メトロノーム
凪月 桐
短編 メトロノーム
恩師が亡くなったと、大学の友人から連絡が来た。
音楽学部でチェロを教えていた人だ。私はすでに、そのチェロを辞めている。楽器はもう手元にはない。今はその恩師と疎遠なこともあり、追悼演奏会には行かなかった。
代わりに、自宅の棚の中にある古い缶を取り出した。
中にあったのは、小さなメトロノームだった。大学時代、先生に半ば押しつけられるようにもらったものだ。
「音楽には感情は必要だ、楽譜を見て作曲者がどんなことを思っていたのか、その解釈が必要だ。でもこれはオーケストラ。皆と合わせることも必要だ」
そう言って、先生はいつもこれを鳴らした。
カチ、カチ、と規則正しい音。私がどれだけ速く弾いても、遅れても、音は一切、譲歩しなかった。
チェロを辞めた理由は、驚くほど些細だ。
弦を張り替える金が惜しくなった。重い楽器を持って電車に乗るのが億劫になった。周りが就職の話を始めて、置いていかれそうなのが嫌だった。その雰囲気の中練習室に行くほどの実力がなかった。ただそれだけだ。
最後のレッスンの日も、私はうまく弾けなかった。
先生は楽譜を閉じて、こう言った。
「今日は音が逃げてる。でも、逃げる日もある。今日が最終日だとしても楽器がある限りは音は逃げない」
それきり、私は教室には行かなかった。
恩師と会うこともなかった。
私は机の上にメトロノームを置き、回す。
カチ、カチ。
まだ動くんだな。
部屋の空気が、その音で均等に切り分けられていく。
カチカチと変わらない音。
上達もしなければ、失敗もしない。ただ、同じ間隔を刻み続ける。
それが、かつては退屈だった。
今は、それが自分と重なって見える。
この音は、私が立ち止まっていても、同じ間隔で刻まれていく。
メトロノームが止まった部屋は少し静かに感じた。
私はそれを缶に戻さず、机の端に置いたままにした。
何も変わらない音を、変わってしまった自分の隣に置く。
それで十分だと、今は思えた。
メトロノーム 凪月 桐 @nagituki_kiri
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