探偵と血族
弐津
第1話 『非通知着信のラストコール』前編
それはもう夜も深くなり、いい感じに微睡んで事務所のソファに横になったタイミングだった。探偵業を営んでいると、私用と仕事用でスマートフォンを分けるようになる。そのうち、仕事用のデバイスに着信が入った。非通知ではない見知らぬ番号からだが、〇九〇で始まってるから海外からではないだろう。
職業柄、こういった電話を取らざるを得ない。まあ怪しい何かの勧誘だったら直ぐに切ればいいだろう。ほとんど惰性で画面をタップした。
「はい、密川探偵事務所」
「透明か。俺だ」
何年振りという抑揚のない低い声。名乗りはしなくても、この声を決して忘れたことは無い。兄だ。最後に電話をしたのは随分前のことだったし、電話帳に登録していないのも頷けた。
返事をするのも億劫だったが、わざわざ連絡を寄越してくるということが気にかかり、切らずに会話を試みる。
「……そうだけど、どうかしたの?」
「さっき警察から連絡があった。親父が亡くなったらしい」
「……そう」
動揺も悲しみもなく、その言葉をすんなり飲み込んで胃袋に落とす。画面越しの相手の方もそうらしく、記憶の中と変わらず淡々としている。久々の兄からの電話は、クソ親父の訃報だった。
そう広くない探偵事務所に俺一人。最初にカッコつけて買った革張りのソファから身を起こす。外出しなくてはならなくなったため、まず先程平らげた惣菜のゴミを一瞥する。
死んだということは葬式もあるのだろうか。喪服は確か、依頼の一環で参列することもあるためクローゼットの奥に掛けていたような。そんなことをぼんやり考えていた。
*
「密川です。亡くなった密川秀章(ひでふみ)の息子の密川透明」
「あぁ、聞いています。どうぞ」
警察官に許可を取って路上に張られた黄色いテープをくぐる。何かと依頼でこういった現場に来ることも多いが、今回ばかりはどうしても浮き足立つような気持ちだ。秋の肌寒い夜風が頬を撫でた。コートを引っ張り出してきて正解だったかもしれない。「念の為本人確認と事情聴取をしたい」とのことで現場に呼び出されていた。
辺りを見渡しながら歩いていたが、目の前に知り合いの刑事の姿を見つけて早足でそちらに向かう。「凪冴くん」
「こんばんは透明さん。ええと、この度はご愁傷様」
「いいよそういうの。ありがとね」
だいぶ投げやりになってしまった。けれど一応従兄弟である凪冴くんにも家族との不仲の話はしてたから、大体分かってくれていることだろう。家族じゃない知り合いに最初に会えたことに少し落ち着く。
「お兄さん、向こうにいるから」
「うん、分かった」
方向転換して、別方向に向かおうとする。瞬間、凪冴くんに眼鏡の奥からの冷ややかな目線と共に訂正される。
「現場は逆だけど」
「......分かってるよ」
この期に及んで逃げようとしていたのはバレバレなのだろう。気恥ずかしさから顔を背けたまま改めてそちらに向かう。最後に会った時と何一つ変わらない、あの氷漬けにしたみたいな目の男がそこにいた。
「透明か」
「見てわかるでしょ」
実の親が死んだってのに顔色ひとつ曇らせないのは俺の兄、彩人だ。それは俺も同じだけど。昔から俺が殴られてる時も罵倒されてる時も何も言いやしなかった。この人はきっとあの頃から何にも変わっていない。
「久々の電話があれで、すまなかった」
「何?今更そんなことだけで謝られても困るんだけど」
思わず八つ当たりのように返してしまう。全部親が悪いんだから、こんなのただの逆恨みなのに。いつだって俺よりも優秀で親からの期待にそのまま応えるような兄が大嫌いだった。無感情で何を考えてるのか分かりやしない、ロボットみたいな男。
「別に親が死んだくらいで電話して来なくても良かったのに。どうせ俺は縁切られてんだからさ」
「そういう訳にもいかなくてな」
「何が言いたいの」
少し考えて彩人は口を開く。銀色のフレームを通してその目線は事件現場らしき方向を向いていた。
「親父はあの歩道橋の階段から転落死したんだ。多量のアルコールが検出されたらしく、雨が降っていたこともあって最初は事故だとされていたようなんだが。それが他殺かもしれないとさっき警察の人に言われた」
「......へぇ」
他殺と聞いてなんとも言えない気持ちになる。あんなに殺したいと思っていた男があっさりと他人の手によって死ぬなんて。「悔しい」という言葉が浮かんだが、すぐに深層に落ちていく。
「それだけではない。死ぬ直前にあの男は電話を掛けようとしていたようなんだが、それがお前の探偵事務所の番号だった」
「はぁ?」
「それで何かお前も関係してるのかと思って電話を掛けたんだ」
「なんでまた俺の番号なんかに」
動揺が隠せない。もう何年も連絡を取ってなかった親父が、死ぬ間際に俺の事務所に電話? なんで今更。たまったもんじゃない。
ふと、昨日の夜に不在着信が入っていたことを思い出した。非通知で掛け直してなかったが、もしかしてそれだったのか。けれど、そういうことなら出ておけば良かったとかいった感情は、特に湧いてはこなかった。
「電話できちんと事情をするべきだった」
「すまない」とまた謝ろうとするのにムカついて、言われる前に遮った。
「いいって別に」
「そうか」
久々だからか会話も続かない。そんなぎくしゃくした兄弟を見かねてか凪冴くんが声を掛けてくる。内容は事務的なものだった。
「あの、お話し中申し訳ないんですが、一旦おふたりとも署の方に着いてきてもらってもよろしいでしょうか?事情聴取の為です。特に容疑者とかでもないんで取りに帰りたい物とかあったら、捜査員つけて一度帰宅して貰ってもいいですし」
「私はそのまま向かっても構わない。家には今日は帰らないと連絡を入れてある」
「俺の方は連絡する相手もいないし、特に貴重品も持ってきてるから帰らなくてもいいよ」
それぞれの返答を聞き、「それは良かったです」と凪冴くんは少しホッとした様子を見せた。この捜査員の少なさだ。あまり皆が場を離れることはしたくないのかもしれない。
「ちょっと俺は上司に呼ばれたので同行できないんですけど、あっちにパトカー停めてあるんでそれで署まで行ってください。俺もそのうち向かいますから」
慌ただしく去っていく後ろ姿を見送りつつ、そっと横にいる彩人の方を見る。
相変わらず何を考えているのか全く分からないが、久しぶりに見ると昔よりやつれている気がする。やはり医者というのは忙しいのだろうか。それとも単に歳をとったのか。そんな俺の視線に気付いたのか、目が合ってしまった。
「なんだ」
「なんにもない。さっさと行こうよ」
強引にさっき教えてもらったパトカーの停まっている場所まで移動する。車両の前には制服を着た、俺や凪冴くんと同い年くらいの男性警察官が立っていた。
俺たちに気がつくと車内へと案内してくれる。
「こちらです。私が同行しますね」
あれよあれよといううちにパトカーの中に乗せられ、車は発進し出す。そこまで広くはない車内の後部座席に、仲の悪い兄弟が横並び。会話が発生することはなく、今他の人が見たらまるで連行される犯人たちのように見えるのではないだろうか。
窓から見える外の景色はそんな俺達とは異なり煌びやかで、実際の距離よりずっと遠く感じる。違う世界の映画でも見ている気分だった。そんな俺の気持ちを置き去りにして、パトカーは夜の街を進んでいく。
こんな時間でも慌ただしい警察署の中の一室に通される。彩人の方が先に事情聴取を受けることになり、俺は無機質な廊下に置かれたパイプ椅子に腰掛ける。時折刑事さんらしき人が数人、何やら険しい顔をしながら歩いていく。異常なほどに事件の多いこの街のことだ、今夜も彼らは安眠することが難しいのだろう。
彩人は一体刑事さんと何を話しているのだろうか。死んだ親父のことについての話? 実の親に勘当されてしばらく経っているから、兄と両親がどのくらいの仲であるのかがさっぱり分からない。興味が無いと言ったら嘘になる。兄という生き物について他人よりも知らないからだ。
「次、お前の番だ」
漠然と扉の向こうのことを考えていれば、その扉は開かれて彩人が出てくる。およそずっと変わらない抑揚のまま俺を呼んだ。
「わかったよ。それじゃ」
もうしばらくは会わないつもりで返事をする。年配の刑事さんに連れられて、コンクリートに囲まれた部屋へと入っていく。閉まる扉の隙間から覗く、こちらを見つめる彩人の暗い瞳が揺らめいていたように思えた。
机を挟んで刑事さんと向かいの椅子に座る。依頼を受けて追っていた事件に関して、警察から事情聴取をされることも少なくない。我ながら慣れたものだと思う。
「よろしくお願いします」
「よろしく。あぁ、今回は事情聴取だからそんなに肩肘張らずに。職業、探偵してるんだって?一応探偵証を出してもらえるかな」
一応人死にではあるのだが、ここの人からすれば俺よりもずっと慣れすぎているのだろう。それに、俺たち親子が不仲であることを知っているのかもしれない。
俺は財布にしまってある探偵証を机の上に置いた。やや暖房の効いた部屋の中、記録係の叩くキーボードの音がよく聞こえる。
「親父さんとはどのくらい会ってないの?」
「七年くらいですかね。大学を中退した時に向こうからもう関わるなと」
「そんなに言われるなんてねぇ。どうして中退したの?」
「まあ色々、人間関係とかが上手くいかなくて」
「へぇ、それは大変だったねぇ。それじゃあその時からお兄さんとも疎遠に?」
やや訝しむような視線と疑問を投げかけられる。冷えきった家族の関係性なんて、彼らからしても珍しいものではないだろうに。
最後に兄から来た連絡はいつからだっただろうか。兄が結婚した時にそれだけの一文がメールで送られてきたのが最後だったような気がする。俺からは御祝儀だけ送りつけたっけ。
「そうですね、ただ兄とは数年前に一度連絡を取ってます。結婚の報告をされました」
「そうか、まあ一応兄弟の義理みたいなものなのかもしれないね。君のお兄さん、堅物というか、親父さんの連絡をしても顔色一つ変えなかったみたいだけど。昔からそう?」
「そういう人だと思います」
「じゃあ君が親父さんから殴られてる時も?」
「えっ」
突然投げ込まれた爆弾に思わず言葉に詰まってしまった。さっき兄から聞いたんだろうか。それにしても随分不躾な質問をしてくるものだ。目の前の男の眼光が鋭くなったような気がした。
「まあ、そうだったと思います」
「そう、大変だったね。親父さんのこと、恨んでいただろう」
「まあそりゃ、人並みには」
明らかに質問の流れが変わってきている。少なくともこの老年近い刑事は俺を疑っているのだろうか、なんて疑念が浮かんでは消える。まぁ親殺しなんて掃いて捨てるほどいるか。
「そうだろうねぇ。キミ、探偵をしているんだって?ウチの刑事もちょくちょく世話になっているみたいだね」
「えぇまあ、こちらこそお世話になってます」
「探偵だったら、疎遠になってても居場所くらい調べられたんじゃないの?」
段々と言葉に棘が含まれていく。やはり俺は疑われているのだろうか。なら早々にアリバイくらい聞いてくれても良いのに。正確な死亡推定時刻も知らないで、何となく最近の動向を思い返すしかなかった。
「調べようと思えばしますよ。でも、必要なかったのでしてません」
「随分ドライなんだね。まあ仲が良くなかったらそういうもの?」
「そうだと思いますよ」
「ふぅん。じゃ、一応聞いておくけど、昨日の夜どこにいて何をしていたか教えて貰えるかなぁ?」
「一応」という言葉に本筋ではなかったと言いたいのが伺える。あくまで父親と息子の距離感についての方が興味があると言いたげだ。
「昨日の夜は一人で事務所にいました。依頼の区切りがついていたので。夕飯をコンビニで買って食べて風呂入って寝て、それだけです。もちろん、アリバイを証明する人はいません」
「そう言えば」と先に付け加えておく。
「確か昨夜は二十二時頃に非通知で着信が来ていました。誰だか分からなかったし、気が付いた時には切れていたので掛け直しもしていません」
先程彩人から聞いた話から考えるに、恐らくそれが親父から掛けられたものであり、その時間がおよその親父の死亡推定時刻なのだろう。刑事は当然アリバイもないと話す俺を怪しんだ様子で、うんうん頷いている。
「そう。後で念の為スマホも確認させて貰うよ。とりあえず今日はここまで。時間取らせて悪かったねぇ」
年配の刑事が立ち上がり、先に部屋を出ていく。若い記録係は俺の方に歩いてくると、スマートフォンの着信履歴を見せるよう促した。隠すものもないため、素直に提示する。そこには確かに先程の兄からの着信の前、昨日の二十二時八分に非通知着信が入っていることが示されていた。
「お時間頂きありがとうございました。本日はもう帰って頂いて大丈夫です。良ければご自宅までお送りしましょうか?」
社交辞令なのか、それとも先程の老刑事の態度に申し訳なくなったのか、そう申し出てくれた。凪冴くんよりやや年上だろうか、短く刈った髪が随分爽やかで勝手に好印象を受ける。せっかくの申し出だが何となく一人になりたい気分だった。警察としては監視の役目でもあるのだろうが、そこは空気を読めないふりをしておく。
「気分転換に歩いて帰りますよ」そうやんわりと断って、部屋の外に出た。
「終わったか」
彩人はまだそこにいた。読んでいた紙の束から顔を上げ、俺と交代で座っていた椅子から立ち上がる。もうとっくに帰っているかとばかり思っていたので、俺は少し面食らう。
「なんでまだいるわけ?」
「お前を待っていたからだ。もう帰るのだろう」
「良かったら帰りに二人でラーメンでも食べないか」なんて言うものだから更に耳まで疑った。二人でご飯? そんなもの今までにした記憶は無い。その上ラーメンなんて、あまりにこの冷めきった兄弟間にしては距離が近すぎるように思えた。
「断る」と言いかけて言葉を飲み込んだ。ここは一旦この男について行ってみようか。いつもは絶対に至らない思考だが、俺はどこか夢心地でいるらしい。何よりこの鉄仮面がラーメンを食べている姿を見てみたかった。
「いいけど、急にどうして」
「少し話がしたいからだ。それに、この辺りに美味いラーメン屋がある。……お前が何味を好きだったか、俺は思い出せないんだ」
「何それ、そんなの知らなくてもいいでしょ。それに思い出すって俺、多分あんたに言ったことないよ、好きなラーメンの味なんか」
「なら、今日教えてくれ。タクシーを拾おう」
今の俺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているに違いない。まくし立てた言葉も、突き放そうとした声色も、この男に吸収されてしまった。兄も随分丸くなったものだ。愛する人が出来たからだろうか、それとも父という抑圧が無くなったからだろうか。昔はその瞳に映ってもいなかった俺の姿が、今は真正面に捉えられているように思う。
「仕方ないな」
先程持っていた紙を鞄にしまい、決定事項のように彩人は歩き出す。俺は遅れてそれを追いかける。今更兄弟ごっこをしたくはないが、向こうは少しでも取り戻したいものがあるらしい。追う俺の姿を捉えた横顔は穏やかだった。
「らっしゃっせー。食券を買って空いてるお席にどうぞー」
活気のある店員の挨拶に軽く会釈し暖簾をくぐる。真夜中だというのにサラリーマンや学生で店内は盛り上がっていた。食券を入口で購入し、運良く空いていた隅のテーブル席へと移動する。
彩人は「誘ったのだから」と先にお金を投入し、俺の分も支払ってくれるようだった。借りを作るようで不服な気もするが、面子を立ててやるために乗ることにした。夕飯を食べたにも関わらず、自分の腹は意外と空いていたようで自然と醤油ラーメンを選択する。多分チャーシューや煮卵を追加するとさすがに食べきれないだろう。
兄は俺の好みを知りたがっているようだったが、実の所俺自身も自分の好みを把握出来ていない。今はとにかく胃もたれのしないものが良かった。
「醤油が好きなのか」
「別にそうでも無いよ、多分。今日の気分なだけ」
彩人はというと、煮干し醤油ラーメンにライスのセットを選んでいた。煮干しの有無でそんなに味は変わるんだろうか。もし美味かったらまた一人で来ればいい。スープかチャーシューか、とにかく肉の脂の匂いが強ばっていた胃を刺激する。とりあえずは自分の頼んだものを待つのみだ。が、しかし沈黙を貫こうと思ったのは俺だけのようだった。席に着くなり彩人は口を開いた。
「親父の葬儀のことなんだが」
「え、あぁ。勝手に決めていいよ。喪主はそっちでしょ。お金足りなそうなら幾らか出す義理くらいは持ち合わせてるつもりだけど」
「金のことは心配しなくていい」
「そう」
つい要らないことまで口走ってしまう。義理なんてあってないようなものなのに。少し気まずくなって黙り込む。やや解けない俺のぎこちなさは恐らくこの聡い兄には伝わっているだろう。黄色い灯りに照らされた二人の影がテーブルに落ちている。
「話しておくべきことが二つある。一つ目は、検死をしてもらうことになった。殺人の可能性もあるとのことだったから当然とも言えるだろうが。だから葬儀の日程はもう少し先になる」
「そっか、大変だね警察の人も」
「そうだな」なんて相槌も挟まないで彩人は続ける。何となくそういうところが気に食わない。とりあえずは自分のことを押し付けてくるような、昔もそんな風だった気がしてくる。
「二つ目は、母に関してだ。あの人にも連絡を入れたんだが、葬儀には来ないつもりらしい」
「……待って、親父の死を知らなかったってことは、今一緒に住んでないわけ?」
「あぁ、五年ほど前に離婚したんだ」
初耳だった。勘当されたのならそれも当然か。母も親父の暴力の被害者のうちの一人だった。外面だけは良い親父は会社では人当たりのいい上司を演じていたが、家に帰るとタガが外れたように暴力を振るった。
主に酒が原因だった。幼い俺は何度も酒を隠したり捨てたりしたものだが、その度に見つかって更にこっぴどく殴られた。割れた酒瓶から零れたアルコールの匂いをまだ覚えている。お陰で俺は大人になった今も酒が苦手で飲めていない。
本当ならもっと早くに離婚していても不思議ではなかった。無力な子供だった身としては、むしろそうして欲しかった。
「……お前には母さんから連絡を入れているものだと思っていたのだが」
「何一つ無かったよ。この街には住んでいるの?」
「いや、もう生家の方へ帰っていると聞いた。俺も長らく会っていない」
「そうなんだ。ねぇ、離婚の原因ってなんだったの?」
「お待たせしましたー。醤油と煮干し、それからライスです」
ラーメンが運ばれてきたため、一旦返答が保留になる。俺たちは目の前のご馳走に目をやり、黙ったまま頷く。立ち込める湯気がそのまま天井に伸びていく。ここは先にこのラーメンを食べるべきだろう。話は後でいい。
「いただきます」
「いただきます」
声が揃う。俺はやや不格好に割れた割り箸を持ち、その澄んだスープに沈んだ麺を掬いに行く。
ラーメンは美味かった。家族が死んだというのに、自分の味蕾は正直らしい。さっき彩人が気にかけていた、「好きなラーメンの味」というのはこれということにしておく。
よく考えれば俺も兄の食の好みを知らない。母が兄のご褒美に作るご飯はいつも、いわゆる一般的なご馳走で、だが特別彼がはしゃいでいる様子などは見たことがなかった。
「……どうだ?」
「美味いよ。意外とこういう店知ってるんだね」
「同僚に教えて貰ったんだ」
「ふぅん。結構良い職場じゃん」
彩人は俺の様子を伺っていたらしく、感想を聞いてやっと食べ始める。二人してそこからしばらく会話もなく、黙々とラーメンを啜っていた。
お互い三分の二ほど食べたところで俺は再び口を開く。そろそろ先程の問いの答えを聞いてもいい頃合だろう。
「それで、親達の離婚の原因ってなんだったの?」
「あぁそれは、その離婚する半年ほど前に父が会社をリストラされたんだ。それで、常に家にいる酒浸り状態の父に耐えられなくなって母の方が逃げ出したらしい」
「へぇ」
あのプライドの塊みたいな人間がリストラなんてされたらそりゃあ今まで以上に荒れたんだろう。兄弟が出ていった後の広い家で、そんな人間と二人だなんて俺も耐えられない。
小さかった頃は母は無条件に父のことを愛していたように思えた。抵抗もせず、「酒を飲まなければ良い人なの」というよくある幻想を口にしていたからだ。俺は父親と同じくらい母親のことも嫌いだった。だがさすがにその母でも父と二人きりでは堪えたらしい。いや、もしかしたらそもそも俺たち子供が彼女の最大の重荷だったのかもしれないが。
あの両親の似ていた部分と言えば世間体を過剰に気にするところくらいだった。
そんな昔のことを考えながら、スープに浮かぶ自分の顔を見つめる。先程の返答以上に話すことがなくなってしまい、俺は会話の代わりに残っていた麺をさらった。見れば彩人の方もラーメンとライスの両方を食べ終えていた。この男、どうやらラーメンにライスを入れず別々に、しかもラーメンを食べ終えてから単体で白飯を食べていたらしい。こういう時はスープにライスを入れるものじゃないのか。つくづく変わった人間だ。
「ご馳走様」
「ご馳走様でした」
二人して手を合わせる。繁盛していた店内もだんだん客の数は減っているようだった。夜もふけ深夜からだんだん朝方に移行する時間帯だろう。店自体はまだ営業を続けるようで、店員は新しく入ってきた客を案内している。
箸を置いた彩人は一息つくと口を開いた。
「……実は俺も親父から連絡を貰っていたんだ」
「連絡って、死ぬ直前にってこと?」
「あぁ。正確に言うとその数日前からメールでやりとりをしていた。『話したいことがあるから会えないか』と。それであの日の二十三時頃に駅前で会う約束をした」
「でも結局会う前に死んだんだ」
「そういうことになる。仕事が早く片付いたから前倒しにすることも出来る、という連絡を入れようとした時くらいに警察から電話があった」
その後すぐに俺に電話を掛けたという。あれから数時間しか経っていないが、もう何日も前のことのように思える。
「どんな内容かメールでは聞かなかったわけ?」
「聞いたが話そうとしなかったんだ。よく分からないことも言っていたし、一度会った方が良いと判断した」
「そう……。俺への電話といい、なんか変な感じだね」
弄んだ箸でスープに浮かぶ葱を掬って口へ運ぶ。青々とした刺激がじんわり広がった。くるくるとそのまま箸でスープを掻き混ぜる。彩人は真っ直ぐな姿勢のまま俺の顔を見ていた。
「そろそろ出る?」
「あぁ、そうだな。今日は急な連絡ですまなかった。また近いうち、葬儀のこと等で連絡をすることになるだろうが」
「そう、分かった」
二人して店を出る。帰る方向は俺とは違うようで、ここで別れる形になった。夜の繁華街は来た時と同じくらい騒がしい。暖簾をくぐった時、彩人は今日初めて会った時と変わらないトーンで「また来よう」と言った。
「気が向いたらね」
俺は濁すようにそのまま帰路につこうとしたが、彩人の方は少し立ち止まった。
「……俺はお前に無関心だった訳ではないんだ」
「急に何。いいよ変にそういうこと言わなくても。俺ももう気にしてないし」
こんな別れ際に妙な空気になるのはごめんだ。いたたまれなくなって立ち去りたい気持ちになる。だが向こうは真剣に俺の目を見ていて、仕方なく足を止めた。
「謝罪とかはいらないから。俺も大人になったから、あんたも子どもで仕方のなかったことだって分かるし」
「だが俺は兄として弟を守るべきだった」
「そうかな?別に兄弟ってみんなそうって訳じゃないよ」
まだ何か言いたそうだったが、俺は先にその言葉を遮った。
「それじゃあまた、葬式で」
「……あぁ」
どうせ近いうちにすぐ会うことになる。以前よりは彩人に対する嫌悪感は無くなっている。ただ、兄弟ごっこをするには急ぎすぎに思えた。俺は少なくとも、まだ単なる知り合いくらいに思いたい。これ以上兄弟の話題をするには少し居心地が悪かった。互いに無言になり、別々の方向へと歩き出す。
人という人が集まって出来ている繁華街の光から遠ざかって、少し寂れた事務所のある通りへと向かう。街灯がぽつりぽつりと浮かんでいる。俺がここに越してきた時よりも随分と静かになったと思う。緩やかにカーブしたアスファルトを進んで行く。
二年前までは事務所の下、雑居ビルの一階部分はスナックだったが、今はもう潰れてしまった。人も街も変わっている。俺だって知らず知らずのうちに変化を遂げていたようだ。
*
事態が進展したのは親父の訃報から一週間後。彩人から俺のスマートフォンに再び連絡が入った。司法解剖が完了したとのことで、葬儀の日程や場所について伝えられた。親父の死は事件の翌日小さく新聞に載っていたらしい。
通夜が明日で葬式は明後日。治安の良くないこの街では葬儀をするにも時間がかかると聞いたことがあったが、たまたま早く葬儀屋が見つかったようだ。俺は午前中をクローゼットの中から喪服を探すことに費やした。幸いこちらも正午になるまでには若干埃を被った状態で見つかった。実のところ見つけるのはすぐだったのだが、探し始めるのに時間が掛かっていた。単純に面倒だったのだ。
昼食を何となくカップ麺で済まして、午後三時。事務所のインターホンが鳴る。「はいはい」と返事をして入口まで向かう。少し埃っぽい扉の向こうには、見覚えのある刑事さんがいた。
「あれ、凪冴くん?」
「どうも。ちょっと話があるんだけど」
原則刑事は二人一組で動くはずだから、今一人ということは帰りだったのだろうか。話ということなら事務所の中へ入るように促す。凪冴くんはどこか落ち着きが無いというか、やや挙動不審に見えるのだが大丈夫だろうか。とりあえず温かいコーヒーでも出すことにした。
「ちょっと座って待っててね」
「良いよ、お構いなく」
「ちょうど今俺コーヒーが飲みたい気分なんだよね。良かったらついでにどう?」
「……じゃあ、お願いします」
こういう時断れないのが彼の美徳だ。彼とはちょっとした冗談を言うくらいの関係性になっている。そろそろ“アレ”の打診をしてみてもいいかもしれない。この街の探偵という職業は少し変わっている。
「はい、お待たせ。ミルクと砂糖はどうする?」
「それじゃあミルクだけ。ありがとう」
湯気の立つカップを俺と凪冴くんの前に一つずつ置く。事務所の応接間にある古びた革のソファに腰掛け、傾聴の姿勢に入る。
「それで話なんだけど。透明さんたちの親父さんの検死結果と捜査の方向性について」
「捜査の方向性?」
不思議では無いが、やや言い方に疑問を覚える。
「うん、先にそっちから話した方がいいかもね。端的に言うと、捜査は打ち切りになった」
「打ち切りってどういうこと? あれは事件のはずじゃ……」
「そのつもりで俺達も捜査してた。検死結果も予測と同じで転落した際の脳挫傷と脳出血。多量のアルコールが検出されていたのも同じ。でも、事故ってことになったんだ。現場を見ていた人の証言によって」
「証言って」
「ちょうどその現場を通りかかった人がいたんだ。その人が自分で滑って転落したって証言してる」
納得が出来ない訳ではない。泥酔していたのであれば、転落することもあるだろう。実際見た人がいるというのであればほとんど確定と言っても仕方がない。それでも。
「だったらなんで透明さんに電話を掛けたのか、ということなんだけど」
思っていたことを先に言われてしまった。つくづく凪冴くんは鋭い人だ。いや、それよりも。そう言うということは、凪冴くんにも疑念があるということだ。
「凪冴くんもそう思う?」
「うん。七年間連絡を取ってなかった人が、唐突に何の理由もなく電話を掛けるとは思えない。上司達はそう思ってないみたいだけど」
「なるほど。それで俺のところに来たわけだ」
「俺も納得出来ないところは多いから」
じっと彼の瞳と焦点が合う。考えていることはまた同じのようだ。この街には、そして俺が生業としている探偵という職には、こんな二人を繋ぐ素晴らしいシステムがある。
「凪冴くん。良かったら俺とバディシステムに登録しない?もちろん、まだ他の人と組んでなければの話なんだけど」
“バディシステム”。それはこの街に住む探偵と、探偵に協力する人間が登録するシステムのことだ。それに登録すれば、警察でなくとも探偵の協力者として事件の捜査が可能になる。そして、警察でも立件されていない事件の再捜査などが行えるようになる。
「喜んで。俺、透明さん以外に探偵の知り合いはいないから。むしろ俺も納得できないままモヤモヤしてるところだったし、是非と言ったところかな」
「良かった。実は俺もまだ登録したことはないんだけどね、まあ手続きは数分あればスマホで出来るらしいから」
「思ってたよりハイテク化されてるんだ」
「そうみたい。じゃあ早速」
顔写真、氏名、生年月日などを入力していく。あとは住民カードをかざして終わりだ。本当にこんな簡単でいいんだろうか。
「これで仮登録はおしまい。後日精査が終わったら正式にバディとして認定されるみたい」
「精査って何かあるの?」
「うーん、まあ書類が間違ってないかとかそういうところだと思うけど……凪冴くんなら間違いなく通るだろうし。大丈夫だよ」
「そっか、そういうことなら安心だ」
「一課の仕事の方はどうするの?」
「並行しながらやるつもり。そこまで大きい事件も最近ないし」
「タフだねぇ」
「これといって趣味がないから」と自虐っぽく彼は笑ったが、かなり尊敬すべきことだと思う。終わった事件の再捜査なんて上司達からは疎まれるだろうし、何より単純に仕事量が二倍だ。彼の優しさには頭が上がらない。
「俺としては話したかったことは以上。明日明後日の通夜と葬儀には出席するつもりだから、またすぐ会うことにはなるかな」
「そうなるね。わざわざありがとう。見ず知らずの他人の父親のために」
「見ず知らずって一応俺から見た叔父だし、昔遊んでもらったような気もするし……。もちろん、透明さんにとってのどういう人だったかは理解してるつもり。ただ、彩人さんに頼まれたんだ」
「彩人に?」
「そう。せめて葬儀には出席して欲しいって。どうもあまり人が集まらないみたいでさ、俺の親達も弟も参列するよ」
「そっか。人が集まらないっていうのは納得だけど、伯父さんも出てくれるんだ」
「ほとんど連絡は取ってなかったみたいだけどね。それでもたった一人の弟ってことで気にかかるみたい」
たった一人の弟。彩人から見た俺はどう映っているのだろう。関係値としては、父親達兄弟とほとんど変わらないはずだった。弟が兄を憎んでいる、というのも。
凪冴くんのお父さんは兄弟の因縁というのを、子供の代では断ち切ろうと凪冴くん達を育てたようだ。お陰で彼ら兄弟は「今でもしょっちゅうご飯に行くくらいには仲がいい」らしい。対して俺達の親というものは、そこのところ全く同じように育ててしまった。自分の身代わりの優秀さを長男に求め、当てつけのように次男を非難していた。
「お礼言っておいてね、当日俺も伝えるつもりだけど」
「分かった。それじゃあ今日はもうお暇するよ」
「うん、わざわざ来てくれてありがとう。また明日」
「あぁ、また明日」
やはり忙しいらしく、足早に凪冴くんは帰っていく。事務所に独り取り残された俺は、くたびれたソファに寝転がった。親の死という事実はまだ実感も無く、そのまま睡魔となって眠りへと誘っていく。
*
結局あのまま夜まで寝てしまって、覚醒したのは夜中の二時だった。俺は十時間も寝ていたらしい。慣れないことをして疲れていたことにする。変に目が冴えてきて、とりあえずシャワーを浴びた。
眠くなるまで本でも読んで、少し眠って、時間になったら彩人達と合流しよう。喪主は向こうだけどいくらか手伝っておくのが礼儀というものだろう。とはいえ作法もよく分からない。いつか依頼で参列することもあるだろうと、喪服と一緒に買っておいた冠婚葬祭マナーブックをぱらぱらと捲った。
夜は生憎の雨だった。生前の親父のことを考えると、俺としては「ざまぁみろ」といってやりたいくらいの気持ちだ。コンビニで途中に買ったビニール傘から見える夜の街は静かで、雨の音がよく耳に響く。
「透明さん。こんばんは」
会場の前で凪冴くんに声を掛けられる。仕事からそのまま来たらしく、荷物は最低限。
「あぁ凪冴くん、こんばんは。まさか雨が降るなんてね」
「予報では今日はずっと曇りって聞いてたからちょっと焦ったよ」
「俺もだよ」
なんとなく漂う緊張を解すように会話をしながら中へと入っていく。家族葬規模で人は少なく、スタッフの人数も必要最低限といった感じだ。
「二人とも、こっちだ」
ふと彩人の声がした。隅から手招きしている。昼間に送った手伝いの有無を問うメールには「不要。時間通りに来てくれればそれでいい」とだけ返信があった。そのため俺はほとんど何も準備をせず、今この場所にも時間ギリギリに立っていた。なんだかんだ顔を合わせても気まずいように思っていたからだ。
「凪冴さん、本日はどうもありがとうございます。明日も来て下さるとかで、伯父さんご夫婦や弟さんももう見えてます」
「この度はお悔やみ申し上げます。すみません仕事で到着が遅れてしまって」
「いえ、お忙しい中来て頂いて感謝します」
「自分は家族の方に合流しますね」
「えぇ」
凪冴くんは俺の方をちらりと見ると「後は兄弟でごゆっくり」と言いたげに、記帳を済ませると足早に去っていってしまった。
「お前も来てくれて感謝する」
「流石に来るよ、実の親父だし」
「……結局再度母にも連絡は入れたのだが、返信はなかった」
「そう。よっぽどもう関わりたくもないんだろうね」
「そうらしい。俺達とももう連絡を取らないつもりかもしれないな」
「それでいいんじゃない?嫌な記憶を思い出すだけだし。俺達もあの人も」
別に逃げたとは思わなかった。それだけ母があの男に浴びせられた罵声と暴力のことを理解できるからだ。俺だって、多分こんな妙な疑念や彩人との再会が無ければ参列していたか怪しい。
「記帳が済んだら奥の部屋に来てくれ。念の為段取りを説明しておく」
「分かった。ここまで諸々やってくれてありがとうね」
「当然のことだから、気にしなくていい。お前は来てくれただけで」
「はいはい。それじゃあ書いてくるから」
彩人から離れて受付の方に向かう。どこかまだあいつとの会話が掴めないでいる。多分向こうもそう思っていて、ぎこちない兄弟の会話は宙を漂っていた。
気が付けばお通夜も葬儀もつつがなく、そして呆気なく終わっていた。葬儀自体は思っていたよりも鮮やかだった。近親者のみの規模とはいえ、集まったのは息子家族と兄家族。孫の顔も見えたとなると一般的に見ると文句のつけ所のないものだろう。俺と親父だけがそこで他者との関わりという色を持っていなかった。最もあの場であいつに近かったのは、紛れもない俺だ。顔を合わせたことのある彩人や凪冴くんも、父や兄、息子としてここでは俺の知らない顔をしている。
通夜ぶるまいも精進落としも親父に関する話題はほとんどないまま、会場には未来へと向かう暖かな光が満ちていた。彩人の子どもの無邪気な声、凪冴くん家族の穏やかな会話。そういったものに俺はどこかいたたまれなくなり、食事を済ませると足早にその場を後にした。雨は変わらず降り続けている。安っぽいビニール傘を開いた。
「帰って今日はもう寝よう」
独りごちて帰路に着く。何となく思い出したのは、親父が最後に掛けてきた非通知の電話だ。わざわざ俺の電話を調べて掛けて、何の話がしたかったんだろうか。あの夜より湿度の高い冷えた風が頬を撫でた。
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