武家の娘が恋をした夜。

みなもゆあ

武家の娘が恋をした夜。

夜の浜から戻る道は、思っていたより明るい。

月はまだ高く、潮の匂いに焼けた土の気配が混じっている。

潮風がゆるく続いて駆けて、私はそれに背中を押されるように歩いた。


あなたは何も言わず、少し後ろを歩いている。

並んでいるようで、並ぶほど近づいてはいない。

離れてはいないのに、もう遠くなっていく。

声は、まだ言えない距離にあった。


踏み固められた道が、足の裏で小さく鳴る。


言葉はたまに冷えて、探して、俯いてしまう。

歩くたび、気持ちが軽く鳴った。


曲がり角で振り返ると、あなたはそっけなくそこにいた。

私を見ていた。

それだけで、立ち止まる理由はなくなった。

白い息と、くるくる回りながら落ちてくる雪。


景色は、心のまま走り去っていく。

浜、松明の残り香、遠くの屋敷の影。

夜風が流れて、私に触れる。

速度とか、瞬間とか、関係なく、

世界の方が今を急いでいる。


口付けをする。

あなたのまぶたが閉じるのを、薄目で見た。

それが最後の記憶になってもいいように。


「……また。」


そう言う声は、祈りに近かった。


声にすると、言い切れなかった輪郭が滲む。

背中に届いた戻ることのできない熱が、まだ温かい。

別れの言葉だったはずなのに、

起きなかった風が少し吹いただけだった。


振り向けば、

何かが残っていく気がして、やめた。


重い鉄格子の門をくぐる時、

着飾った武家の娘の姿ではなく、

一人の男に恋をして、頬を染める

一人の女の子の顔のままでいたかった。


手の中に残った温度を数えないように、

掬うみたいな気分で、指の形を見ていた。

次に握るものが、冷たい柄であってもいいように。


誓いは交わさなかった。


嘘になることだけは、はっきりしていたから。


追いかける理由もない。

進むにつれて、足音が少しずつ消えていく。

終わらない今日の分だけ、私はそれを運んでいる。


門の内側、

暗い板壁に映ったのは、

知らない月と、

少しだけ熱を持った私の顔だった。

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武家の娘が恋をした夜。 みなもゆあ @minamo_

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