第三章 コトシロヌシは何をしたのか
タケミカヅチが「逆さの剣」を立てたように、コトシロヌシもまた「逆」の所作をおこなっている。
「天の逆手」を打ち、船を「踏み傾け」て、身を隠した。
一つずつ検討していこう。
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天の逆手(あまのさかて)
これが何を意味するのか、実は確定していない。
本居宣長は『古事記伝』で、「逆手」について「常のまにまに打拍手にはあらずして、手を逆にして打つなり」と述べている。通常の柏手ではなく、手を逆にして打つものだという。
『伊勢物語』には、「あまのさか手をうちてなむのろいをるなる」という一節がある。呪詛の文脈で使われているため、天の逆手は呪いの所作だと解釈されることが多い。
しかし、本居宣長は「悪事のみならず吉喜事に渉て為けむこと」とも指摘している。必ずしも呪詛だけの所作ではないという見方だ。
具体的な打ち方には諸説ある。
手を体の後ろに回して打つ。
手のひらを裏返して打つ。
人前から退くときに打つ。
後ろ向きで打つ。
いずれも「後ろ」「逆」「裏」というモチーフを含んでいる。
興味深いことに、古事記には他にも「後手(うしろで)」の所作が登場する。イザナギが黄泉の国から逃げ帰るとき、「後手に」剣を振って追手を払った。山幸彦が海幸彦に釣り針を返すとき、「後手に」渡して呪いをかけた。
「後ろ手」「逆の所作」は、古代日本において異界との境界、あるいは呪術的な転換点を示すものだったようだ。
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船を踏み傾ける
「船を踏み傾ける」は、船を裏返す、覆すことだと解釈されている。
船は、生の世界を移動する乗り物だ。それを裏返すとは、どういうことか。
考古学的に興味深いのは、日本各地で発見されている「船形棺」の存在だ。弥生時代から古墳時代にかけて、船の形をした棺、あるいは船を模した埋葬施設が作られていた。死者を船に乗せて、あの世に送り出すという観念があったのだろう。
北欧のヴァイキングは、船葬を盛んにおこなった。死者を船に乗せ、副葬品とともに埋葬する。あるいは船に火をつけて送る。船は死後の世界への乗り物だった。
船を覆すという行為は、この「船=あの世への乗り物」という観念と関係しているかもしれない。
生の乗り物を反転させる。
それは、生から死への移行を意味する。
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青柴垣に打ち成して、隠りき
「青柴垣」は、青い柴(小枝)で作った垣根のこと。神聖な空間を区切るための結界だ。
美保神社には、今も「青柴垣神事」が伝わっている。毎年四月七日、コトシロヌシの故事を再現する神事がおこなわれる。
この神事では、「当屋」と呼ばれる役の者が、一年間の物忌みを経て、神憑りの状態で船に乗る。船は青柴垣で飾られ、沖合から浜辺を往復する。当屋の額と両頬には紅が塗られる。
この紅は、死者の化粧だという。
つまり、青柴垣神事は、コトシロヌシの「死と再生」を儀礼的に再現しているのだ。
物理学者の湯川秀樹は、この祭りを見て「日本の精神が凝縮した祭り」と評したという。
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隠りき
「隠りき」は、姿を隠した、消えた、という意味だ。しかし、これは単に「見えなくなった」という以上の意味を持つ。
古語で「隠る(かくる)」は、しばしば死を婉曲に表現する言葉として使われた。「神隠れ」という言葉が今も残っている。
コトシロヌシは、水底に隠れたとされる。海の中に消えたのだ。
水中に消える。常世の国へ帰る。海の彼方の異界へ去る。
これは、神話的な意味での「死」である。顕界(見える世界)から幽界(見えない世界)への移行。
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以上を総合すると、コトシロヌシの一連の所作は、次のように解釈できる。
天の逆手を打つ。呪術的な契約の締結。あるいは、異界への移行を宣言する呪的行為。
船を覆す。生の乗り物を死の乗り物に反転させる。この世からあの世へ渡る準備。
青柴垣に打ち成す。神聖な空間を作り出し、そこに身を隠す。聖別された場への移行。
隠る。水底に消える。顕界から幽界へ去る。神話的な「死」。
コトシロヌシは、国譲りに同意した直後、「死んだ」のだ。
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