雲の卵

きせのん

雲の卵

 いつもの中学校からの帰り道。

 ふと道の真ん中に落ちていた、丸く小さい石のようなものに気が付いた。

 近づいて拾ってみると、そのつるつるとした暗い灰色のものはかなり小さく、見かけよりも軽い。片手で握れば易々と隠れてしまう。ちょうど、角のすっかり丸くなった消しゴムくらいだ。

 そしてそれは、夏の終わりには不自然なくらい、なんだか冷たく感じた。

 誰が、どこから、いつ落としたのだろう。

「いつ」は——今朝は無かった、はずだ。多分。

 となると、今日の昼間のうち。

 落とし主については——全く見当も付かない。どこかの子どもが親と公園へ行った帰りに、とかだろうか。


 なぜかは僕にも説明出来ないのだけど、不意に意識が空へと向いた。

 白い柔らかな雲たちが、ぽつぽつといくつも浮かんでいる。

 穏やかで暖かい、晴れの空。

 それに引っ張られたに違いない、手の中のこれは、雲の卵なのだという思いが湧き上がった。

 本当は、人目に触れない海か山のどこかへ落ちるはずの雲の卵たち。

 それなのにこんな街中へと落ちてしまったこれが、何とも可哀想で愛おしく思えた。

 そんな妄想をしたせいで不思議と愛着が生まれたこと、それと冷たいのとスベスベした手触りが気持ち良くて、僕は「雲の卵」を手に握ったまま家へ帰った。


 もちろん親はそんな感傷なんて知るはずも無いし、見つかって「保育園児じゃあるまいし」とか言われたら恥ずかしい。見られないように、サッと自分の部屋に向かって勉強机の横にある棚に置いた。

 冷たかった「卵」も家に着く頃にはすっかり温かくなっていて、空っぽになった手のひらは涼しく感じた。



 それから少し忘れてしまっていたけれど、ご飯を食べて勉強を、と机に向かった時にまた目に入った。受験まであと半年を切っている身としては、しっかり勉強をしていかなければいけない。

 ——いけないけれど、目の前の「卵」を見ていたら無性にまた握りたくなってきた。

 手を伸ばし、優しく包む。

 また冷たさが伝わってくる。

 なんとも言えないけれど手に馴染む形なのか、手にしているととても落ち着く。

 手放したくなくなって、折衷案として左手に握ったまま勉強をすることにした。



 今日はいつもよりも集中できていた気がする。

 気がするだけと言われればそうかもしれないけど、普段よりも気持ちが前向きなのは間違いない。それに実際、こんなに経ったかと驚くくらい没頭することができた。

 手の中の「雲の卵」は、またポカポカになっている。

 このままずっと温めていたら、いつか本当に雲が生まれたりして、なんて。


 それからというもの、僕は家で「卵」を片手に勉強するようになった。

 冬になると、暖房があってもますます最初は冷たくなっている。

 それでもやっぱり手にしていると安心するから、ずっと握っていた。

 もちろん始めから、本当に雲になるなんて信じてはいない。それでもいつしか、手を通して願わずにはいられなくなっていた。

「ちゃんと生まれてきて、そしてあの空へ飛んでいけ」と、まるで本物の雲の卵であるかのように。



 ついにやってきてしまった、受験当日。志望校までの途中も、バスや電車でずっと「卵」を握りながらやって来た。

 ずっと一緒に過ごしたこれは、もう僕にとって何よりのお守りだ。たとえ、出自が不明だとしても関係ない。

 しっかりと温かくなった「卵」が、今度は外の寒い空気の中で手を温めてくれる。天気予報は、今朝が今季一番の冷え込みだと言っていた。


 試験会場の教室に入ると、リュックを横に置いて資料集を取り出し、代わりに雲の卵を入れた。

 あまりにも不似合いなものを置いていては、試験前と言えど周囲の受験生や監督者に不審がられるだろう。

 名残惜しさもあったけど、最後の確認へと意識を集中させた。



 全ての教科で、すこぶる調子が良かった。

 この分なら、まあ合格は確実だと言えると思う。

 満足した気持ちで筆記用具を片付け、雲の卵を取り出し——無い。あれ、この辺に入れたはずなのに。

 その後もしばらく探していたけれど結局あの石は見つからず、教室で最後の一人になってしまい慌てて出てきた。

 諦めずに、歩きながらも手を突っ込んで探してみたけど見つからない。

 どこへ行ってしまったんだろう。


 そう思っていた時、気が付いた。

 よく冷えた朝からずっと雲一つなかった空の中、僕の頭上に一つだけ雲が浮かんでいる。

「雲の卵」と僕が呼んでいた石を拾った、あの日。あの日の空にたくさん浮かんでいたような、白く柔らかな雲だった。


 それから二ヶ月後。受験の日に「卵」と抜けた校門を、僕は一人でくぐり抜けた。

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