第12話 最後のくちづけ
長い4年間を電話一本で終わる
そんな薄い関係ではないとひろみに直談判し、
あうことになった約束の夕方、6:30。
私は最高の材料を買い込んだ。
ホタテもズッキーニもウィンナー、オリーブオイル
ひろみが喜びそうなものを。
車を走らせるあいだ、
景色はいつもと同じはずなのに、
どこか違って見えた。
岩本医院の並ぶ道に差し掛かったとき、
胸が突然きゅっと締めつけられた。
これまで何度通ったことだろう。
ひろみの住むアパートへ続く道だった。
今日が最後。
そう思った瞬間、
指先が震えた。
***
いつもと同じように
アパートの車庫に車を入れた
どこかいつもより静かに感じられた。
夕闇の光がシャッターに落ち、
シャッターを閉じる間
胸の奥が少しずつ重くなる。
いつものようについた気配で
扉をひろみが開けた
それがふたりの習慣だったから。
扉が開く。
ひろみは、いつもと同じ優しい顔で立っていた。
ただその目の少し腫れた奥には、
言葉にしない「ありがとう」と「さよなら」が
静かに溶けていた。
「おかえり」とも言わず、
「来てくれてありがとう」とも言わず、
ただ小さく笑って、
台所を指さした。
***
キッチンに並んで、
いつものように
オイルパスタを作った。
ズッキーニとホタテ。
ひろみの好物。
ホタテを焼く音がして、
オリーブオイルの香りがたちのぼる。
その間は、いつものようにした
「ほら、また塩こぼしたじゃない、、」と軽く叱られたり
いつものままで話しながら、二人で料理をした。
「パスタにのせるパセリ、玄関からとってくるね」と
ひろみがいつものように言った。
もともと、ひろみはパセリは好きでないが
私に合わせていたんだ。
パセリをもってきたひろみは、
「もうあなたが来なくなったら、パセリつくらないかもね」
と小さく呟いた。
出来上がったパスタを、
いつもの位置に座って食べた。
私は別れの衝撃でほとんど
食べられなかったが、横に座り何本かのパスタを口に運んだ
食べれない私に、「ほら、食べてよ!とウィナーを私の口に入れた」。
ひろみもフォークを持ち上げ、
ひとくち食べて、すぐに涙を落とし
「この味が全然、わからない。覚えておけない・・」と
呟いた。
パスタが終わると
「食べてほしくて…間に合わないかと思った…好きだったし」とコーヒームースを出してきた。
好きだったひろみの手作りコーヒームースを最後に無理し頑張って作ったらしい。
このつくる時間を計算しての6:30に来てということだったんだと分かった。
「いっぱい作ったから、持って帰ってね。
ほんとはもっと食べてほしいんだけど…」
ひろみは笑った。
でも目が真っ赤だった。
その優しさが切なくて、胸が痛んだ。
並んでスプーンを持ちながら、
ふたりは何度も涙をこぼした。
食べ終えたあと、
並んで座ったままだった
二人は自然に肩を寄せ、手を強く握りしめた。
その温度は、
4年間のどんな言葉よりも
確かなものだった。
ふたりでしばらく泣いた。
声を出さずに、
静かに、ただ涙を流した。
ひろみの手は、
私の手を強く握っていた。
離さないように。
でも同時に、
離れる準備をしているように。
その矛盾こそが、
ひろみの優しさなのだ。
***
やがて、
ひろみがゆっくり立ち上がり、
着替えを取りに行った。
「これ、持って帰って。
もう……置いておいたら、泣いちゃうから。」
ひろみにとって、
別れが本気である証。
きっぱりとした性格が出ていた。
私はうなずき、
荷物をもった。
玄関の扉に向かう途中で、突然立ち止まった。
「……最後に、抱きしめてもいい?」
その声は、
もう涙で震えていた。
私はひろみを抱きしめた。
強く、強く、強く。
髪に手を置いて撫でると、
ひろみは小さな子どものように
肩を揺らして泣いた。
「ありがとう……ありがとう……。ごめんなさい。
ほんとに……幸せだったよ……」
そして――
唇を重ねた。
長い、
深い、
別れの口づけだった。
時間が止まったようだった。
4年間のすべてが
その口づけの中に溶けていった。
***
玄関先に立ち、
私は、記憶に焼き付けるように部屋をぐるっと見回した。
ここで交わした会話、
笑い声、
料理の匂い、
抱き合った夜――
すべてが一度に押し寄せた。
「これが見納めだね……今まで、ありがとう。」
そう言うと、
ひろみは泣きながら笑った。
そしてふたりは、
最後にそっと手を握り合った。
恋人が別れるのではなく、
人生の一部が静かに区切られるような
そんな握手だった。
私は最後にもう一度微笑んで、
扉を開けた。
車が車庫からでていくまでひろみは最後の手を振った
暗闇の中のその姿が胸に深く刺さった。
最後の話し合いで納得したかった彼だったが
話し合いは、ほとんどなく、
ただ最後の別れの二人の場面だった。
その光景が、
4年間の恋の終わりだった。
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