私の透明な壁

辛口カレー社長

私の透明な壁

 教室の窓際。一番後ろの、左端の席。

 私はいつもそこにいた。まるで、そこが世界との境界線ボーダーラインであるかのように。


 桜の花びらが風に舞い、ガラス越しに春の匂いが差し込んでくる。周囲の生徒たちは、新しい学年の始まりに浮足立ち、賑やかな笑い声を交わしている。多分、ほとんどの人は心を弾ませる季節なのだろう。でも、私にはそれらが現実感のない、遠くの世界のことのように感じられた。


 世界と私の間には、見えない壁がある。それは透明で、音を遮断し、私だけを切り取る、分厚いガラスのようだった。その壁の存在を初めて意識したのは、中学二年の時。

 朝のホームルーム前。クラスメイトのAさんが、最近見たアイドルのライブの話で盛り上がっていた。隣のBさんが「超羨ましい!」と声を上げ、二人で笑い合う。私はその輪のすぐそばにいた。話の内容も、二人の感情も理解できた。話しかけようと口を開き、言葉の種を蒔まこうとする。でも、言葉は喉元で止まり、しおれてしまう。

 そこには、無理に口角を上げて、その輪に加わろうとした「私」がいたけど、その微笑みは、顔の筋肉がひきつっているだけの、ハリボテのようなものだった。

 その時、Aさんがふと私に気づき、「千晴もそう思うでしょ?」と話しかけてきた。

「え……」

 たった一音の返事すら、上擦って震えた。そして、何と答えるべきか、脳内で言葉を探すたった七秒の間に、Aさんは私に興味を失い、また元の会話に戻ってしまった。

 ――その七秒が、私にとっての決定打だった。

 ああ、私には「向こう側」にいる人の会話の速度にも、感情の起伏にもついていけない。言葉を発しようとすればするほど、私の存在はみんなの世界のノイズになってしまう。

 気づけば、教室の喧騒は向こう側、私はこっち側。そう。透明な壁を隔てて、私もいつもこっち側にいた。壁は私をみんなから隔離したが、同時に、みんなの視線から私を守ってくれた。

「千晴ってさ、いつも静かだよね」

 そう言われるたび、私は否定も肯定もしなかった。静かなわけじゃない。ただ、壁の向こう側に上手く馴染めない自分が、壁のこっち側に閉じこもっているだけ。私にとっては、それが最も安全で、最も楽な生存戦略だった。

 いつしか透明な壁は、外部からの刺激を防ぐ、私の心の防御壁になっていた。その壁の中でなら、私は誰にも傷つけられない。誰も、私の心に入ってこない。ただの「ひとり」でいられる。


 ある日、授業中に不意に涙がこぼれそうになったことがあった。原因は分からない。ただ、目の前の先生が楽しそうに話す様子や、隣の席の子がノートに一生懸命何かを書き写すシャーペンの音を聞いているうちに、突然、猛烈な孤独感と、自分の存在の薄っぺらさに襲われたのだ。

 私は咄嗟に顔を伏せ、熱心にノートに向かうフリをして、右目に溜まった涙をそっと指で拭った。泣いているところを壁の向こう側の人たちに見られるなんて、絶対に嫌だった。涙腺は、私にとって最後の砦だった。それを崩してしまえば、壁全体が崩壊してしまう気がして、必死に耐えていた。その涙の粒は熱を帯びていて、喉の奥を焼くようにして消えていった。

 そんな透明な壁の中で息を潜めていたある日、彼女は転校してきた。


「こんにちは、瀬戸せと梨央りおです!」


 一切の迷いがなく、あまりにも澄んでいて、あまりにもまっすぐなその声は、分厚いガラスの壁をあっさりと突き破り、一直線に私の耳に届いた。思わず心臓が跳ね上がりそうになる。

 みんなの前で自己紹介を終えた彼女は教室内を見渡し、そしてなぜか、迷わず私の隣の席に座った。私の席は、窓際の一番奥。普通なら、誰もが遠慮して空けるような場所だ。


「よろしくね、千晴ちゃん」


 彼女は私にだけ、少し声を落としてそう言った。その声は、壁を突き破るのではなく、壁そのものを無視しているようだった。

 梨央は不思議な子だった。社交的で誰とでも話すのに、必ず私にも声をかけてくる。「この問題、一緒に考えようよ」とか、「この歌、知ってる?」とか。

 最初は恐怖だった。壁の外からの接触は、いつだって私を緊張させる。でも、彼女は私の壁に穴を開けようとしない。無理やり壁のこちら側に入ってこようとしない。間違っても、壁を蹴っ飛ばしたりしない。ただ、壁にそっと寄り添い、向こう側から話しかけてくるだけだった。

「千晴ちゃんってさ、目がきれいだね」

 ある日の帰り際、二人きりになった教室で、梨央が不意に言った。私は言葉を返せないまま、首を傾げる。

「何ていうか、普段は壁の向こう側を見てるのに、時々、こっちを見てるんだなって分かるの。その時の目、すごく澄んでる」

 私は反射的に窓の外、透明なガラスの向こう側を見た。そこには、ただの放課後の風景が広がっているだけだ。梨央は私が言葉に詰まっているのを見て、すぐに「ごめんね、変なこと言っちゃった」と笑った。その笑顔は、壁を揺らした。


 梨央が転校してきてからの日々は、私にとって、透明な壁を隔てた静かな戦いのようだった。梨央の存在は、壁の向こう側の世界をより鮮明に、より魅力的に映し出す。反対に、壁の防衛機能は弱まり、私は常に緊張状態にあった。壁の内側の安全な孤独と、壁の外側の眩しい世界との間で、私の心は引き裂かれそうになっていた。

 ある日、私は思い切って、梨央から誘われたランチの誘いを断ってみた。

「ごめん、今日はお弁当なんだ」

 それは小さな嘘だった。壁の内側に戻りたかった。慣れ親しんだ孤独の空間に、一時的に身を隠したかった。

「そっか。残念。じゃあ、明日はどう?」

 梨央は、すぐにそう言って笑った。一切責めることもなく、ただ、明日への期待だけを込めて。そのあっさりとした対応が、かえって私を苦しめた。壁を再構築しようとする躍起になる私の行動は、彼女にとっては取るに足らない、日常の一部でしかなかったのだ。


 梨央の存在が私にとって大きくなるにつれ、私は一つの矛盾に気づいた。

 彼女は、私の「壁」の存在を理解していない。いや、彼女の側には、元々壁なんて存在しないのだ。彼女は私の孤独を否定も肯定もせず、ただそこにいる私を、そのまま受け入れている。それが、私にとって最も恐ろしいことだった。彼女の純粋さは、私の築いてきた防御を無力化し、私は常に試されている気分になった。

「千晴って、好きなものとかある?」

 放課後、教室に二人だけの時間。西日が傾き、窓際の私の席にオレンジ色の光が差していた。

「……音楽、かな。イヤホンで聴くのが好き。一人で、音に浸ってる時間が」

「ふふ、分かる。私も音楽、好きだよ」

 梨央は自分のカバンからスマートフォンとイヤホンを取り出した。

「これ、私が最近よく聴いてる曲。千晴ちゃんの好きそうな、静かだけど芯のある曲なんだ」

 彼女はイヤホンを半分差し出した。私は一瞬躊躇したが、拒否することはできなかった。差し出されたイヤホンの、白いイヤーピースをそっと耳に入れる。右耳から流れ込んできたのは、静かだけど力強いピアノの旋律だった。

 それは、私の中の分厚いガラスの壁に、小さく、しかし確実なひびを入れるような音だった。そのひびから、今まで閉ざしていた向こう側の世界との、ほんのわずかな空気の交換が始まった気がした。

「これ……綺麗だね」

 気づけば、私の口から感想が漏れていた。この曲を聴いている間、私は壁の向こう側を意識することなく、ただ音の中に存在していた。

 その夜、自分の部屋で、私は梨央から教えてもらったピアノ曲を何度も聴いた。イヤホンから流れる透明な音色は、私の中のひび割れを広げていく。

 ――そして、私は泣いた。

 人目を気にすることのない、真夜中の自室。声を出さずに、ただ静かに頬を伝う熱い涙。それは、孤独の涙ではない。

 ――解放の涙。

 今まで壁の中に閉じ込められていた、感情の熱量とでも言うべきか。羨望、恐れ、そして、壁の向こうの世界と繋がることへの抗いがたい渇望。それらが涙となって溢れ出し、私を窒息させる寸前だった壁の内側の空気を、一気に押し出した。

 涙は、私自身の壁を溶かす、唯一の液体だった。


 春が夏に変わる頃、私は確信していた。壁なんて、最初から物理的に存在していたわけではない。ただ、怖くて、誰かに傷つけられることを恐れて、自分で分厚いガラスを築き、目をそらしていただけ。梨央の言葉や笑顔、そして彼女が分け与えてくれた音楽が、それを教えてくれた。

 でも、壁が崩壊し始めると、それは新たな恐怖となった。壁がなくなれば、私は剥き出しになる。彼らと同じように笑い、彼らと同じ言葉を選び、彼らと同じ熱量で感情を表現しなければならない。それができない自分は、また拒絶されるのではないか、と。


 体育祭の練習が始まった。梨央はクラスの中心で、生き生きと輝いていた。私もその輪に入りたかった。実際、梨央は私にも「一緒にやろうよ!」と何度も誘ってくれた。でも、私は皆の熱気に気圧けおされ、どうしても足を踏み出せなかった。

「ごめん、ちょっと疲れたから」

 そう言って、私は窓際から動けなかった。その時の梨央の、一瞬だけ曇った顔が、私の心臓を締め付けた。

 練習が終わり、教室に戻ると、私は自分の席で一人、泣いてしまった。自ら壁を壊すことへの恐れと、壁の中に閉じこもり続けることの孤独。その二つの痛みが、私の中でせめぎ合った。

 誰にも見つからないように、私は顔を伏せて、机の上に一粒の涙をこぼした。その雫は熱くて、苦くて、私の中の壁の残骸を溶かすように、机に小さな染みを作った。今まで必死に耐えて、飲み込んできたものが、今、外に出た。

「千晴?」

 不意に、背後から声がした。梨央だった。いつからそこにいたのだろう。私は慌てて顔を上げ、必死に涙を拭った。手の甲で目元をごしごしと擦り、笑顔を作ろうとする。しかし、涙腺は緩んだままで、次々と涙が溢れそうになる。

「な、何でもない。ちょっと、目が乾いただけ……。もう、大丈夫だから」

 いつもの静かな私に戻ろうとする。壁を再構築しようとする。でも、梨央は私のそばに、静かにしゃがみ込んだ。

「ねぇ、千晴。私、千晴が一人でいるのは知ってるけど、千晴が寂しいかどうかは、今まで分からなかった」

 梨央はそう言って、私の机の上にこぼれた涙の染みを、じっと見つめた。その染みは、私の心を晒す小さな水たまりのようだった。

「でも、今の千晴の涙は、何だかすごく、熱いね。私、その熱さが少しだけ分かる気がする」

 梨央は一言も「どうしたの?」と尋ねなかった。彼女は私の壁ではなく、涙を通して私を見た。その涙が、私の全ての告白であると悟ってくれたのだ。

 私はもう一度涙をこぼした。今度は隠さずに。梨央の前で、声を出さずに、ただ静かに。

「……怖かったの」

 掠れた声で、私は告げた。梨央は静かに耳を傾ける。

「笑っても、話そうとしても、私だけいつも会話に、七秒遅れてる気がして。壁の向こう側は、私にとって速すぎるの。私が言葉を探してる間に、みんなは遠くへ行ってしまう。だから壁を作って、最初から一人でいる方が傷つかなくて済むって……そう、思ってた」

 梨央は何も言わずに、ただ私の肩に手を置いた。その手は、優しくて、温かかった。

「私ね、千晴の目を見て、いつも思ってた。千晴は誰よりも外を見ているんだって。壁の向こう側を、諦めずに、ずっと見つめているんだって。七秒遅れても、千晴は追いつこうとしてたんでしょう? 壁の中に隠れるんじゃなくて、壁越しに世界を観察してたんでしょう?」

 私の涙は、堰を切ったように溢れ出した。梨央は、それを止めようとはしなかった。私の涙を、私の本心として受け止め続けてくれた。

 涙が止まり、落ち着くと、梨央は静かに立ち上がった。

「そろそろ帰ろうか」

 中庭のベンチに並んで座ると、夏の始まりを告げる、少し湿った風が吹いてきた。太陽は傾き、私たちの影は細く長く伸びていた。

 梨央が、ふと呟いた。

「ねぇ、千晴。もし、向こう側に行けるって分かったら、行ってみたい?」

 その問いかけは、もう過去のものだ。壁はもうない。私の心の防御壁は、彼女の優しさという熱と、私の涙という水で、すっかり溶けてしまった。

 私は少しだけ考えて、笑った。

「もう行ってるよ。たぶん、梨央と一緒に」

「ふふ。だよね」

 梨央も、満面の笑みを浮かべた。

 透明な壁の向こう側には、風が吹いていた。光があって、音があって、笑い声がある。今、その中に私と梨央がいる。そして、私もこの世界の一部になっていた。


 次の日、私は初めて自分からクラスメイトに声をかけてみた。

「あの……昨日の体育祭の練習、楽しかったね」

 私の声は、少し震えていたかもしれない。七秒間の沈黙が、また訪れるかもしれないという恐怖も、確かにあった。でも、もうそんなことは気にしなくていい。壁がなくても、私は私だ。

 声をかけたクラスメイトは、一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔で返してくれた。

「あ、千晴。そうだね! またやろうね!」

 その言葉は壁に遮られることなく、まっすぐ私に届いた。そして、私はその輪の中に、自分自身の足で立っていた。もう、壁をつくって窓際の席に座る「私」はどこにもいない。

 中庭を歩いていると、梨央が私の手をそっと握った。

「ねぇ、千晴。私たちの世界って、もう一つになったね」

 私は強く頷いた。その手に伝わる梨央の温もりと、中庭に差し込む夏の光。そして、私の心を満たす、もう二度と隠さない、いや、隠す必要のない静かな喜び。

 それは、孤独の熱い涙の後に訪れた世界との、本当の再会だった。


(了)

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