり、帰り支度を始める。
ゴール裏も、静かになっていった。
美咲は、その場に座り込んだ。
拡声器を膝の上に置いたまま、俯いている。
私は、しばらく動けなかった。
声をかける理由が、分からなかったからだ。
——でも。
あの背中を、私は知っている。
小学生の頃、逆転負けしたあと。
何も言えずに、ただ立ち尽くしていた私の隣で、同じように俯いていた背中。
気づいたら、私は階段を下りていた。
「……美咲」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
美咲が顔を上げる。
一瞬、何が起きたのか分からない、という顔をして——
次の瞬間、目を見開いた。
「……ルナ?」
その声に、胸がぎゅっと縮んだ。
「久しぶり」
それだけ言うのが、精一杯だった。
スタジアムの照明が、ゆっくりと落ちていく。
ゴール裏の喧騒は消え、風の音だけが残る。
私は思った。
ここは、やっぱり特別な場所だ。
叫ばなくなっても、離れたつもりでも——
私の中から、完全には消えていなかった。
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