第13話 6:30の前にーひろみの心ー
ひろみは、その日、早く帰り、部屋の中を
落ち着かない足どりで歩き回っていた。
彼と会う約束は午後6時30分。
その時間までに帰宅すれば、coffeeムースが作れる。冷やし時間を含めても、ぎりぎり間に合う。
──心を落ち着けるには、手を動かすしかない。
そう自分に言い聞かせるように、キッチンに立った。
コーヒーを温め、ゼラチンを溶かし、クリームと合わせる。
混ぜるたび、四年間の記憶が浮かんでは沈んだ。
笑った夜。
毎日のように電話を繋いだ日々。
料理を褒めてもらって嬉しかった瞬間。
消えたわけではない。
ただ、未来が見えなくなっただけだった。
なぜか、目頭が濡れた、、、。
ムースを冷蔵庫へ入れたとき、時計は5時58分。
「ああ、間に合った。」
その安堵は、料理よりも、
“決断に向き合うための静かな時間を
確保できた”という安堵だった。
──今日で終わらせる。
胸の奥でそっと呟いて、
玄関の鍵をいつものように開けた。
⸻
6時30分。
玄関を開けると、いつもの笑顔のはずの彼が、目を真っ赤にして立っていた。
ひろみの胸は、ずき、と痛んだ。
いつものように、ひろみは「オイルパスタつくってよ」と言ってあった。
二人でキッチンに立つ。
玄関先にパセリを摘みに出る。
何度も繰り返した、二人だけの“四年間の流れ”。
なのに、彼の言葉はやけに軽やかで、優しかった。
気を使わせないようにしてくれているのが、痛いほどわかった。
それが、かえって胸を締めつけた。
──今から別れを告げるのに。
パスタを盛りつける彼の背中を見ながら、
ひろみは何度も言葉を飲み込んだ。
「並んで食べていい?」
と、彼が小さく言ったとき、
彼の混乱と寂しさが、ひろみに突き刺さった。
「うん……いつもどおりで……」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
食べられない彼を横目に、
ひろみは黙って涙をこぼした。
恋が戻ったわけではない。
今から終わらせる人の優しさに触れた罪悪感が溢れただけ。
彼がそっと肩を寄せると、
ひろみは、その温度に負けてしまいそうになった。
“もう戻れない”
それでも
“嫌いになったわけじゃない”
その矛盾が涙となった。
彼が触れた指に、ひろみは反射的に握り返した。
四年間の癖のようなものだ。
それは、もう恋ではない。
でも、情だけは確かにそこにあった。
⸻
帰り際、彼が何気なく腕を広げた。
一瞬迷ったあと、
ひろみは、自分のほうから抱きついた。
ぎゅっと背中に手を回した。
四年間の感謝と、
もうこれ以上一緒には歩けないという決意が、
いっせいに胸に押し寄せた。
抱擁の中で涙が落ちた。
それは、恋の涙ではなく、
“人としての情”の涙だった。
最後の口づけは、
愛の確認ではなく、
「これで終わりだよ」という静かな印。
抱擁から離れると、ひろみは一度も振り返らなかった。
振り返れば、決意が崩れそうだった。
⸻
別れの瞬間が終わり
冷蔵庫の中のcoffeeムースが静かに固まっていた。
食べ残しのパスタを冷蔵庫にしまい、
ムースの表面をそっと指でならした。
彼から今日、持ってきた、最後にもらったオキザリスの鉢をテーブルに置いた。
その三つ──パスタ、ムース、オキザリス。
ひろみは、それらをLINEアルバムにアップした。
送るためではない。
見せたいからでもない。
“これで本当に最後だよ”
と、自分自身に告げるための儀式だった。
アルバムに並んだ三枚を見て、
ひろみは小さく息を吐いた。
──6時30分から始まった別れの夜は、
こうして静かに終わった。
⸻
最後のその夜にいつもの感じでLINE電話をした
ひろみは、夜のLINE電話でようやく少し笑った。
「アパート来たの、4年間で197回だったね」
写真の管理が好きなひろみは、いつも回数を書いていた。
今回の写真、「回数どうする?198?」と彼に聴いた
「別れた後だから197+1だよな。
どうせなら200回まで待ってほしかったよな……」
その言葉の奥に、
彼が“もう愛ではなく情だけだ”と気づいている気配を、
ひろみは感じた。
別れの後の、
恋人とも友人とも言えない静かな対話だった。
誕生日会で欲しがっていたアートボードは、
クリスマスにと想っていたが、もう会えないし
「最後にプレゼントするよ」と彼が言った。
「いいよ、大丈夫だよ」とひろみは言ったが、
断れば彼を傷つけると分かっていた。
だから、ひとつだけURLを送った。
それは彼への最後の優しさのつもりだった。
⸻
彼は二人だけの誕生日会の話をするとき、
かすかに不信をにじませた。
それでも、
彼を雑に扱ったわけではない。
まだ愛と情の間で揺れていたのは事実だった。
「ひろみが好きだって言ってた ブルーとイエローのおそろいの
コーヒーカップ、買っておいてよかった……。なんとなく、
心が騒いだんだ。だから、早くに買いに行ったんだ」
そう言った彼の声が、
ひろみの胸に刺さった。
電話の向こうで、
ひろみはそっと涙を落とし、
聞こえないように「ごめんね」と呟いた。
⸻
ひろみは思った。
この四年間は、とても幸せだったし、楽しかった毎日、
喧嘩ひとつせずに、本当に相性と感性があっていたふたりだった。
彼が私を一番に考えていてくれたのもよくわかっていた
悪いのは、私かもしれない、ごめんねと。
私は、物事を早く決めてしまう。
彼は、じっくり向き合うタイプ。
ずっと相性と感性は良かったけれど、
最後の最後で、歩き方の違いが出たんだ。
彼は往々にして“振り返る”。
ひろみは“前に進む”。
心配はしている。
彼が傷ついたことも知っている。
でも、もうどうにもできない。
・・新しい恋にときめいてしまった以上
と言い聞かせた。
彼との四年間すべてが恋だったか・・・
最後の季節は、
恋ではなく「情+迷い+罪悪感」に変わっていた。
それを、ひろみは正直に受け止めていた。
だが、彼には黙っていた
──彼とは、もう愛を紡ぐことはない。
残っているのは、
確かに深い情だけだった。
四年間は嘘ではない。
でも、恋としての関係は、
もう二度と戻らない。
⸻
6時30分から始まったあの夜。
それは静かで、残酷で、
人間らしい別れの物語だった。
別れは悲しみだけでできているのではない。
愛、情、迷い、罪悪感。
それらすべてが重なり合い、
ひとつの灯りとなって消えていった。
彼と電話していればおそらく
「重く受け止めなくて大丈夫だよ。ただ、4年間ありがとう。」と言うと思えたことが救いだった。
・・・・・・
・・・・・・
Thank you for your everything
と歌の歌詞を呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます