第4話:善意の改革①「現代技術の公開」
平穏に暮らすには、三つの資源が必要だ。
布団、静けさ、そして「知らないふり」。
この三つが揃えば、人生はだいたい勝てる。
……勝てるはずだった。
学園に入学してから、私の「知らないふり」は、なぜか頻繁に試される。
試されるたびに、私は負ける。
負ける理由は簡単で、負けないともっと面倒になるからだ。
今日も私は、負けた。
昼休み。
図書室に逃げ込もうとした私の進路を、横恋慕令嬢が笑顔で塞いだ。
塞ぐな。
廊下を塞ぐのは危険だ。
火災時の避難経路が——とか、そういう話ではなく、精神的な避難経路が塞がれる。
避難経路がない会話は、長引く。
会話が長引くと、疲れる。
疲れると平穏が死ぬ。
「イレイン様。この前は本当に助かりましたの」
「いえ。学園の手続きが整っていただけですので」
「まあ、ご謙遜を。……ところで、今日の放課後、お時間は?」
やめて。
時間の要求は、人生の最終通告みたいに聞こえる。
断ると角が立つ。
受けると時間が死ぬ。
時間が死ぬと布団が遠のく。
私は布団至上主義者だ。
(神様、助けて)
「無理。僕、干渉しないタイプ」
(それ昨日も聞いた)
「便利な設定でしょ?」
(便利なのはあなたの方)
結局、私は「短時間なら」と言ってしまった。
言ってしまった瞬間、横恋慕令嬢の笑顔が一段階だけ明るくなった。
成功の笑顔。
成功の笑顔は、次の要求の前払いだ。
私は未来が見える。
見えるから嫌だ。
嫌だが、止められない。
止めると面倒が膨張するから。
「では、少しだけ。殿下もいらっしゃいますの」
……はい、最悪。
第二王子同席。
つまりこれは、私が“偶然”を調整するいつものやつではない。
“会合”だ。
会合は、責任が発生する。
責任は、重い。
私は重いものを持ちたくない。
放課後。
指定されたのは、学園の上級者用会議室の端にある小さな応接室だった。
窓があり、机があり、椅子が三つ。
三つ。
三つというのが良くない。
三つということは、逃げ道の椅子がないということだ。
四つなら、私は端の一つに座って空気になれるのに。
三つだと、対話の当事者にされる。
当事者は嫌だ。
観客でいたい。
ポップコーンが欲しい。
この世界にないけど。
部屋の前で一度だけ深呼吸して、私は扉を叩いた。
「失礼いたします」
入ると、第二王子がすでに座っていた。
横恋慕令嬢も、隣に。
そして、机の上には紙束と、何かの図が描かれた板。
……嫌な予感しかしない。
嫌な予感はだいたい当たる。
当たるから嫌だ。
「来たか、ソレイユ」
王子は軽く顎を上げた。
呼び方が雑だ。
雑だが、雑な分だけ“気安さ”を演出している。
王子に気安くされると、周囲が余計に騒ぐ。
騒ぐと面倒。
私は騒ぎが嫌いだ。
「お呼びいただき、恐れ入ります」
私は礼儀正しく頭を下げて、最も端に座った。
端。
端が好き。
端は世界の救い。
……でも椅子が三つしかないせいで、端でも距離が近い。
距離が近いと、声の温度が伝わる。
温度が伝わると、感情が乗る。
感情が乗ると、面倒が発生する。
私は面倒の発生源になりたくない。
横恋慕令嬢が紙束を整え、嬉しそうに言った。
「殿下、イレイン様はとても手続きにお詳しいのです。学園内の調整も見事で、きっとお力になってくださいますわ」
やめて。
お力にならない。
私は力になりたくない。
力になると、次も頼られる。
頼られると、人生が終わる。
比喩じゃなく、私の布団時間が終わる。
王子が頷く。
「そうらしいな。君の采配で、面倒が減った」
面倒が減ったのは事実だ。
でもそれを私の功績にしないでほしい。
功績は目立つ。
目立つと人が寄ってくる。
人が寄ると面倒が増える。
私は面倒を減らすために面倒を引き受けているのに、なぜか面倒が増える。
世界のバグだと思う。
横恋慕令嬢が、少しだけ身を乗り出した。
「今日は、とても素敵なお話があるのです。殿下にも、きっと国のためにもなること」
国のため。
その言葉が出た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
国のため、正義のため、民のため。
そういう言葉は大きい。
大きい言葉は、だいたい現実を踏み潰す。
踏み潰された現実は、後から私みたいな“面倒回避係”に飛んでくる。
……飛んでこないでほしい。
横恋慕令嬢は、板に描かれた図を指した。
「例えば、こういう技術ですわ」
歯車。
棒。
回転。
水の流れ。
……水車?
いや、もっと効率のいい構造。
そして紙束には、見慣れた単語が混じっている。
圧力、熱、蒸気。
蒸気機関。
いや、原理だけを噛み砕いた簡易モデル。
この世界にまだないはずの概念。
それが、ここにある。
私の胃が、ひゅっと縮んだ。
ああ、これ。
“現代技術の公開”だ。
王道の転生者改革。
善意の顔をした、最初の火種。
横恋慕令嬢は、誇らしげに続ける。
「知識を共有すれば、国は発展します。誰かが独占するから停滞するのです。だから、私は思うのですわ。学園で、まず公開の講座を——」
王子の目が輝いた。
彼は“成果”が好きだ。
成果は称賛を生む。
称賛は王子の栄養だ。
……いや、言い方が悪いか。
でも事実だと思う。
王族は拍手で育つ生き物だ。
「面白い。民にも利がある。学園で発表し、王都へ広げることもできるな」
横恋慕令嬢が頷く。
「はい。殿下が主導なされば、反対派も黙るでしょう」
反対派を黙らせる。
その言い方が、少しだけ危ない。
でもこの段階では、まだ笑顔で包める危うさだ。
毒は、甘い砂糖で飲ませるとよく効く。
……私は何を考えているんだろう。
嫌だ。
こういう思考をするのが、もう面倒だ。
私は口を挟みたくなかった。
挟んだら当事者になる。
当事者は責任を負う。
責任は嫌だ。
だから私は黙って、空気になろうとした。
空気、空気、空気。
私は空気。
私はただの椅子。
私はただの壁紙。
――なのに。
横恋慕令嬢がこちらを見た。
「イレイン様は、どう思われます? きっとお詳しいでしょう?」
終わった。
空気が、言葉を求められた。
空気なのに。
空気なのに……!
断れば角が立つ。
角が立てば面倒。
言えば関与したことになる。
関与すれば面倒。
面倒の二択は、今日も元気だ。
(神様、助けて)
「頑張って」
(役に立て)
「君、尽きない魔力あるじゃん」
(使わない。痕跡が残る。能力バレ禁止)
「真面目だねぇ」
(真面目じゃない。面倒が嫌なだけ)
私は、最も薄い答えを選んだ。
薄い答えは責任が薄い。
薄いのは正義。
少なくとも私の中では。
「……知識の共有自体は、意義があるかと存じます。ただ、広げ方によっては混乱が起きる可能性もございますので、段階を踏むのがよろしいかと」
言った。
言ってしまった。
でも“否定”ではない。
“慎重に”という形なら、敵にならない。
敵にならないのは大事。
敵になると、面倒が爆発する。
王子は少しだけ眉を上げた。
「混乱?」
横恋慕令嬢は笑顔を崩さない。
「混乱は、改革にはつきものですわ。けれど発展のためには必要な痛みです」
必要な痛み。
その言葉で、私は確信した。
この人は、“痛みを誰が負うか”を想像していない。
痛みは、だいたい弱いところに落ちる。
弱いところが潰れると、治安が荒れる。
治安が荒れると、貴族は面倒が増える。
貴族の面倒が増えると、なぜか末端の“調整係”に仕事が降りてくる。
調整係が私になる確率が、最近異様に高い。
やめてほしい。
私は笑顔を貼ったまま、頭の中で状況を整理した。
蒸気機関の原理をばら撒く。
誰かが試作する。
失敗する。
爆発する。
怪我人が出る。
責任追及が始まる。
技術の独占争いが起きる。
「教えたやつが悪い」「止めなかったやつが悪い」。
法整備はない。
管理制度もない。
技術者の育成もない。
資源の配分もない。
……知識だけが先に走る。
走った知識は、止まらない。
止まらないから、事故になる。
事故は面倒だ。
面倒は嫌だ。
でも。
この段階で、私が正面から止めるのは悪手だ。
止めれば、私は“改革の敵”になる。
敵認定されると面倒が爆発する。
そして、転生者同士の匂いも立つ。
絶対にだめ。
私は最後まで隠す。
隠して、寝る。
それが私の人生計画だ。
だから結論はひとつ。
今は静観。
ただし、被害が大きくならないように、最小限の柵を置く。
柵を置くのは面倒だが、爆発よりは軽い。
私は軽い面倒を選ぶ。
人生はいつも、それだけだ。
「殿下。もし講座を設けられるのであれば、学園内の安全規定と、試作の許可範囲を明確にしておくのがよろしいかと存じます。許可のない実験は禁止、場所は指定、監督者を立てる……そのように」
私は“管理”の方向へ誘導した。
管理は嫌いだが、無管理はもっと嫌いだ。
無管理は事故になる。
事故は面倒だ。
面倒は嫌だ。
結局、嫌だしか言っていない気がする。
王子は少し考えたあと、頷いた。
「なるほど。学園長に話を通す必要があるな」
横恋慕令嬢も頷いたが、どこか不満そうだった。
彼女の理想は、もっと早く、もっと広く、もっと自由に。
自由は響きがいい。
でも自由は、責任とセットだ。
責任を取れる人が自由を扱わないと、ただの火遊びになる。
火遊びは、後片付けが面倒だ。
話はそれで終わった。
私は早々に退室したかったが、退出のタイミングすら掴ませてくれないのが王道イベントだ。
横恋慕令嬢は最後に、にこやかに言った。
「イレイン様、またお知恵をお借りすることがあるかもしれませんわ」
借りないで。
返して。
私の時間を返して。
布団を返して。
……布団は取られてないけど、気分的に取られている。
布団は魂だから。
廊下に出た瞬間、私は息を吐いた。
肺の奥に溜まっていた空気が、やっと出た気がする。
学園の廊下は長い。
長い廊下は好きだ。
逃げ道が多いから。
そして私は、逃げ道が好きだ。
人生の大半を、逃げ道の設計に費やしてきた。
(やばい)
「うん、やばいね」
(でも、まだ……致命的じゃない)
「君、冷静だね」
(冷静じゃない。疲れてる)
まだ、この段階なら軌道修正ができる。
管理を入れれば、暴走は少し抑えられる。
事故が起きても、小規模で済む。
小規模なら、私が巻き込まれても……まあ、最悪死なない。
死ぬのは嫌だ。
でも、死なない程度の面倒なら耐えられる。
耐えたくはないけど。
私は図書室に逃げ込んで、隅の席に座った。
本を開く。
目は文字を追う。
頭の中では、さっきの蒸気の図がぐるぐる回っている。
嫌だ。
技術は便利だ。
便利は人を壊す。
壊れた人は暴れる。
暴れたら、また面倒だ。
——善意の改革。
たぶん、彼女は本気で善いことをしている。
だから厄介だ。
悪意なら、止める理由が簡単なのに。
善意は止めると悪者になる。
悪者になると面倒だ。
私は悪者にも善人にもなりたくない。
ただ寝たいだけなのに。
本のページをめくりながら、私は決めた。
この件は、当面、静観。
ただし、柵は増やす。
増やした柵の存在は、私の名前から切り離す。
私がやったと分からないように。
分からないように、分からないように。
……そうやって、何もしないために動く。
私の人生は、結局いつもそれだ。
窓の外に夕日が落ちていく。
平穏が遠い。
でも、まだ諦めたくない。
私は小さく呟いた。
「……早く終わって」
それが誰に向けた言葉かは、自分でも分からなかった。
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