東京の男
@hlnatama
第1話
東京の男
23時50分、いつも使うバス停には相変わらず自分以外の姿はない。違うことといえば突き刺すような、視界を遮るような雨と、そのせいでずぶ濡れになった体。それだけだ。地元では繁華街と呼ばれるような所にしかなかった屋根付きのバス停も、この街では当たり前のように全てのバス停に屋根がついている。
金属で覆われた頭上の1.5m先にはこの空間を孤立させるように、屋根の外へ出ることを許さないとでも言いたげな雨が降っていて、意識などないはずの自然にさえ恣意的な意味を見出している自分を嗤ってしまう。馬鹿馬鹿しい。
23時52分。バスの時間までは後8分ある。することもなく相も変わらずぼんやりとそこらを眺めて、よくよく見てみれば新しく整備されていたと思っていた金属でできたバス停には、所々に錆が目立ち始めていた。使い始めた当初は無かったと思っていたのだが、今の今まで気づかなかったのだ。もしかしたら最初からあったのかもしれない。ただ、20年以上前からあった地元の木製のバス停には、錆などなかったと、何故かその錆を見つけてしまった瞬間責めるように思ってしまって、これ以上考えてはいけない予感に駆られ視線を慌てて下げた。一度動かしてしまった視線は行く当てもなくうろうろと彷徨う
ふと、瞬間視野に鮮やかな赤い花が映る。
雨の景色の中の、擦れた古いカメラのフィルムのような視野の中で一際存在を放つ赤。鮮やかな赤に吸い寄せられる蝶のようにゆっくりと視界全体にその赤を収める。誰かの忘れた、赤い花柄の傘がそこにはあった。女性用だろうか、細いゴールドの持ち手は、レースのようなデザインの傘に散りばめられた、名前も知らぬ大輪の赤い花を華やかに引き立てるようにひっそりと傘の芯で佇み、柔らかな春の日差しのような雨の中、華奢な女が嫋やかな白魚のような手で傘を差しひらりひらりと歩く姿がふと脳裏に浮かぶ。
勿論。この傘の持ち主など知らない。ただ、この傘を見た瞬間、きっとそんな女が持っているのだろうと、そう漠然と思っただけだ。傘を見た瞬間そう思ってしまったのだ。傘の一つでそこまで考える自分にいよいよ嘆息する。ここ最近はいつも、とてもではないが調子がいいとは言い難かったが今日は特に重症らしい。いよいよ思考までおかしくなり始めたかと頭を抱える。
ああ、こんな筈ではなかったのだ。そう、確かに最初に自分が抱えていたのは紛れもなく希望だった。
いつの時からか、自分の周りの環境に嫌気がさし始めた。変わらぬ友人、3時間に1度しか来ないようなバス、地域に一つしかない高校、カラオケの併設されたスナックだけは何店舗もあるような、いわゆる典型的な田舎で生まれ育った。遊び盛りだった自分は勿論友人たちもその環境に不満ばかりが募っていた。そしてきっと自分は周りの人間よりも思いが募っていたのだろう。高校卒業と同時に単身東京へ出る決意をした。
友人には止められた。お前に都会は向いていないと言われうるさいと思った。どうせ地元から離れる勇気の出ない臆病者だから、行動できる己が妬ましいのだと、どこか優越感に浸ってすらいた。
両親にはどこか慈悲の込められた視線を向けられた。煩わしかった。たかが数十年長くこの狭い田舎で生きて来ただけの人間が、まるで私たちはあなたの行く末は分かってるとでもいいたげに哀れんでくるのに心底腹が立った。同時に嘲笑っていた。なんて狭い世界の話をしているのだろうと。
周りに止められ、諭されるほど己の決心は深まっていった。こいつらとは違うとだと絶対に証明してやると思った。そうして言葉通り卒業してすぐに上京した。
初めて見る東京は異国のようだった。見上げるほど高いビルに夜になっても煌々と闇世を照らすネオンライト、祭りの時でさえ見たことのない人数の人たちが常に道路の上を歩いている。ああ、ここが己の生きる場所なのだと、晴れやかな思いが胸の中を駆け巡った。今は浮いている自分も数週間後にはこの軍団の中に溶け込み、きっと彼らと変わらぬ日常を送るようになるのだと、そう信じてやまなかった。
違和感を感じ始めたのは1ヶ月が経った頃くらいからだった。いつまでたっても自分は浮いている気がするのだ。集団の中を同じ方向に歩いている筈なのに自分だけが相応しくない、似つかわしくないような気がする。他の人間たちは何にも関心がないように無表情で、歩みの遅い自分を追い越していく。きっとそこに人を越したなどという認識はない。自分は、この集団の中を一番後ろで歩くことさえ恐ろしいというのに。
職場でもそうだ、同じように上京して来た人間はもう馴染んでいるのに自分だけはいつまでたっても、「地方の人間」なのだ。遠くから来た、日常生活がどこか合わない人。空気が違う人、居心地の悪い人。誰とも親しく話すことなどできずに自分のデスクでさえ借り物のように縮こまって過ごす。
半年後には、仕事を辞めて東京の郊外へ引っ越した。きっとあそこが合わなかっただけなのだと、それでもその時の自分はまだ信じていた。
新しい職場に勤めてさらに半年が経った。相も変わらず自分だけが浮いていた。何故だ?何が違う?周りと自分は何が違うのだ?同じように地方から出て来た同期もいる。聞き耳を立てれば同じ趣味を持っている人間もいる。なのに自分の周りにはいつまでたっても人がいない。いつまでたってもここが自分の居場所なのだと感じることができない。ずっと借り物のような、気持ちの悪い感覚が渦巻いている。
さらに一年たった。馴染むことは諦めた。居場所を求めることを諦めた。重なるように悪いことは起きるものでどうやら上司にも外れてしまったらしい。いつも自分だけが叱られ、仕事を押し付けられ、だんだんと残業するようになっていった。帰る時間が、20時になり、22時になり、やがて23時を過ぎるようになった。自分以外は相変わらず定時に退勤し、この後飲みに行こうか、なんて話をしている。ああ、あの上司さえいなければきっと自分も誘われていた筈なのに!
心身が擦れていき、いつの間にやら最初に抱いていた希望などとうに消え去り、ただ日々を生きるだけの、屍のような存在になっていた。今の自分には希望や夢などない、ただ日々を生きていくだけだ。
久しぶりに鮮やかな色彩など見てしまったからだろうか。上京してからのことが一気に頭の中を駆け巡った。色彩を失ったモノクロの思い出の中で唯一鮮やかな、昔の思い出のように、鮮やかな色。
赤い傘は変わらず、その存在をこちらにアピールするように佇んでいる。こちらを見て、と
23時58分、手を伸ばす。
23時59分、バスが来た。
すっかり馴染みになってしまった運転手がこちらを見てどことなく訝しむようにこちらを見る、正確には己の持つ女性物の傘を。
「いい傘ですよね?今日だけ彼女から借りたんです。うっかり傘を無くしてしまって。」
就職祝いにと両親が送ってくれた時計が午前0時をさした瞬間にピッと時報を鳴らす。己を咎めるようになった音も、もはや意識の隅にすら残りはしなかった。
東京の男 @hlnatama
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